俺はまぁ考えなしに行動しているわけではないが、昨日あたり梅田の歩道橋で外人に道を尋ねられた。
もちろん英語で。
全く耳に馴染みのない言葉やったからこういってしまったわけや。
“Sorry,but I have no idea.”
一応相手に悪いから即答じゃなくて、申し訳程度に思いを巡らせるふりはしたが。
誰もがいつも考えをもって行動しているというわけではなく、計画を立てたつもりでも行き当たりばったりになることは多々あると思う。
人には三つの動く力があって、一つは計画力、一つは行動力、もう一つは適応力。
計画力は事前に物事の成り行きをある程度想像し構築する力。
行動力は多少強引でも突発的でもその計画に沿った道筋を辿る力。
そして適応力とは、計画や行動の果てが思いもよらない行き止まりに突き当たったときの応用力。
この三つの中で一番大切なのはもちろん三番目。
人々は路頭に迷ったとき他人の計画性のなさを罵るけれど、真に恨むべきは己の適応力の無さやろ?
その点俺たちは一握りの計画基盤の上でも適応力を余すところなく発揮しているねんから情状酌量やろうね。
考え無しにここまで書いて、自分が何言ってんのかわからなくなってきたわけやが、知らないのと考えが無いのでは大違いということ。
物を訊かれてI don't know.では大変な失礼にあたる。
日本人は礼節を重んじる民族でる。最近の若者の危険な行動には専ら適応力ばかり発達させているという背景が存在する。
動きのいろはの第一にまず考えるということが如何に重要なことか、これを学校では教えていないのではないか。最近こう思うようになってきた。
ゆとりの適応力野郎ばかり輩出する社会に問題がある。
なにも受験のためだけに勉強しているわけではない。本来は頑丈な計画性と豊かな先見性を育てるための勉学であろう。
ところが学校側はどうだ。生徒に受験のために勉強をしろと言う。しきりに煽り強制する。勉強本来の目的を教えていないのだ。
よく社会が悪いなどと責任を煙に巻いた言い方をするが、学校も一つの社会。問題だ。
風林火山などという言葉が出てきたのも、そもそも戦に勝つという目的があったからで、目的とはつまり計画と同義。
目的が霞んで見えぬ、というよりは見えなくさせている時代になってきているのではないだろうか。
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っていう文章を即興で書いたんやけどなんのことやねん(笑)
自分でもあんまりわからんものに仕上がってしまった。まぁそういう視点もあるねんな的な程度に見てください。
今気付いたけど長いな・・・。