まず初めに、管理人は小・中・高校と得意教科が数学・英語、苦手教科が国語・社会でした。大学でも社会学部ながら専攻は経済政策だったので、社会科とは無縁の世界にいました。社会科が苦手=日本史も苦手な訳で、やぐらやだんじりの彫物の話になっても、全然付いて行けないと言うのが実情です。 (>_<) でも苦手、苦手じゃいけない訳ですし、ちょっとは勉強して行こうかと…。そもそも当ブログは
「管理人の勉強部屋」との位置づけなので、今日から
「彫物題材」と題して、彫物に因んだ歴史や神話を勉強して行こうと思います。
まぁ彫物に詳しい方から見ると「何を今さら…」と失笑されるのは重々承知してますが、まぁこんな管理人だと卑下してもらって結構かと思います。「知るは一時の恥、知らぬは一生の恥」、人生一生勉強なんですから。 (*^_^*)
で、まず第1回目は下出の彫物の題材である
「本能寺の変」、下出では右側の大屋根幕板や脇障子に見事に彫られてます。本能寺の変と言えば明智光秀 vs 織田信長ですが、織田信長の末世でありフィギュアスケート選手の織田信成氏が管理人の大学の後輩と言うのが何とも皮肉な気もしますが…。 (^^ゞ
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● 本能寺の変(天正10年/1582年6月2日・明智光秀 vs 織田信長)
備中高松城を囲む羽柴秀吉から、救援を御求める知らせが織田信長に届いた。すると織田信長は明智光秀に、羽柴秀吉の救援を命じた。つまりは羽柴秀吉の指揮下に入れとの事だった。しかし明智光秀は自分が織田信長の寵を失いつつある事を知った。このままでは佐久間信盛らの様に、無能者の烙印を押されて、切り捨てられるのではないかと。
「先じて信長を倒せば、自分が天下の主になれる」 織田信長は、備中高松城攻めの総仕上げとして、毛利との一大決戦を目論む中国遠征のために、わずかな手勢を連れて京都・本能寺に入っていた。そこを襲えば織田信長を討ち取ることができると。
天正10年6月1日の夕刻、明智光秀は13,000の兵を率いて亀山城を出陣。2日未明、京都桂川に達した時、「敵は、本能寺にあり」と、全軍に下知したのである。
本能寺に入った織田信長の供廻りはわずか150人。早起きの織田信長が顔を洗ってると、時ならぬ喊声である。やがて銃声が聞こえてくる。小姓の森欄丸が「明智光秀の謀叛にござります」と告げた時、織田信長はただ一言、「是非に及ばず」と叫んだ。
織田信長は客殿の広縁に出ると、自ら弓をとって群がる敵と応戦した。弓の弦が切れると、槍をふるって戦った。が、大勢に無勢である。見方はしだいに討たれ、そのうち織田信長も、肘に槍傷をうけた。銃弾が腕に当たったとも言う。「こはや、これまで」。奥の間に退いた織田信長は、本殿に火をかけ、その炎の中で、腹をかき切った。49歳の強烈なる人生であった。
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◎ 京都府京都市中京区下本能寺前町付近の地図

300万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)

25万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)