2015/7/31 | 投稿者: pdo


晩年のマイルスがプリンスを高く評価していたことは有名だが、実際に共演したこともあった。

プリンスの居所でもあるペイズリー・パークの1987〜1988の年越しステージにマイルスが飛び入りしたビデオが残っている。



当時は『サイン・オブ・ザ・タイムス』を出すなど、プリンスがそのキャリアの中でもピークにあったと言える時期であり、非常に貴重な記録である。

「It's Gonna Be A Beautiful Night」の最中に紫のスーツを着て颯爽とステージ中央に現れたマイルスは巧妙なソロを吹き始め、プリンスとCATはマイルスに敬意を払うかのように大人しく振付をつけている。

マイルスのソロは今一つ鋭さと烈しさがなく、観客の反応も微妙だ。プリンスが盛り上げるためにスキャット・ヴォイスでトランペットに絡む。両者のファンである目から見ると、この場面はまさに感無量だ。

最後に「ミスター・マイルス・デイヴィス!」とプリンスが叫んだ時に、ほとんど観客の反応がなかったのは少し寂しかった。

マイルスがロックファンに真っ向からケンカを売ったのは70年代初頭であり、この頃のステージは鬼気迫る迫力がある。この時期にジミヘンとの共演が実現しなかったのは残念である。

でも本当に一番好きなのは、アコースティック・ジャズ時代だったりする。

その辺についてはまた改めて。
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2015/7/25 | 投稿者: pdo

村上春樹訳による、『レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫)の中の一篇。

『ダンスしないか?』『大聖堂』という短編が大好きなのだけれど、この『ささやかだけれど、役にたつこと』という短編を読み返して、涙が止まらなくなる。

ストーリーは単純だし、これから読む人の興を削ぐおそれがあるので、敢えて書かないが。。。

この小説の素晴らしさは、最後の段落にある。

誰かのブログの感想で、「この程度で悲しみが癒されることにリアリティーがない」というのを読んだが、作者は決して「癒される」とは書いていないことに注意。

彼は、タイトル通り「役にたつ」としか書いていないのだ。

この原題 A Small, Good thing の Good thing を「役にたつ」と訳した村上春樹は、やはりセンスがあると思う。

レイモンド・カーヴァーの小説は、一見平穏な日常生活の中に潜む「邪悪なもの」(Evil)を描くのが巧い。小市民的生活の欺瞞を暴くようなところもある。

この「ささやかだけれど、役にたつこと」の主人公の夫婦も、ある意味で典型的な小市民といえる。

平穏で満たされた日常生活が、突発的なアクシデントによって、残酷な現実をむき出しにするとき、誰もがこの夫婦のように、衝動的な憎悪と殺意を他者に向けることがある。

しかし、そこで「善きもの Good thing 」の介入、さらに言えば「恩寵」により、憎しみや殺意が中和される、奇蹟的ともいえる瞬間がある。

その一瞬の聖なる化学反応を描いた作品だと思う。

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2015/7/21 | 投稿者: pdo


芥川賞受賞作家、又吉直樹の「第2図書係補佐」という本を買う。

素直におめでとうと言いたい。

又吉は文才があるのは間違いないが、太宰に共通するのは読者へのサービス精神だと思う。

彼はまぎれもない純文学作家だ。純文学の復権に寄与してほしいと願う。

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タグ: 又吉直樹

2015/7/17 | 投稿者: pdo

マイルスについて書くつもりが、これは触れないといけない 笑 と思ったので。

伊藤綾子アナによる北川景子インタビュー

インタビュー自体は割とふつう。二人とも根が真面目なのか。

『探偵の探偵』はまだ見ていません。



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2015/7/16 | 投稿者: pdo

マイルス・デイヴィスの代表作であるばかりでなく、モダン・ジャズの金字塔として、1959年の発売以来、半世紀以上にわたり君臨し続けているアルバム。この作品についての、

マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術
アシュリー・カーン (著), 川嶋文丸 (翻訳)


という本を読んだ。

このアルバムは、1959年3月2日と、4月22日の2日間のセッションで完成した。

収録曲は1曲を除いてすべてファースト・テイクで、6人で完奏した演奏がそのまま収録されている。

メンバーは以下のとおり。

マイルス・デイヴィス - トランペット
ジョン・コルトレーン - テナー・サックス
キャノンボール・アダレイ - アルト・サックス
ビル・エヴァンス - ピアノ
ウィントン・ケリー - ピアノ(2曲目「フレディ・フリーローダー」のみ)
ポール・チェンバース - ベース
ジミー・コブ - ドラム

ビル・エヴァンスは、この作品がマイルスとの唯一のスタジオ録音であるが、含蓄のあるライナー・ノーツを自ら書いている。

その中で彼は、ジャズの即興演奏を日本の芸術である水墨画に例えて、次のように説明する。


「芸術家は薄く伸ばした和紙に特別な筆と黒い水彩絵の具を使い描かなければならない。

その際、動作が不自然になったり中断されたりすると、線や和紙が台無しになってしまう。
途中で線を消したり変えたりすることは許されない。

芸術家は、思考を介入させない直接的な流れに従い、アイデアが手と連動しつつ自ら表現されるようになるまで、特別な鍛錬を積まなければならない。

その結果生まれる絵は、通常の絵画と比べて複雑な構成や質感を欠くが、無心に見れば、説明の要らない何かを捉えていることが分かるという。」



ジャズは一回性の芸術であるという点で、西洋のクラシック音楽とは別の範疇にある。

どんなジャズのアルバムもそうであるように、『カインド・オブ・ブルー』に収められたどの曲も、二度と同じようには再現できない。もちろん、そこで行われた演奏を採譜して、まったく同じように演奏することは可能だろうが、そこにはもうフィーリング(生命感)は失われている。

この再現不可能性と、レコード(記録)の再生という形での無数の再生可能性が、ジャズという音楽ジャンルを唯一無二のものにしている。

『カインド・オブ・ブルー』には、無駄な音が一つも含まれておらず、かつすべての音の響きが関連し合うことで無限の豊かさを備えている、まったく奇跡に等しい作品である。

後年マイルス自身は、この作品では彼の意図する音楽を作り上げることに失敗したと述べている。しかしその発言は、このアルバムで表現された一回性の美の真実を些かも揺るがせるものではない。

マイルス・デイヴィスは、『カインド・オブ・ブルー』という作品を生み出したというだけでも、音楽史に永遠にその名を刻むに十分な功績を果たしたといえるだろう。

しかし、彼は決してその達成には留まらなかった。

すべての偉大な芸術家がそうであるように、彼も自らの作り上げた形式を即座に否定し、破壊することで次のステージに進んでいった。

このアルバムを最後にマイルスの元を離れたコルトレーンは、独自に求道的な方向性に猛進し、同時代のシーンに広く深い影響を与えた。その姿は悲劇的でさえあった。

フリー・ジャズに傾倒していく晩年のコルトレーンの活動を脇目に見ながら、マイルスは、ウェイン・ショーターやハービー・ハンコックなどの若い天才たちと、アコースティック・ジャズの窮極点に達していた。

それについては別に書くことになる。

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