自分の言葉で、人を傷つけたりするのはできれば避けたい、といつも思っている。
そのせいか、人の顔色を見る癖がついている。おまけに口癖が「すみません」と「ごめんなさい」だ。
審査員を務めているエッセイ大賞の授賞式で、受賞者に賞状を渡しながら「すみません」と言ってしまって、場内の爆笑を買ったことがある。このときは、私ごときが賞状を渡すなんて、という気持ちが「すみません」という言葉になった。
しかし、自分では気を遣って言ったつもりの言葉が、逆に、人を傷つけてしまうこともあるから、人間関係は難しい。
人の感じ方はいろいろなので、私が「よかれ」と思ったことが、その人にとって「よい」とは限らない。
昨年一年で五キロも太った私が悪いのだけれど、最近、久しぶりに会うなり人の容貌について何かしらの評論を加える人が、とても多いことに気がついた。
曰く、「太ったね」、「美味しいものばかり食べているんでしょう」。なかには「羨ましいわー、いったいどうすれば太るのか、教えて欲しい」と言う人もいる。
「痩せた」なら言っていいかというとそうでもなく、昨年、体を壊してしまった母は、
「『痩せたねー』と言われると『どこか悪いの?』と言われているのと同じで、何だか不安な気持ちになる」
と話していた。
「太った」「痩せた」のみならず、人に対して「あなたは○○だ」と言うのは、よほど慎重にしたほうがいいと私は思う。
「○○そうに見える」ならいざ知らず、ほんとうのことは、本人にしか分からない。
いやはや言葉とは、面白くも厄介なものである。
* * *
今日は、未就園の子どもとそのお母さんたちとのお散歩会に同行した。
常々、虫の名前なんてどうでもいい、分からなければ自分でつけてしまえばいい、と言っている私であるが、今日、幼稚園を休んで参加してくれたある女の子が、ゴミムシたちにつけていた名前は傑作だった。
「きぼう」である。
「あっ、きぼう みつけた!」
「ねえねえ、きぼう つかまえたよ」
ああ、何ていい響きなんだろう。
真似して私も、
「あっ! こっちは赤い希望だよ」
「こっちは模様つきの希望!」
なんて言ってしまった。
誰かがオサムシの仲間を見つけたときは、
「大雑把に言えば、『希望』の大親分みたいなものです」。
今日は子どもたちと、いっぱい希望を探した。
そう思うと、それだけで幸せになる。
やっぱり言葉は不思議だ。
そして一歳、二歳の幼い子どもたちが、驚くほどの集中力で虫を探す姿や、昨日まで触れなかった虫に触れたときの笑顔は、私にとって、まさに希望そのものである。