6月14日(金)の38
12:03 二つ目の川俣神社のところに、中冨田一里塚跡があります。
中冨田一里塚の案内板はメタリックみたいな地の案内板(仮にこちらを案内板1とします)と、黒地の石板っぽい案内板(仮にこにらを案内板2とします)、ふたつの案内板が立っていました。
中冨田一里塚
案内板1
「 一里塚は 慶長九年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。
江戸 日本橋を起点として、三十六町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。
享和三年(1803年)に作成された『東海道亀山宿分間絵図』によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
その近くに『御馳走場』と書かれた家があり、当時 東海道を往来する大名行列を接待する場所であったと考えられ、現在も『東百里屋(ともりや)』という屋号で呼ばれている家がある。
この地から江戸へ約百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられる。
平成十三年十月
中冨田一里塚保存会
(東海道宿場伝馬制度四百周年記念)」
案内板2
「 中冨田一里塚
中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。
享和三年(1803年)に作成された
『東海道亀山領分間絵図』には、中冨田村川俣神社東隣に街道を挟んで『一里塚』が描かれている。大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。
平成十三年十月
中冨田一里塚保存会
(東海道宿場・伝馬制度制定四百周年記念) 」
本日の39に続く


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