荻野吟子先生との再会

2013/12/1  21:21 | 投稿者: 江夏 亜希子

あっという間に12月ですね。かな〜り、久しぶりの、まともな更新です。
この12月でこのブログも開設まる9年、年末からは10年目に入ります!
こうして思いついたところで更新していきますので、ぼちぼちお付き合いください。

さて、今日のお話は・・・日本の「公認」女性医師第1号、荻野吟子先生の話。
先週、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられたので、ご覧になった方もいらっしゃったかと思います。

私が荻野吟子先生のことを知ったのは、医学部進学を目指し、日々、追い詰められていた(?)高校生の時。高校の図書館で渡辺淳一作の「花埋み」(荻野吟子の生涯を追った伝記小説)を読んで、でした。

嘉永4年(1851年)生まれの彼女は、武蔵国俵瀬村(現在の熊谷市)の旧家の娘として生まれ、幼少期から賢く男兄弟と一緒に学問も修めつつ育ちます。
18歳で近くの町の大名主の家に嫁ぎますが、夫から淋病をうつされ、子供を産めない体になり、離婚。
その治療のため東京に出てきて、初めて西洋医学的治療を受けるわけですが、その時に男性医師から内診を受けることに苦痛を感じ、医師になることを志します。
しかし、当時は医師になることは狭き門だったうえ、女性にはその道は開かれていませんでした。前例がないから、女に医師なんかなれるわけがない、女性は体力がないから、妊娠・出産の間は仕事ができないから・・・などの理不尽な理由で。
彼女は制度改革に奔走し、ようやく受験を許され、1885年に医術開業試験に合格し、東京・本郷湯島三組町に荻野医院を開業し、多くの女性たちの診療に当たりました。

・・・そんな話は、もちろん高校の時、そして大学の時にも何度も「花埋み」を読んで知っていたのですが、そういえば医師になってから読み返したことはありませんでした。
熊谷出身、ということも、そういえば忘れていました。

今回、ヒストリアで久しぶりに彼女の話に触れ、女性医師としてもう一度彼女の人生を見直してみたいと思いました。本はおそらくクローゼットの中の段ボールの奥に入っていて、すぐに出せそうになかったので、久しぶりに予定のない日曜日の今日、熊谷市立荻野吟子記念館をふらっと訪れてみました。

熊谷と行田の間の、田園地帯の奥、利根川の土手縁に記念館はありました。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します


残念ながら内部は撮影禁止でしたが、
室内の壁3面に彼女の一生が年表で示されていました。

名主の娘として不自由なく育ち、大名主の家に嫁ぐときには、娘なりの夢を抱いていたこと。
性感染症をうつされ、子供を産めなくなって離婚し実家に帰り、闘病。
その中で医師になることを志し、学問を修める大変さに加えての、女性であることへの偏見との苦闘。
医師となってからは、女性の苦しみと向かいあう中で苦悶し、女性教育の大切さに目覚める必然。
そして、13歳年下の宣教師と恋におち、北海道へ理想郷を作るために一緒に渡ります。
子供を産めないことに引け目を感じ、養女をもらい、育てるとともに、
女性教育に力を注いていましたが、
夫に先立たれて東京に戻り、医院を開業。
1913年(大正2年)、63歳で没。

もう一度、医師という「同業者」になってから彼女の人生をなぞってみると、
高校生の時、大学生の時に読んだのとまったく違う感慨がありました。

彼女の苦闘、苦悩の足元にも及ばないし、比較するのもおこがましいのですが、
もし、彼女の人生を知らずに医師になっていたら、こんなに強くは歩めなかったかもしれないな?迷った時に、敢えて険しい道を選ぶようなことはなかったかも?と思いました。
私は学生の時に彼女の生き方に感動したことに恥じないように、
必死で医師として仕事をしてきたと、胸を張って報告できるかな?
その結果、こうして東京で仕事をさせてもらっているのかもしれないな〜とぼんやり思ったのでした。
きっと、「日々の診療だけじゃなく、教育にも力を入れなければ」という発想も、
大きく影響を受けてたんだろうな〜と。

奇しくも、私が医師になることを志すのに大きな影響を与えた祖母が生まれた年が、
彼女が夫と死別して東京に戻った年、明治41年だったようです。
祖母は、男兄弟みんなが医師になる中、自分も医師になることを夢見て、
女学校も優秀な成績で卒業したのに、「女だから」という理由で許されず、江夏の家に嫁いできた人です。
幸い、祖母はそこで夫との仲もよく、子供にも恵まれて一生を終えますが、
末孫の私に「これからは女も職業を持つ時代だ、がんばって医者になりなさい。女でも医者になれる時代に生まれた貴女がうらやましい!」と、ずっと言い続け(もちろん、ブリブリの都城弁で(笑))、私が医学部に入学した年の12月に亡くなりました。

そういえば、私の祖母より5歳くらい年上の天才詩人、金子みすずさんも、離婚の原因に夫から淋病をうつされたことも入っていましたね。

こうした女性たちのつらい歴史から目を背けず、
当たり前が当たり前じゃなかった時代が長かったことを考え、
現在私たちが与えられていることの大切さを見つめ、先人たちの苦労に感謝することは
やっぱり大切なんじゃないか?と。

ヒストリアで紹介されていた、彼女が書いた手紙の一部。(現代語訳)

男尊女卑の風潮は
婦人が職を持たないで経済的に自立せず
そこに安住していることに原因があるのではないでしょうか
もし自分たちの本当の力を知ったなら
女性も自らの価値を
悟ることができるはずです

私より120年前を生きていた荻野吟子さん。
私も含め、現代を生きる多くの女性たちが、
今でもまだ、同じようなことで毎日思い悩んでいるということを、
どう見つめていらっしゃるのでしょうか?

それから、現在の女性医師事情。
医学部に進学・卒業する女性医師が3〜4割になったというのに、
仕事と結婚、妊娠・出産を普通に両立することに、多くの女性医師が四苦八苦、七転八倒していることを。
私などのように、仕事に邁進してきた結果、子供を産むことができなかった女性医師が、それを自分のなかでなかなか消化できずに苦悶していることを。
そして、資格を取った後、仕事から離れてしまう女性医師が多いことが問題になっているのを。

なんか、申し訳なく思ってしまいますよね。

私だって、10年後、20年後の後輩たちに、「女性だから」っていう気持ちは味わって欲しくはないです。自分が苦労したことは少しでも道を均してから後進に渡したいし。
いろいろな理由で、現場を離れている人たちには、職業として医師を選んだのなら、男女限らず、石に齧りついてでもやっぱり続けて欲しいですよね。どんな形でも構わないから。
その覚悟がないなら、最初から医学部を目指さず、覚悟のある人に道を譲ってほしい・・・。

女性の自立が遅々として進んでいない原因って、やっぱり私たち女性の心にあるものが大きいんじゃ?と私も思ってしまうんですよね。
男性のせいとか、社会のせいとか、教育のせい、とかにしてしまっている限り、
「自立」はできないんだと思います。

さあ、自分にできることはなんなのだろう?しなければいけないことはなんだろう?

と、いろいろと頭に浮かんできました。おいおい形にしていければ、と思います。


なんと、記念館前の「吟子桜」が1本だけ咲いていました!
係りの方に尋ねると、冬に咲く桜なんですって。

クリックすると元のサイズで表示します
10




※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL





AutoPage最新お知らせ