6月26日(水)の24
10:42 写真1の高札
高札の解説
案内板
「 高札の解説について
この高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。
この田村川橋ができるまでは、この橋から約六百メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人か多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。
そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め 、今 までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。
『この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである(旧暦には閏月があり、この年は12月が二回続く)。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物 を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである』 」
という案内を読んでから、真新しい海道橋を無量で有り難く渡らせていただきました。
渡ると、広重の「春の雨」の絵が掲げられていました。(写真3)
その広重の絵の下の説明文。
「 歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833年)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。
土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22 町 55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775年)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。 」
本日の25に続く


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