カーンさんコメントありがとうございます☆「叩く」ということにまつわる微妙な問題というものはいろいろと考えさせられます。
私自身としては「叩く」という行為をするかどうかの背後には、ある種の「覚悟」のようなものを感じています。相手を叱責したり、指導する上で、行なう側がどれだけの決心、意志や覚悟を持ってそれに望むかということが大切なのではないかと思うのです。だからそれを表現するために「叩く」(程度の問題もありますが)ということを行なう人もいれば行なわない人もいていいのだと思います。必ずしも「覚悟」をきちんと伝えるためには「叩く」行為が必要というわけでもないように感じます。
この「覚悟」や意志の問題が曖昧だと、行なう行為が「教育」なのか「支配」なのか判然としなくなるようにも思います。さらにたちが悪い場合は、「相手のため」という立派な名目を掲げた「支配」を行なっている人もいるように思えたりします。
いくら指導を行なう側が「相手のため」と思っていても、それが相手に伝わらなければ「相手のため」という名目の上での「支配」に陥る可能性があると思います。本当に結局は子どもの側がどう思うか、という「体験」の部分なのだと思うのです。カーンさんの現場の教師の方の対応はおそらく子ども達にきちんと伝わっているのでしょうね。
またカーンさんのいうように、カウンセリングのあり方と共通する部分も多いと思います。「本当の優しさは厳しさを含む」というような言葉もありますが、そういったことが関係していますね。カウンセリングにおける「父性的」な機能の面だと思います。
カーンさんのコメントに「ダメなことはダメ」という感覚を持つことが書かれていましたが、これは「受容」と「許容」を履き違えないようにすることにも繋がると思います。私自身も「父性的」な面というものはまだまだ多くの課題を残しているので、今後もさらに取り組んでいかなければならないなと痛感しています。また皆さんのご意見をお待ちしております☆