私たちは肉体を持っていますが、それがなくなると、いなくなる存在ではないのは分かりますよね。
そして、ニサルガのいう「私は在る」は、変わらないものが私であるなので、それは、言葉に出来ないが、分離出来ないもの。
ゆえに、肉体(物質)でもなければ、意識でもなく、マインド(理解、考えること)でもなく、ようするに、変化するものを意識することができないという「変化しないものである」
それをニサルガは真我と呼んだり、古代のシャーマンたちは無限と呼んだりしているわけです。
そうすると、今肉体を持っている私は、本当はすごい奴なのですが、何故、分離した世界にいるのかというと、記憶やら思考やらとマインドにとらわれているからであります。
ようは、自我(エゴ)のかたまり。
それが私(ここでいう私は肉体の私)である。
そこで、こういう内容を聞いたり本を見たりして陥りやすいのが、その自我の私をどうにかしてすごい奴にしたい欲望で見ている点であると言えます。
結果、無理なのである。
だって私が自我(エゴ)のかたまり、結果なのだから、エゴそのものなのにエゴを無くせと言われても??なのであります。
そのエゴである私が、上(真我、無限)になれると夢見たり、物質を求めたりしているわけです。
しかしながら、多くの書物でエゴをなくせと言われているのは、そのものの「見ている」視点が、エゴの私の視点からではないからといえるでしょう。
では、エゴを無くすには、その肉体のエゴを見ているものに、明け渡すしかない。
明け渡した視点で「見る」ことがないかぎり、ずーっと二元性、分離の世界にとどまるのである。
「戦士、あるいは狩人は、知っているのだ、自分の死が待っていることを。」
の死とは、エゴである私を放棄することを意味するといえる。
であると、肉体の私は何をするかというと、一言でいうと「使われる」ということになります。
しかし、これこそ最善の道であり、満足する道であると言えるでしょう。
エゴである私のまま真我、無限にたどり着けたいものにとっては絶望的かも知れないが、マインドにとらわれたまま、探し求め続けたところで、きっと満足することはない気もします。
エゴである私からの視点でなく、違う視点で「見る」と、世界はまた違うでしょうね。

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