2008/1/24 | 投稿者: pdo

ごきげんナンバーで気分上々 第2回

好きな曲がエレカシの『歴史』って、相変わらず痛いとこ突いてくるなぁ、鳥居みゆき・・・

(この曲を知らない人はぜひここ歌詞を読んでみてください)

『扉の向こう』のDVDは持ってるけど、文句あっか!

頭を掻き毟るのはやはり宮本ヒロジスタイルか・・・

そしてネタの発想について、いかにもな発言がある。

あの歌、盛り上がるところが無茶苦茶じゃないですか。“ここで盛り上がるの!?” “その詞で盛り上がっちゃうの!?”っていう。それがすっごい面白くて、私もそーゆーのやろうと思ってね。みんなが期待している“こうボケるだろうな”と思うところを違うボケ方してやろう、とか。変なところで声デカくしてやろうとか

鳥居みゆきはお笑い界のエレファントカシマシ以上の存在になってほしい。
(最近のエレカシは、正直微妙。)

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ついでに、10年くらい前に書いたエレファントカシマシについての雑文を載せておく。その後もいろいろあったが、基本的にエレカシについての思いは変わっていない。

 10年前にエレファント・カシマシという奇妙な名前のグループがデビューした時、当時高校生だった僕は、「デーデ」「てって」「習わぬ経を読む男」といった曲名に見られる特異な言語感覚、激しい苛立ちと怒りを内包しながらも凛として力強い宮本浩次のボーカル、そしてロックかくあるべしといったハードなサウンドに打ちのめされ、たちまち彼らの虜になった。

 彼らのデビュー・アルバムは非常に衝撃的で、ある意味で既に完成されたといってもよいスタイルを持っていた。このアルバムは僕にとって生活上欠かせないものとなった。
 
その約1年後に発売されたセカンド・アルバムは、1stほどの激しさは失われていた
が、内側に深く沈殿するような面を見せ、後のアルバムに見られる内向的世界を垣間見せる内容になっており、いくつかの楽曲は文句なしに優れていたものの僕にとっては少し物足りなかった。

 3rd以降はアルバムを買うことはなかったが、心情的には日本で最も支持するバンドであり続けた。しかし一部で熱狂的なファンの支持を受ける一方でセールス的には大苦戦し、アルバムを出す毎に、彼らをあくまでも支持するカルト的なファンと一般のリスナーとの間の溝は広まっていった。その間僕はそのどちらにも属さない傍観者的な立場で彼らの動きを見るともなく見ていた。

 しばらくして、レコード会社との契約が切れ、宙ぶらりんの状態になったと聞いた時には、さすがに彼らも終わりかと思った。日本のロックが日の目を見るようになり、巨大なセールスを記録する時代になったとは言え、エレカシのような優れたバンドが活動停止を強いられる状況というのはろくでもないものだと思わざるを得なかった。

 しかし彼らはそこでは終わらなかった。ロッキン・オン・ジャパンの支援を受けて新しいレコード会社と契約し、いくつかの素晴らしい楽曲を携えて復活したエレカシの再デビュー盤と言ってもよいのがシングル「悲しみの果て」であり、アルバム「ココロに花を」であった。それらのサウンドは、これまでのエレカシ・サウンドとはうって変わり、生活に追われて初めて目覚めたかのようなキャッチーな音であった。

 楽曲は確かにより洗練され、歌詞もそれまでのようなアジテーションや懐古的な要素は取り除かれていた。以前のガチガチのハードなサウンドが巷のロック・バンド程度に耳当たりのよいものになった中で、変わっていなかったのは宮本の凛とした力強いボーカルだった。しかしそれは、以前のようにがなりたてるのではなく、より「聴かせる」ことに重点を置いたものになっていた。

 久しぶりに聞いたエレカシは、普通のロックのように聞こえた。サウンドがソフトになり、エレカシらしさが失われたように思われた。復活するために支払わねばならない代償なのかとも思った。事実、宮本は外部プロデューサーを入れて作ったこのアルバムのサウンドを聴いたとき、ウォークマンを叩きつけたということを後で知って安心した。

 しかし、シングルにもなった「悲しみの果て」や「孤独な旅人」といった曲は文句なしに素晴らしく、これからのエレカシの進むべき方向を示しているように思われた。正直、宮本にこれほどソングライティングの才能があるとは思っていなかった。これまでの宮本のエキセントリックなイメージは、これらの名曲を正しく鑑賞するための妨げとなっているようにすら感じられる。

 宮本は何にもまして優れたミュージシャンであり、彼の個性はその付け足しに過ぎないのだ。エレカシはその楽曲の素晴らしさだけで、十分歴史に名を残すことのできるバンドなのだ。そのことをさらに再確認させたのが今度の新作「明日に向かって走れ 月夜の歌」である。ロッキン・オンの山崎氏はこれを「名曲集」と呼んでいたが、まさにその通り、どの楽曲も非常に素晴らしく、もはやロックという狭いジャンルに限定され得ないほどの普遍的なメロディーを持っている。歌詞もまた、よい意味で洗練されてきた。
 
 このアルバムに合わせて出版された「風に吹かれて」という彼らの単行本は、デビューから現在までのロッキン・オン・ジャパンに掲載された彼らのインタビューやディスク・レビュー、身辺雑記等をすべてまとめたもので、10年に渡るバンドの軌跡を辿る決定版とも言うべき内容になっている。その多くの部分を占めるのが宮本とROジャパン編集長山崎氏とのインタビューである。

 僕自身この本の冒頭に掲載されているデビュー直後のインタビューを約10年ぶりに読み返してみて、そのすべての言葉を明確に覚えている自分に驚いた。当時それをいかに真剣に読んでいたかの証であり、彼らの言葉はもはや自分の身体の一部となっている。宮本の語る言葉は今でもその強烈なインパクトを全く失っていない。読みながら何度か爆笑してしまった。ミュージシャンへのインタビューでこれだけ笑えるというのは滅多にないことである。

 宮本のキャラクターはつくづく特異である。普遍的で、本質的には非常に優しいメロディーを生み出す天才的な音楽的才能と、超硬派で過激な潔癖主義、そして同時に自分自身と世界を笑い飛ばすユーモアのセンスが同居している。山崎氏の言うとおり「とんでもなく嫌な奴」でありながら、とても愛すべきキャラクターでもある。

 豊かな音楽的才能と表現力に恵まれながらエレカシが長い不遇の時を過ごさなければならなかったのは、宮本の潔癖主義的な部分が突出しすぎて、レコードを作る上での技術的な稚拙さとも相まって、一般のリスナーに訴える魅力を備えた作品を提示することができなかったことにある。ライブでは客を罵倒し、「分かる奴にだけ分かればいい」を通り越して「誰にも分かるわけがない」と諦めきったかのような態度で超マイペースな活動を行っていた。

 しかし、エレカシは一部のカルト的愛好者たちを相手に自己満足的な世界を保ち続けるにはあまりにも器が大きすぎた。宮本の個性、才能のスケールは桑田佳祐や忌野清志郎をも超えていると思う。しかし今まではそれを分かりやすく提示する方法論も技術も経験もなかった。忌野清志郎が脚光を浴びたデビューからどん底の時期を経て「ラプソディー」で華々しく復活したように、宮本もまた「ココロに花を」「明日に向かって走れ」を契機に快進撃が始まるだろう。

 アルバムの最後の曲で、ドラマの主題歌にもなっている「今宵の月のように」はこれまでのエレカシの最高傑作と多くの人が認めている。まっすぐで伸びやかなメロディーを唱歌のように朗々と力強く歌う宮本。「くだらねえとつぶやいて さめたツラして歩く いつの日か輝くだろう あふれる熱い涙」という冒頭の歌詞が今のエレカシのスタンスを象徴的に表している。
 
 この矛盾した内容をすんなり聴かせることができるのは宮本の才能である。今後、ここに笑いの要素を加えることができれば言うことはない。その場合宮本には天然の気があるので、桑田や忌野の歌詞に含まれる皮肉なユーモアとは一味違ったものになろう。今でもその片鱗は伺える。

 新作のプロモーションでメディアに露出する機会の多い宮本だが、彼がTVで放つ独特の違和感は特筆に値する。彼の過剰なエゴが絶え間ない注目を要求し、単にTV慣れしていないというだけでは済まされない、あのような落ち着きのない動作につながっている。

 彼の場合、本番中に物を壊したり過激な行為をしても、「見てはいけないものを見てしまった」というような後味の悪い思いを引き起こさないという得な性格を持っている。後味の悪い思いをするどころか、爆笑を誘うのが通例のパターンである。泉谷しげるに似ているが、もっと生の感情から来ている。

 宮本の書くメロディーは、日本人の心の琴線に触れるようなツボをよく心得ており、極めて日本的な旋律である。「悲しみの果て」や「孤独な旅人」そして「今宵の月のように」といった曲を聞いて分かる通り、極めてまっすぐで稟とした、そして適度に感傷的なメロディーラインは日本人としての懐かしい感情に訴えてくる。歌詞にも英語はほとんど出てこないし、出てきたとしても極めて日本人的な文脈の中で使われており、いわゆる「バタ臭い」部分は全くない。

 宮本は「生活」というアルバムを「メロディーの宝庫」と考えているらしい。明治時代の唱歌を思わせるようなメロディーと「遁生」「偶成」「晩秋の一夜」というタイトルからも分かる通り、明治大正文学のような語彙の羅列は、確かに宮本の真骨頂であり、その世界をとことんまで究めた結晶のような作品である。「月の夜」が特にいい。ただしアルバム・ヴァージョンではボーカルの粗雑さのためにメロディーの美しさと歌詞の叙情性が損なわれている。新作の「月夜の歌」は同系列の曲であるが、こちらの歌い方はより洗練されている。

 ROジャパン12月号のインタビューで宮本は、新作がオリコン初登場2位、年末までの売上見込50万枚という数字に決して満足していないと語っている。彼はどうやらとてつもなく高い所を狙っているようで、それこそ「国民歌謡」「現代日本を代表する大衆音楽」の域に達するまでは満足できないらしい。相変わらずの自意識過剰ぶりが伺える。

 彼の自信は大いに結構だが、実際彼の書く曲のレベルが彼の望む領域に達しうるだけの質を持っているかどうかは正直疑問が残る。「今宵の月のように」は確かに名曲ではあったが、誰かが指摘していた通りメロディー自体はかつての青春歌謡の使い回しで、エレファントカシマシの真骨頂である「これは」という斬新さとインパクトは感じられない。歌詞にしてもいかにも中途半端な印象を与える。

 12月にはエピック時代の7枚から選曲したベスト盤が発売される。この時期に出すのはいかにも商魂見え見えの感が否めない。1枚目から7枚目を振り返って、自分なりにベストの選曲をしてみたら、次のようになった。

 @習わぬ経を読む男       F無事なる男
 Aおはようこんにちわ      Gおまえの夢を見た(ふられた男)
 B上野の桜           H奴隷天国
 C珍奇男            I東京の空
 D男は行く           J涙
 E月の夜            K寒き夜

 宮本浩次は1997年12月19日の深夜「タモリ倶楽部」に出演し、江戸の古地図を頼りに東京の街を巡るという企画に参加した。タモリとは「ミュージック・ステーション」で何度か共演したことがあり、宮本の扱い方を心得ている彼はツボを押さえたやりとりをしていた。

 宮本はもう一人の共演者元キッチュと絡む気は毛頭なく、タモリと元キッチュがやりとりしている間はそっぽを向いてつまらなそうな顔をしていたが、自分が喋る段になるとがぜんはりきって持ち前のオーバーアクションと共にわめきたてる。彼の言うことはいちいち面白いのだが、どうも自意識過多というか、いわゆる「お笑い」の型からは外れた性質の笑い(苦笑と呼んでもいい)を引き起こす。

 これを見た誰もが彼の特異なキャラクターを頭に焼き付けたことだろう。ガキのような態度に呆れ、不愉快な思いをした人もいるかもしれない。へりくだった態度の裏にある自意識に辟易した人もいるだろう。うさんくさい危ない奴という印象は誰もが受けたことであろう。正直今の宮本浩次にはテレビの世界は似合わない。とても安心して見ていられない。しかしだからこそもっと出てほしいとも言える。
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