私は、「国語教師」だったので、職業柄もあって「読書」が好きだった。少年時代、借家だったが、隣家のご主人が「明治、大正文学全集」を持っておられ、それを借り出しては読んでいた。森鴎外の「舞姫」とか「即興詩人」などに夢中になり、自分の日記を「擬古文」で書いたりした。高校の英語の和訳まで「擬古文」で書いたが、それで通用した。高校の先生も洒落ていた。尤も、受験に関係のない「定時制高校」だったから、先生も問題にしなかったのだろう。夏目漱石も志賀直哉も、藤村も芥川も、全てお隣の本で読んだわけだ。図書館など、何処にもなかった。
大学に入ってからは、国語科なのに「外国文学」に打ち込んだ。専門の日本古典は、必要に駆られて勉強するが、一般教養としての文学は、専ら「外国文学」だった。トルストイとかモーパッサン、ロマン・ローラン etc。ローランの「ジャン・クリストフ」を、友人と読む競争をして、今日は、何ページまで読んだ、と言い合ったことが懐かしい。やがて、それも終わる。
教員になってからは、その時々に話題になった本を必ず読むようにした。芥川賞受賞作品も、知らない、読んでいない、では済まされない事だったからである。その内、それも興味を失った。あまりに時代に媚びた作品が増えたせいである。ある時期には、経済小説に夢中になり、「城山三郎」「高杉良」「幸田真音」などを貪り読んだ。自分の知らない世界に遊ぶ楽しさがあった。
更に、好みは変化し「松本清張」「司馬遼太郎」「藤沢周平」が、好きになった。もういわゆる純文学には、ほとんど食指が動かない。社会的な現象とか、歴史的な事実とか、民衆の動向とか、そういったものに、限りない愛着や興味が湧くのである。多分、人生と言うものが、半分くらい分かり掛けて来て、見え透いた文学的な虚構には、欺かれなくなって来たせいだろう。
こう言う大家達は、膨大な作品群を著わしている。到底全部が全部、読み切れるものではないが、私が面白いと感じたものは、大部分読んでしまった。自分の部屋で、一人静かに読書に耽る喜びを、何年くらい続けて来たのだろう。図書館と言う存在は、物凄く有り難いし、定年後の時間的余裕も、有り難かった。視力が続いた事も、神仏に感謝しなければならないだろう。
しかし、いまや、その最も大きな喜びの「読書」が、進まなくなっている。根気が続かない。直ぐ眠くなる。視力の衰え、興味の喪失、気力、体力の減退、色々考えられる。こう言うのを「老衰」と言うのかなあ、と思う。その中で、断然面白く感じた「本」に出会った。山田風太郎の「人間魔界図巻」である。人は、その年齢に合わせた興味しか持たないのだ。この本については、次回、適宜抜き出して紹介したいと思っている。

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