★【恵み集会】★
(コンセプト)
「天の下」は 全て 教会 なのです(賛否ありましょうが)
主は 聖霊 と なって どこにでも 偏在 してくださっています。
どんな 時にも 主は 共に 居て くださっています。
神様 からは 無駄な 人などは 誰 一人 いません。
●全ての 人は 神様 から 愛された 求められた 存在 なのです。
(対象)
★教会に 通っていない方々
★わけあって 教会から 現在 離れて いられる方々
★霊的な 枯渇に ある方々
★経済的困窮で 献金できず 負い目によって 教会から離れている方々
★仕事で 礼拝に いけない方々
★病の中で 病床の中で 礼拝を 止むを得ず 守れない方々
★異端の宗教から 離れて 主に導かれて 来られた方々
★クリスチャンではないけれど 聖書に 関心を もたれてある方々
★求道中の方々
(現実的に これらの要因は 存在しています)
上記のように
主の 教会から 一時 そして 長期に 離れている方々
その逆に
主を 切に 求めて あられる方々も
主を 求めても 教会での 礼拝を 止むを得ず 守れない方々も
共に ここで 集いましょう。
● 主は どのような方でも 等しく 全て 愛されて います。
主の教会で
何か ありますと
主の 十字架のみを 見上げれば いいと
そして
人を 見るべきでないと 言われつつも
人によっては 個体差 によって 繊細な方も 居られます
私は 耐えられますからといって 皆が そうではない時も ありますし
それは 信仰が 薄いと いうことでは ありません。
だから ケース バイケースで 対応を 求められて いきますよね。
教会は
一般に 聖なる人の 集まる所と 思われがち ですが
実は そうではなくて
主を 求めて 来られてある 欠けた方達の 集まり なのですよね。
極論を 言えば 罪人の集まり なのですよね。
そこには
人の 弱さも 当然 集まる時も あります。
それゆえに
はじかれる人も 傷つく人も いたりします。
ある程度の 信仰 に 満ちた時
それらも 理解 できるように なりますが
そこに 達していない時
少しの 休養も 必要と なる方も 居られることは 事実 ですから
それは 愛を持って 認めて あげるべき ですよね。
教会とは
イエス様の 体であり
希望 喜び 感謝 の中にある 祈りの家 です。
そこに 繋がっているためにも
しばしの 休養が 必要な 時も あります。
これは 賛否 ありましょうが
素直に 認めて あげたい ですよね。
無理に 留まるときに 心の病に 陥ったり
信仰から 離れる ケース に なる からです。
それでは 証 にも なりません。
それゆえに しばらく 見守る 環境も 必要 ですよね。
伝道も 確かに 大切ですが
このように
迷った一匹を 捜し求めることも 同じく 大切 なのです。
● 伝道における 二つのタイプ
教会&教職者も
そして
信徒も 共に 伝道には 二つの タイプに 分けられるという
内容が 書かれてある ある キリスト教の関連雑誌が ありましたので
ここに 要点だけ それを 引用させて いただきます。
伝道には 二つのタイプがある。
第一のタイプは
愛を豊に実践し キリスト者とは 素晴らしい人たちだと思ってくださった人たちに
やさしく 自然に 福音を 語っていく 穏和な道である
第二のタイプは
異教 邪教 邪説 に 対し
真っ向から 福音の真理を語って
論争や 迫害 反対にも 屈せず
力強く 福音を推し進め 切り開いていく道である。
パウロは 第二のタイプの伝道者で 開拓者的な人物であった。
伝道には これら 両方のタイプが必要である。
第二の 力強く 福音を 推し進める 開拓者的な 伝道者が いなければ
福音は 決して 大きな前進を見せない。
また
第一の 穏和な道を 実践する 伝道者も いなければ
福音は 決して 人々に 根付かないのである。
以上
私は
この 書かれてあることに、いたく 共感しました。
それと共に 関連して
信徒の方たちの ご性格も
この 二つに 分かれることも 事実ですから
ふと
所属の 教会の方針に 環境に、
それゆえに 適合できない人が 現れても 致し方ないと 思いましたし、
教会と 信徒様が
それぞれ
どのような方向性を 持ってあられるかと いうことが
ミスマッチを 現実に 多々 起こさせているのだろうと 思いました。
教会を 変える時
変えようと思うとき
信徒は
自分が 間違った行為をしていると 思ったり
仲間の信徒様も どこの教会に行っても 同じよ
果ては
教会を 変えるなんて いいことじゃないわと
潜在的な 圧力をかけて こられるときも ありますが
私個人は
教会を 変えることは、
決して 悪いことではないと 思いますし
どんなに きれいな事を言っても
やはり
その各人の 性質 賜物によって、他の教会のほうが
適合する時も 現実に ありますから
この事実を しっかり踏まえて、
また
上記の 各教会と教職者のタイプによって、
どの 性格の教会&教職者を 求めるか
祈りつつ
自分の性格 性質を 考えて じっくり吟味して
かかわっていこうとする 教会を
ゆっくり 探し求めれば いいと 思いました。
人は
いろいろなな 考えが ありますから
当然ながら 賛否は ありましょうが
こと
私個人は そのように 思いました。
教会の メンタルな意味での バリアフリーも 求められていますよね。
そして
教会も 教職者も 信徒も それらに 遭遇する時
特に 信徒様が
転出されるときに
離れていかれる時に
この 該当の教会に 多いと 思うのですが
まかり間違っても
その方たちに 追い討ちを かけるように
放蕩息子 放蕩娘 呼ばわりは
決して なさらないことです。
むしろ
新しい 牧場での 祝福を 願って 祈って あげましょう。
私たちが
真のクリスチャンか そうでないかが
それらの時に 特に 試されるものです。
※どうぞ この 「恵み集会」で 共に 主を 礼拝 致しましょう※
(尚)
ここに 集う方達は 誰でも 「恵み集会」の メンバーと 致します。
宜しく お願い 致します。 m(__)m
【参】
「恵み集会」は 既存の教会を 決して 否定 するものでは 有りません。
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★【主の教会で 多々起こりえる問題点と 躓き】★
ヤコブの手紙より
2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じ
ながら、人を分け隔てしてはなりません。
2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、ま
た、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛
けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたし
の足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下し
たことになるのではありませんか。
2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて
選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさ
ったではありませんか。
2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたが
たをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではな
いですか。
+++
教会の中で問題を引き起こしていたことのひとつは、
言葉による争いでしょう。
そして、
それと同じくらい
「金持ちに対する極端な優遇」という「えこひいき」
が深刻な問題を 起こしていたのだろうと 思います。
1)社会における差別の存在
残念ながら、社会には格差があり、差別が存在します。新約聖書が書かれていた
当時、奴隷の数は一般市民の数をはるかに超えていました。奴隷はいわば、人間
の顔をした家畜として生存していました。そこには明確な差別がありました。金
持ちの豊かさと奴隷の貧しさは天と地ほどの違いがありました。また、当時、女
性と子供は人数に数えられることはありませんでした。大切なのは、成人男性だ
けなのだという風潮が存在していました。男尊女卑の空気で充満していたのです。
今の平等意識と同じ状況の出来事として聖書を読むのは困難です。
差別が当然という社会だったからです。
2) 教会における人の見方
そういう背景の中で教会は、当時の社会では本当に珍しく、奴隷も主人も、男性
も女性も横並びで神様を礼拝できる場だったのです。
イエス様を信じた人達は、互いに神様の家族の兄弟姉妹という自覚が育てられ、
そこには社会の格差の入り込む余地はないはずでした。
しかし、豊富な財力と社会的経験の豊かな人たちが、いつの間にか、自分たちの
居心地を良くするために純粋な神様への礼拝の場を政治的な場、社会と同じシス
テムで機能する場に変えていってしまいました。
ヤコブはそのことを危惧しているのです。
人間はすべて、神の前には貧しい存在なのです。
どんなに財力があっても、神の前には「霊的破産者」なのです。そういう存在だ
ったからこそ、イエス様の贖いによって救い出され、神の家族に属することがで
きるようになったのです。
もちろん、いくら頑張ってもある人たちのように振舞うことはできないし、ある
人たちが持っているようなものを所有することはできないかもしれません。でも、
それとは別の次元で、その人たちと横並びで立てる場所があるのです。それこそ、
礼拝の場であり、教会の交わりがそれです。
3)教会の中でのありかた
私たちは社会的な豊かさを優越感として教会に持ち込まないようにすべきです。
これは、社会的に豊かな財力や地位を持っている人たちにとっては難しいことか
もしれません。どうしても、威張ったような立ち居振る舞いが出てきてしまいや
すいからです。また、教会でも財力を目当てに媚びることのないように注意しな
ければなりません。
もし、教会の中に「貧しい人たち、何も持ってない若者たちが教会に押し寄せて
来ても、面倒なことばかり起こるし、手がかかるだけで献金も集まらない。むし
ろ、金持ちが数人来てくれてその人たちが多額な献金をしてくれれば、悩みは少
ないだろうし、その教会は祝福されるだろう」などという考えを持ってしまって
いるとしたら、そこには深刻な差別があることに気づいていないことになります。
ある程度の経済上の安定を経験すると教会は現状維持を考え、どちらかといえば、
豊かな人たちへの優遇をより大事なこととして考えるようになってきます。また、
そういう人たちの意見をより大事な意見として取り込む癖が出来てしまうことが
あるのです。
しかし、それでは教会の材的発展はあるとしても、その純粋な礼拝の心が教会か
らなくなっていきます。
4) 差別は神への冒涜となる
弱者を大事にするあまり、金持ちを差別していることになると感じる人もあるで
しょう。
しかし、1万円の献金をひとりでささげてくれる人がいることは素晴らしいことな
のですが、教会全体の成長を考えるとその1万円の献金を10人が千円ずつ喜んでさ
さげることを学ぶことが大事なことなのです。あなたの豊かさが、他の貧しい人
たちの献金の心を失わせたり、劣等感を感じさせたりしないようにという配慮が
必要なのです。
だからこそ、献金は無記名で人に知られずささげることが大事なことになります。
有名な話ですが、
カリフォルニアの教会に、ある時期、浜辺でサーフィンをして
いる若者たちが集会に押し寄せて来た時期がありました。若者たちは多くはヒッ
ピーのような生活をしており、砂のついたサンダルやはだしでやってきたのです。
その教会の長老たちは、その会堂にきれいに敷いてある絨毯の汚れを気にして、
サンダル禁止、はだし禁止、守れない人は集会出入り禁止にしましょうと牧師に
進言したのです。その教会の牧師は、「若者たちが絨毯のせいで集会に来れなくな
ってしまうくらいなら、それをはがして、若者が来れるようにすべきです」と若
者を弁護しました。実際にそれをしたかどうか、私は知りませんが、その決断と
その意識は、アメリカにおける「富裕層だけの教会ではなく、若者や貧しい人た
ちも安心していられる教会」としての位置づけをはっきり示すものでした。
アメリカの教会にはトイレの中にまで分厚い絨毯が敷かれているところがたくさ
んあります。それは彼らの文化そのものという感じがします。
間口の広さは大事です。誰も軽蔑されずに、そこにいられる礼拝は大事です。
文化による壁、伝統による壁、社会的通念からの壁、いろいろな壁を私たちは教
会の中に造ってしまう危険性をいつでも持っています。
一緒に礼拝し、一緒に祈り、一緒に聖餐を味わい、一緒に御言葉を聴き、喜びと
共に別々の場所に意欲的に帰っていく、そういう循環を可能にする教会にこそ神
さまの祝福があるのです。
祝福がありますように。
ヤコブの手紙
2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさ
い」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、
律法によって違犯者と断定されます。
2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべて
の点について有罪となるからです。
2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そ
こで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯
者になるのです。
2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、ま
たふるまいなさい。
2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐
れみは裁きに打ち勝つのです。
+++
教会の中で「人を分け隔てしてはならない」という教えが前に書かれて
いました。今日はその続きです。
1) 隣人を自分のように愛しなさい。
この言葉は最も尊い律法と呼ばれており、教会においても社会において
もクリスチャンの行動規範として大切に実行されるべきものです。
しかし、福音書を見ると、この教えは決してこれだけ単独で教えられて
いるわけではありません。
この聖句には以下のような背景があります。
マタイによる福音書からの引用です。
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込めら
れたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽く
して、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛
しなさい。』
サドカイ派というグループは、律法学者集団であり神殿を維持し、神殿
での奉仕を大事なこととして神に仕えてきた人たちです。彼らはしかし
復活などについては信じていませんでした。他方ファリサイ派の人たち
は、その働きの場を神殿ではなくあちこちの会堂や一般民衆の中に置い
ていました。サドカイ派は神殿管理のエリート集団であり、ファリサイ
派は民衆を教えるという庶民派の集団だったのです。しかし、そのふた
つとも律法的、掟的な縛りの中に生きていました。そこには決まりを守
るという姿勢しかなかったのです。
自発的な、犠牲的な愛よりも規則的な戒めがあるから、とにかく「実行
する」という「義務」で生きていたのです。
ファリサイ派の人たちからの質問がイエス様に投げかけられました。そ
の心には悪意がありました。「律法の中でどの掟が最も重要なのでしょ
う」イエス様は、ファリサイ派の人たちが毎日唱えている言葉を即答し
ました。旧約聖書申命記6章5節の言葉を少し変えて答えたのです。しか
し、イエス様はそれだけにとどまらず「第二も、これと同じように重要
である。『隣人を自分のように愛しなさい。』と付け加えます。
神を心から愛すること、そして隣人を心から愛すること。神様が喜ぶ生
き方はこのふたつに集約されるのです。
もっと、分かりやすく言えば「神様を心から愛し、神様を礼拝する人に
なること」「誰であれ人に親切な心を持って接することが出来る人にな
ること」このふたつのことがイエス様の教えた一番大事なことがらなの
です。
この二つは切り離して考えることはできません。この二つとも、同じよ
うに重要だからです。
人を愛しているからといって神を第二にすることはよくないことですし、
神を愛しているからといって人を軽蔑してよいわけではないからです。
神様が望んでいるのは、目に見える飾りや十字架や大会堂、イエス様の
像や宗教儀式ではありません。そうではなく、私たちの真剣な生き方で
あり、態度であり、その姿勢こそ重要なのです。イエス様の興味は「あ
なた」の存在と生き方にこそあるのです。
礼拝者となること、愛の心で隣人に接すること。これだけです。そのど
ちらも失ってはならないものです。
しかも、完成者はいないのです。いつでも、学ぶことがあり、教えられ
る事柄があるのです。
2)生活の規範としての教え:判断の基準
教会の組織にはいろいろな形があります。教会の背景、歴史や人々の興
味、集まる人たちの社会的意識、好みなどいろいろなことが素材となっ
て教会は画一的なかたちでは捉えることができないほど、個別な集合体
になっていきました。
集まる場所も、個人の家、地下室、墓場、会堂などいろいろな違いがあ
ります。会堂での礼拝が定着したのは4世紀にキリスト教が国教化されて
からです。国の経済力で会堂が建てられたのです。それまでは家での集
会が中心だったのです。
いろいろな教会の運営形態がありますから、当然、自分に向いているも
のもあれば、自分には不向きな面を持った教会があります。
特に、最初は一緒に仲良く始めたのに、いつの間にか教会に集まる人た
ちの数が増えていくことで、どんなことに力を注ぐべきか、何を大事に
すべきなのか意見が分かれることがあります。
ここ30年くらいの歴史を考えても、ギター主流の賛美にするか、オルガ
ン主体の賛美にするか、新会堂を作るか古い会堂でしばらく我慢するか、
会堂の椅子を個人椅子にするか、ベンチにするか、教会堂での礼拝を中
心にするか、家でのミニチャーチを中心にするか、などなど、それらを
主張することで、教会が分裂騒ぎにまで発展してしまうことさえありま
した。それぞれが発展的に分裂し、双方が尊敬しあっているのであれば、
良いのですが、残念ながら、あまりそういう声は聞きません。大抵、出
て行った人たちを極めて悪く言う場合が多いのです。
愛と理解に基づいた分裂は、感情的になりすぎると不可能です。
そういうときの判断の基準は何かといえば「主への礼拝の心を傷つけあ
ってはいないか?」「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を意
識できているか、ということに尽きるのです。
神様を礼拝しながら、その内容について穏かに語り合えるか?
その議論や話し合いは、本当に相手も自分もしあわせにするか?
その部分が実に大事な要点なのです。
牧師は、神の権威とか聖書の権威ということで、簡単に人を断罪すべき
ではありません。権威を振り回すことで勝手に自己主張をすべきではあ
りません。
信徒は、牧師もまた神の前では信徒のひとりであることをうなずき、愛
の対象に含めなければなりません。
牧師と信徒は決して「労使関係」ではないのです。兄弟、身内の関係が
望ましいのです。
私の言葉は「憐れみ深さ」を含んだものだったろうか?
私は自分の意見だけを主張しようとしすぎるあまり、他者を断罪しては
いないだろうか?
私の言葉と行動は、誰かを幸せにするために有益なものだろうか?
どうしても、意見が合わず、心がどうしても平和を保てない場合には、
相手のせいにせず、自分の都合でそこから離れ、自分の考えにあった
教会と関わりをもてたらよいのです。
現実的には、そこにいられないほど意見が違ってしまうこともありえま
す。
しかし、それでも、相手をののしるのではなく、愛を込めて、その人た
ちを神様に委ね、自分が離れていくしかありません。
町にひとつしか教会がない場合には、とても難しいことになります。
それでも、人のせいにしながら、どんどん暗くなっていくよりも、心を
楽にして、礼拝を楽しみ、愛し合える関係を求めてその場から離れる勇
気はとても大事なものだと思います。
分裂や別離はいつでも必ず悪ということではありません。発展的な、意
味深い分裂も可能なのです。もちろん一致できればそれに越したことはあ
りません。
しかし、残念ながらどうしても説教の内容に賛成できないとか、リーダ
ーの方策にもその人柄にも付いていけないということもあるのです。
「神様への礼拝」「人への愛」を大切に生きるということが、大きく妨
げられているとしたらそこには間違いなく問題が存在します。
礼拝で神様への愛が深まり、自分の心も満たされ、その祝福を受けて誰
かを幸せにしながら生きること。イエス様の教えはそこに集約できるのです。
祝福がありますように。
マルコによる福音書
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」
と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、
神にはできる。神は何でもできるからだ。」
+++
弟子たちの中には、繁栄を味わっている人たちは神様からの祝福を受けてい
るのだから救いはその人たちに近いと考えていた者もあったかもしれません。
あるいは、そういう空気に対するマルコの反発がこういう文章に表明されて
いるのかもしれません。教会の中に、富んでいる人たちへの「擦り寄り」と
いうか「特別扱い」というか、そういう空気は起こりやすいのです。あのお
金持ちが教会にやってきたとか、あの有名人が教会にやってきたというだけ
で、それが話題になり、貧しい人たちは片身の狭い思いをすることになりま
す。でも、それは教会で本来あるべき姿ではないはずです。
その人たちが富んでいるから教会の特別席をあてがわれ、献金額だけで教会
の中で祭り上げられるようなことをキリストは喜びません。
献金は救いを保証する者ではありません。肩書きも、奉仕も救いを保証する
ものではありません。
教会は歴史の中で、高額の献金は罪の償いのために有効だということを教え
てきました。罪の贖いはキリストがしてくださったのだ、あとはあなたが献
金や奉仕でその罪を償えばよいのだという発想です。つまり救いをキリスト
と分担して完成させるという考え方です。こういう発想で十字軍が結成され、
エルサレムを守るということを大義として実に愚かな略奪や殺し合いが起こ
されました。十字軍への参加と十字軍への軍資金献金はまさに、神への償い
の代償と理解されていました。それによって救いが完成されるような考えが
そこにはありました。今それは否定されていますが、かつては大きな教会の
資金源になっていました。
それは、しかし、どう考えても聖書の教えから逸脱しています。富んでいる
人たちへの「策略」教会が富むための「策略」が見え隠れしています。あっ
てはならないことです。弟子たちの中にも、それでは誰が救われるのかとい
う疑問があったほどですから、教会には最初から富に対する誘惑があったの
でしょう。
救いは神様にかかっています。「恵みの神」「平和の源である神」「希望の
源である神」の誠実な約束にかかっているのです。私たちの行為によらず、
肩書きによらず、神さまの側からのオファーがすべてなのです。献金は感謝
を表明し、支援を表明するためには良いものです。しかし、それは救いを保
証するものではありません。でも、献金が出来ること自体は、神への感謝と
他者への支援の両方の心を潤します。
早いうちに、お金があっても自由にできないことがあるのだなと知ることは
良い事だと思います。
祝福がありますように。
ペトロの手紙第一
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むし
ろ、群れの模範になりなさい。
***
これは長老や牧師、教会におけるリーダーに対するとても大事な命令です。
自分の関わっている教会の人たちに対する基本的な態度として心にしっかり
留めておかなければならない姿勢です。
「権威を振り回すこと」をしてなならず、高圧的、威圧的な態度で接しては
いけないのです。要するに「威張るな」ということです。
人々を指導する際、威張りたくなるのは自然な意識であり威圧的にコントロ
ールしたくなるのは、極めて自然な欲求かもしれません。しかし、指導者は
実は「しもべ」なのです。上に立っている人の最大の仕事はその人の下にい
る人たちが働きやすくすることです。支配することではないのです。むしろ、
自由をもたらすために働くのです。
長老も牧師も「しもべ」として仕え、しもべとして生きることで、その生き
様で「教える」のであって、上に立って横暴に振舞うことで人々を支配する
ためにその役割を得たわけではないのです。指導的な立場に立つと、いつの
間にか、まるで自分が偉い人になったかのように「勘違い」してしまうこと
があります。これは人間にとって自然な方向です。人間の弱さがここにあり
ます。その人がキリストにしっかりつながっていなければ、教会という狭い
集団の中では、間違いなく上に立った人は横暴になり、威張り始め、支配す
るようになります。
イエス様は、マルコによる福音書の中でこう教えました。
10:42 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なさ
れている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉く
なりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身
代金として自分の命を献げるために来たのである。」
これがキリストの教えであり、キリストの模範でもあります。
キリストの心がここにあります。
「仕える」という姿勢は神様に対しての礼拝となり、人に対しては奉仕となります。
ペトロは、威張らないで、むしろ「群れの模範になりなさい」と勧めました。
キリストに教えてもらわなければ、キリストに心をしっかり守っていただか
なければ、そういう姿勢で生きることは不可能です。私たちは、それほど「利
他的」に生きることができないからです。どうしても、損得を考えてしまう
からです。そして威張りたくなるものなのです。
今朝の箇所にある命令は、キリストへの信頼をしっかり保つことなしに実行
が難しいのです。勤勉、自制、礼節、愛、奉仕などについて模範を示すこと
が長老や牧師の役目であり、その役割を担うためには人格的な練り上げ、品
性の向上が求められます。
長老や牧師は「言葉で教える人」でもあり「模範によって教える人」でもあ
ることが求められているのです。これは至難のわざです。恵みを知らなけれ
ば到底担うことなどできません。今こうして、私のような者が牧師として働
くことが赦されているのは、私の能力によるのではなく、神の憐れみにより、
恵みによって赦され、保たれているからだなぁと心底思います。それが実感
です。まだまだ発展途上にあります。
祝福がありますように。
ペトロの手紙第一
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むし
ろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのな
い栄冠を受けることになります。
***
長老、リーダー、牧師は威張ったり、横暴に振舞うのではなく、群れの模範
になるようにとペトロは勧めています。
模範になるための、モデルは何かといえば、「羊に対する羊飼い」の生き方
であり、それを御自分のことと重ねておられるイエス様の在り方です。私な
どは本当に怠惰、不精なので、「放牧牧会ですね」などと言われることがあ
るほどです。実際には、羊をケアする羊飼いの日常をしっかり学習し、その
態度をそのまま教会の中で自分の周りにいる人たちに実行していければよい
のです。
羊飼いは、羊を牧草のあるところに連れて行き、草を食べさせ、水を飲ませ、
外敵から守り、羊を清潔にして健康を管理し、安全を確保し、関係を深める
ことで仕事が完成します。当時羊飼いは基本的には、いつでも羊のいるとこ
ろにいたのです。それを考えると私は、アッシシのフランチェスコやマザー
テレサなどの生き方の中に「羊飼い的な姿」をより強く感じます。
自分を羊と別なところに置いて「教える」だけの人というのは、エゼキエル
書34章の中で批判されている当時の宗教家の姿とダブってしまう気がする
のです。教えること、そして共に生きること、その両方が求められているの
だと思います。
牧者って何だろう?牧師って何だろう?ふと、考えてしまうことがある今日
この頃です。
教会における名前や肩書きを持たない人が世の中で他者のことを大切にしな
がら、他者と一緒に礼拝に参加することを励ましあい、支えあっているなら、
その人は牧者的な模範を生きている人たちかもしれないなと思います。牧師
は、牧者的な人たちに支えられてかろうじて「教える」役割を担っているだ
けなのかもしれません。牧者は羊を支え、羊を養うために、必死になって働
くのです。羊から支えてもらうわけではないのです。教会のあり方、牧師の
あり方は、今のままで良いのかなあ。役割に慣れてしまうと、いつの間にか
自分を社会と隔絶したところに追いやって他者と目の高さが変わってしまう
のは、本当に残念なことです。おこがましいですが、牧師たち、長老たち、
キリストの模範にならい、人々と目の高さを合わせ、教えること、生きるこ
と、しっかり働くことに専念しましょう。まず、自らが牧者であるキリスト
のもとで養われながら生きる、自らがキリストの助けなしには生きられない
という自覚を持つ必要があります。
あなたが、誰かのために祈り、誰かのために心を痛め、誰かの祝福を求めて
いるなら、あなたは、まさに羊飼い的な役割を果たしているのです。その線
に沿って、進んでください。肩書きなど心配せず、その役割を果たしてくだ
さい。
祝福がありますように。
ヨハネの手紙第一
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あな
たがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交
わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれ
るようになるためです。
***
イエス様のことを知ることで何が生まれるかと言えば、父なる神様と御子イ
エス様の間にある深い交わりの中に引き入れられるということです。これは、
いわば、神様とのきずなの中に生きることができるようになるということに
通じます。父なる神様とイエス様のかかわりの中に迎えられ、いわば、愛に
あふれた家族の中に迎えられるような体験をすることになるのです。これは
本来的には教会の中で味わえるものであり、教会で互いを兄弟姉妹と呼ぶ根
拠がここにあります。しかし、いつの間にか教会の中で、教会を愛し、教会
に奉仕をすることで交わりを維持するような意識が高まってきて、神様に愛
されることと教会での奉仕が同列に置かれてしまった感があります。
教会での奉仕が出来てもできなくても、イエス様を知ることで父なる神様と
御子イエス様の交わりの中に迎えられている事実は変わりません。お互いが、
その交わりの中に置かれていることを認め合い、それを喜びあうのが教会で
あり、礼拝です。
皆がユニフォームを着て同じことをするために教会があるのではなく、キリ
ストが持っている父なる神様との交わりと同じ交わりの中に置かれたもので
あることを喜びながら、みんなそれぞれ違う場所で違う働きをし続けること
ができるように支援するのが教会の大事な役割のひとるです。
イエス様を信じるということは、教会のメンバーが増えるという喜びではな
く、教会の収入源が増えるということでもなく、その人が神様の交わりの中
に迎えられ、イエス様が父なる神様との交わりの中で受け取った様々な祝福
や教え、恵み、導きを得ることができるようになるということなのです。そ
れはその人にとっても、わたしたちにとっても大きな喜びです。天使たちに
とっても大きな喜びだとイエス様は教えています。神様との交わりの中で、
その人の新しい生き方と賜物や能力の解放が始まるからです。教会はそれを
妨げてはならず、教会はその人を束縛してはならないのです。むしろ、教会
はその人を喜び、その人を教え、社会に送り出す必要があるのです。そこに
教会の喜びがあるはずです。
祝福がありますように。
ヨハネの手紙第一
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者が
あれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
愛があると言いながら、
しかも、
人に分かち合えるものを持っていながら、
何も行動しない、同情の心も表明できないとすれば、
そこに神の愛はないとヨハネは言います。
人間的な欲望も、動物的な本能も愛と呼べるものがあります。
恋愛などは、そういう類いのものかもしれません。
しかし、
ヨハネがこの箇所で問題にしているのは、
「神の愛」と呼ばれるものです。
「神の愛」は自分の頑張りで作り出せるものではありません。
キリストを通して神と向き合い、
聖書を通して神が私たちに寄り添ってくださっていることがわかると、
はっと我に変えるような気持ちの中で、神の愛に気づくのです。
その愛は、私たちを内側から突き動かし、
言葉や口先だけでない行動にまで導いてくれるのです。
愛は動詞だと言われます。
誠実な行動でそれが伝わってきます。
言葉だけでは、証拠にはなりません。
神の愛で生きるという生き方は、
一見、損をしているような生き方であり、
自分の利益や見返りをがむしゃらに求めたり、自分の行為を吹聴したりせず、
圧倒的に他者への善意に満ちています。
そして
感謝や喜びが、犠牲を払っているのにそこにあるのです。
きっと、あなたの中にもそういう出来事が起こっているのだと思います。
祝福がありますように。
「関根一夫先生」の メッセージより 引用させて いただきました。
感謝いたします。
本当に 誠にもって アーメン です。
ー管理人は 特に これらのメッセージから 多くの励ましを 受けていますー


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