10月29日(木)の8
細畑(ほそばた)の一里塚
案内板
「 細畑の一里塚
一里塚 とは、旅人が道程の目安とする
ために一里(約三・九キロメートル)ごとに設置された標識のことです。道の両側に一対の土盛りの塚を築き、多くはその上に榎が植えられました。慶長九
(一六〇四)年より、徳川幕府 が東海道 ・中山道 などを整備した際に全国的に
設置されており、細畑の一里塚もこの
時に築かれたようです。
細畑の一里塚は、中山道の鵜沼宿
(現:各務原市鵜沼)と加納宿 (現:
岐阜市加納)の間につくられました。
道の片側のみが現存している一里塚が
多い中、一対の形で残っていることは
珍しく、細畑周辺の中山道の風情を
よりよく今に伝えています。
平成二十九年十二月
岐阜市教育委員会 」
両塚残っているに、史跡に指定されていないのは復元だからなんです。
でも、街道歩きをしていると、両塚あるだけで嬉しいものです。
加納宿に入って目につくのが、二文字屋。
二文字屋(にもんじや)webサイトより
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創業は江戸時代初めの元和六年(1620)。岐阜城下より移り住んだ上野長七郎が、「町年寄」として中山道加納宿に「二文字屋」の屋号を掲げ、「御勅使、大名高家」の「御飛脚使宿」として、お茶料理をはじめたことに端を発します(歴史研究家:佐藤哲雄氏調べ)。
以来、十三代目当主に受け継がれる今日にいたるまで、川魚料理・日本料理と「二文字屋」の暖簾を守り続けてまいりました。
現在は、うなぎと懐石料理を主力とする事により、多くのお客様に愛される老舗として、日々精進しております。
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案内板
「 【左甚五郎とウサギの欄間】
昔、当店のあたりは中山道 加納宿 でございました。
当店の初代 上野長七郎がこの場所で旅籠ニ文字屋を始めましたのが元和六年今から三百七十五年程前のことでございます。
月夜に川原で餅をつくウサギはご存知左甚五郎 がニ文字屋 に泊り彫ってくれた欄間でございますが、火事のとき欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられます。
十二代目 当主 」
この案内板には12代当主とありますが、さっきのwebサイトでは十三代目当主とあるので、案内板を書いたのは先代で、今は既に代替わりしているんですね。
店先の池の鯉が大きくて綺麗です。
この後、本日の終点岐阜駅まで歩き、 岐阜駅内のレストラン街で南インド料理の店のカレーを食べました。
そして、新快速や鈍行を乗り継いで、大阪へ向かいました。


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