2012/6/28

トリムエリア  

Adobe IllustratorとAdobe Photoshopを使ってない方には、よくわからない話しですが…

これまでCS3を使っていたのですが、昨年末に新Macになり、でもセットアップやらデータの移行なので、この6月に移行しました。

ところが!!
CS5!トリムエリアがなくなっているんです!!

ネットで調べると、CS4からなくなっているらしいのです!!

困る!!
マジっで困る!!
困るぞAdobe!!

わたしの使い方は
そうですね…まず透明の下敷きを想像してください。
そこに4C印刷すると、色が透けてしまいますから、透かしたくない部分に、もう1版で、白を裏から刷するわけです。

問題はその白版作る時におこります。

イラレに貼付ける画像をフォトショでB5の3mmトンボの263×188mmで作ります
フォトショパスを使って、キャラだけを切り
イラレ用にパスの書き出しをします。

書き出したデータをイラレで開きます。
すると、トリムマークがついてパスが出ます。
そこでトリムエリアの解除をすると、フォトショのデータサイズで四角ができるわけです。
で、キャラのパスと一緒に版下に持っていって、画像の配置してあるのと同じ位置に配置。ガイドがあると、ぴたっ!とはまります。

ですので、これで4C版下と白版の位置が同じで完成。

わたしは、いつもこれで作っていたのです!!

だから!トリムエリアの消失は、死活問題!

何故なくす!!アドビ!!

またかよ!アドビ!!

駄目もとで、CS3のトリムエリアのプラグインをCS5に入れてみた…

…イラレが止まった…
( ̄_ ̄|||)
まぁ…やっぱりね…

どなたか、この解決方法ご存知でしたら教えてください。

CS5用のパッチとか配布されてないですかねぇ…
CS4用のは発見したのですが、CS5には使えるんでしょうかねぇ…

とにかく、トンボを解除したら、フォトショのサイズに四角でできて、それを選択できないと嫌なんです!
ずいぶんと長くこの方法で作ってきたので、実は切実なんです…
6
タグ: Adobe Adobe CS5

2012/6/21

はーー…やっと…  

やっとアクセスできた…(笑)
パソコンのない生活初めて2年ぐらいになるでしょうか…
ほったらかしてたら、パスどころか、メールアドレスまで忘れてアクセスすらできなかったです。

今は、会社の昼休み
会社のパソ子さんから…
こちらも昨日から新しくなって、セットアップにもたもたしてます。
Macらいおんドライバーのないものとか、対応してなかったりとか、フォント入らないとか…

キーーーー(><)
めんどくさい!

で、ついでに、パスを問い合わせ
ネットでポスペでメール受信して…
パスを変更して…

よーやくたどり着きました…
はふ…(~。~;

かといって、会社の昼休みじゃ前みたいな更新はできませんけれども…
変な書き込みぐらいは削除できるようになったかなぁ…と…

パソコンなぁ…パソコン…
いる?

仕事ではこうして使ってますが
プラベートでうちに帰ってまで…と思うわけです。
動画とか、別に見なくても死なない…

仕事やめたら買うかなぁ…
5

2011/4/19

なんだかんだで1年近く…  

パソコン使わなくなって、なんかもう1年近くになるんですね…
えっと…これも会社から書いてます。

パソコンメール…なんて…もう…ひどいもんで、いったい何年アクセスしてないだろう…

アナログ生活…
デジカメの画像を吸い出すのにパソコンは起動しているだけ…みたいな(笑)
というわけで、なんやかんやで、けっこうお出かけはしています。
最近、携帯のSNSばかりで、ホントにパソコンの需要がなくなりました。
新しく買ったノートパソコン…なんと2年使ってません…(笑)
…ノートPC以外と不便…

最近は震災の影響で、とんとお出かけもせず…

…相撲を中止したりするから地震が起こるんだよ…
だからナマズが暴れるんだよ…


ちなみに
震災の日の社内
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そして自宅
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2010/7/28

ケセランパサラン  

7月10日、大宮八幡宮
7月17日、江ノ島
7月24日、等々力渓谷

3週連続で、散策中に、空中をふわふわとんでる綿毛を見た。

「ケセランパサラン?まさかね?」

と思いつつも、ネットで調べたら、写真が上がっていた。

あ、これこれ!

等々力渓谷では、捕まえることができて、よ〜く監察したのですが、種っぽくもなく、昆虫っぽくもなく、なんだろう…と…。

ケセランパサランらしい。

Wikipediaさんには、妖怪とか書いてあった。
しかも1年に2回以上みたら効力は消えるんだって…

終わったな…
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2010/6/23

めんどくさがり  ひとりごと

ゴールデンウィークのレポートが残ってるぅ……
志那三郷まわりました。水生植物園行きました。
で、先週は品川界隈を散策しました。
で、今週は紫陽花を見に今年も高幡不動さんに行きました。

いろいろ行ってます。

ただ…パソコンを起動するのがおっくうになっているだけで…(^^;
これは会社の昼休みに書いています(笑)

めんどくさがりというのは、昔からなのですが、先日おもしろい夢を見たので書いてみたくなりました。

なんか、おかっぱの女の子に取り憑かれる夢だったんです。
どうしてそうなったか、いきさつまでは覚えてないのですが、とある襖の前で、
「この中には、不慮の死をとげた女の子の魂がさまよっている」
とかなんとか横にいるおっちゃんに言われ、襖の向こうへ、猫の首をもってほうりなげるように…マンガみたいにほうりこまれました。
襖というか、木の引き戸でした。
中は、土間と板の間がうなぎのねどこのようになっている部屋(?)で、土間には物置みたいになんだかんだと並んでいます。
でも、光はさしてるんですよ。
暗くはなかったです。
しばらくしたら、立ってるわたしの足もとに、何かがすがりつきました。

ぎゃーーー!!

わたしはサッカーのキックよろしく、まとわりつかれた足をけりあげて、霊感ないので見えないのですが、おそらくふっとばさられたような感じで、足下がすっきりしました。

が…板の間から、ぷらんと足をたれて座っているわたしの横に、女の子がニタリとこっち見て笑って座っていました。

くわっ!こいつか!!

と思ったものの…

…なんかもう…驚いたり怖がったりするのがめんどくさくなったんですねぇ…
めんどくさくなって、しゃーないなぁ…ほな一緒に遊ぶか…みたいな
と、何故か一緒に粘土をこねて陶芸みたいなことし始めたわけです。
ここはこうした方がええよ…とか何故か指導してみたり…

そこで目が覚めました(笑)

わたしはお化けを怖がることすらめんどくさくなってしまったんかぁ…
と、目覚めてから笑ってしまった。

最近、貧乏を笑い飛ばすとき
「貧乏神と共存してるからなぁ…うちの家」
と言っていたのですが、案外冗談でなく、ホントに共存してたりして…とか思うわけです。
同じ共存してるんやったら、仲良くしとかななぁ…みたいな(笑)
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2010/5/23

平野神社のイチハツ  史跡散策-京都

2010年5月5日のお話です。

汗ばむほどの晴天のこどもの日、午後からはまた暑くなるからと、午前中にこれまた近所の「平野神社」へ。
京都でも有名な桜の名所の神社です。
詳細は、以前に書いているので割愛。

以前のブログ
平野神社 2008.1.1


桜で有名な神社ですが、桜も終わったこの時季は「鳶尾」が見事に咲いています。
「鳶尾」と書いて「いちはつ」と読みます。
「一八」とか「一初」とか「逸初」とも書くそうです。
アヤメ科の中で、一番に咲くので「一初」という話しはよく言われています。
境内には「鳶尾」と書いてあったので、ここでは「鳶尾」と書きますね。

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東門の周囲に綺麗に咲いています。
鳶尾と並んで、ジャーマンアイリスも沢山咲いています。
「独逸菖蒲」と書いて「ジャーマンアイリス」
鳶尾が明治の頃に品種改良されて日本に里帰りした花なのだそうですよ。
鳶尾の方は、主に青紫色で、まれに白があるという、いたって日本っぽい色合いなのですが、ジャーマンアイリスの方は、色鮮やかでやや大ぶりな感じです。

桜の頃には、桜の庭になる境内も、この時期は鳶尾とジャーマンアイリスでいっぱい。
桜の新緑と木漏れ日の中でとても綺麗です。

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猿田彦社とお稲荷さんのところにも、綺麗に咲いています。

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本殿に参拝しようとしたら、その手前右近の桜が満開!!

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まだ咲いてるんやぁ〜と思ったら、こちらの桜は「突羽根桜(とっぱねさくら)」といい、4月下旬が見頃なのだそうです。
平野さんに古くから伝わる菊桜で、境内に数多い桜の中でも名桜と言われているそうです。原木は二世なんだそうですよ。

本殿に参拝して、のんびり境内に腰を下ろしてぼんやり…
ええ天気やぁ…というには、ちょっと暑いかな…
木漏れ日に、さわさわと吹く風もここちよい。

ずいぶんと境内を堪能して、帰ります。
芝桜も綺麗に咲いています。

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東門北側の鳶尾とジャーマンアイリス

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桜の平野さんは有名ですが、鳶尾の平野さんはなかなか知られていないんじゃないかなぁ…と思ったので、今回アップしてみました。
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タグ: イチハツ 神社

2010/5/21

妙蓮寺  史跡散策-京都

2010年5月4日のお話です。

叔母と一緒に、近所の「妙蓮寺」を訪ねました。

この春、京都は長谷川等伯祭り(?)になっておりまして、博物館はもちろんのこと、等伯の作品を保有するお寺さんが、その作品を公開。
なんと全てをまわるツアーなるものもあって、8800円!!
…誰がいくんやろ…と思っていたら、バスの中でご年配の奥様が
「今度、これ、お父さんと行くねんわー」
とお友達に話されているのを見て、いはるんやなぁ…と思ったものです。
で、徒歩圏内で等伯の作品を公開していたのが、こちらの「妙蓮寺」でした。

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寺ノ内通りの堀川から少し西に入ったところにある大きなお寺さんです。
駒札にあった御由緒は
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法華(日蓮)宗京都二十一ヵ寺の本山で、日蓮上人の孫弟子・日像上人を開基とする。
永仁2年(1294)造酒屋の柳屋仲興(やなぎやなかおき)が日像上人に帰依して、西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺としたのが当寺の起こりで、応永年間(1420年頃)に、日存、日道、日隆、日慶らが大宮通り四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改めた。
その後、度々移転し、天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第造営の時、現在地に移された。現在の建物は、天明の大火(1788)後に再建されたものである。
玄関、奥書院の襖絵は、葉佐川等伯一派のと言われる濃彩の金碧画で、庭内の奇石とともに秀吉が寄進したものと伝えられる。
なお、寺宝には、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の写筆による立正安国論(重要文化財)などがある。
また妙蓮寺椿や芙蓉、十月頃から咲き始める御会式桜(おえしきさくら)でも有名で、墓地には画家の幸野楳嶺(こうのばいれい)の墓がある

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由緒にはありませんでしたが、わたしは見たいなぁと思っていたのは「赤穂浪士遺髪墓」
吉良邸討ち入りの後、切腹となった四十六人の遺髪を、同士であった寺坂吉衛右門が赤穂城下へ戻る途中、京都の伏見に住む片岡源五右衛門のお姉さんちに立ち寄りって、遺髪を託したのだそうです。
遺髪を赤穂城下に持ち帰るわけにはいかなったんでしょうね…
世間はどうあれ、やっちゃいけないことをやっちゃったわけですし…
託されたお姉さんは、主君の三回忌になる元禄17年2月に施主となり菩提寺だったこちらのお寺さんに墓を建立して遺髪を納めたのだそうです。

それが見たくて、先に墓地にやってきました。
「どれやろぉ?」
と見渡していると、墓地を掃除されていた女性が
「何を探してはるの?」
と声をかけてきてくださいました。
「あ、赤穂浪士の…」
と言うと
「ああ、こっちこっち」
と案内して下さいました。

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ピカピカ…

あれれ???
「もうね、ぼろぼろやったから新しいのに造り替えはってんわぁ。前のは宝物殿に展示してあるしねぇ」
とにこにこ笑顔でいろいろ教えて下さいました。
「表には戒名が刻まれてて、裏にお名前があるんやわ。戒名に刀がついているのは、切腹した人やそうですよ」
などなど、親切にいろいろ教えて下さいました。
もう長いこと、こちらのお寺さんの墓地をお世話して下さっている方なのだそうです。

その方に御礼を言って、寺務所に行きます。
普段、宝物殿やお庭だけだと500円だったかな…?
でも、この日は長谷川等伯の襖絵公開とあって、900円でした。

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こちらの入口に妙蓮寺椿があるのですが、この時季は花もないのですっかり見落としました。
向かいにあった八重の桜ばかり見てしまって…(^^;

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この桜も、もうすっかり満開を過ぎた感じでしたが、その分、地面がピンク色になっていて、これはこれで綺麗です。

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もちろん中は、撮影禁止なので写真はありませんが、長谷川等伯、その息子さんなどなどの襖絵を拝見。
金箔の上に描かれたものは、金も残り、今でもそれほど遜色はないのですが、銀箔の上に描かれたものは、すっかり銀が変色して、黒い細かい点々を作っていました。
「この点はなんですか?」
と館内の係り女性に聞いてみると
「こちらはもともと銀が貼られていたんですが、銀が変色して、こうした黒い色になってしまったんです」
と、とても丁寧に教えてくれました。
後で聞いたのですが、この日、受付からこうした館内の案内や説明をして下さっていたのは、近くの大学のボランティアさんだったのだそうです。
一生懸命勉強されたそうで、こうして何も見ずにでも、すらすら疑問に答えて下さったというわけです。
皆さん、とても感じのよい学生さんでした。

そして、その宝物殿の片隅に、先ほどの赤穂浪士遺髪墓の元の石が展示されていました。
たしかに、表面が剥離していて劣化が激しいのがわかりました。

宝物殿を出ると、十六羅漢の石庭に行きました。

ここでもボランティアの学生さんが、わかりやすく丁寧にお庭の説明をしてくれました。
お庭の撮影は大丈夫だというのことで、さっそく撮影

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中央左にある大きな石が、豊臣秀吉が寄進したという牛の形をした珍しい石という石。
そしてまわりに15の石。
この石が羅漢さんを表しているのだそうで、石のまわりの白砂が輪のように描かれているのは、水の中から羅漢さんが出てくる様を表しているのだとか。
この白砂も、今では手に入らない珍しい砂だそうですが、どこのどんな砂だったか…忘れてしましました…すみません。
さて、十六羅漢なのに、石が15って…おかしない?と思われた方も多いはず。
わたしも数えて、あの牛石を足すのかなぁ?と一瞬思ってしまったのですが、実はこの庭を見ているわたしたち一人一人が最後の羅漢さんなのだそうです。
なんとも素敵なお庭です。

その後、奥書院へ。
そこでもまた丁寧な学生さんたちの説明を聞いて、春夏秋冬の襖絵を拝見しました。
長谷川等伯の襖絵も、昔はこうして奥書院の襖を彩っていたのでしょうか…

せっかくなので、御朱印をいただこうとお願いすると、作務衣を来た女性の方が
今、ご住職さんがいらっしゃらないので、こちらの紙でもいいですか?とおっしゃいました。
それをお願いしますと言うと日付を書きながら、どうも綺麗に書けなかったらしく、すみません…別ので書き直しますから…とあわてられて…
別に日付を間違われたわけでもないのに、ちょとおかしくなっただけなのに、なんかこちらが申し訳なくなるので、そのままそれをいただきました。
「いいんですか?いいんですか?すみませんね…」
とずっと気にして下さって、なんだか素敵な方だなぁと…
お部屋にあった書物などを眺めていると、仏さんのお話を世間話をするように話して下さいました。

中でも、叔母とわたしがとても好きになったお話に、合掌のお話がありました。
手を合わせるだけでもいいのだそうです。
仏さんは、いつでもどこでも見てくれてはるから、仏像や仏壇などがなくても手を合わせるだけでも良いのだそうです。
なんとも素敵なお話です。
無理をしてたまにのお出かけでお参りするより、日々、手を合わせて感謝することで仏さんは見てくれてはるから、手を合わせるだけでもいいんですよ…と。
ご先祖様のお墓が遠かったり、体が不自由でなかなか出かけられない方などは、そう言ってもらうだけでも気持ちが楽になりますよね。

そんな素敵なお話をして、寺務所を後にします。

お寺さんに来たのに、本堂にお参りしてないやんー!
と、遅ればせながら本堂にお参り。

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その右手前に「御会式桜」があります。

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もちろん、今は葉っぱだけ…
日蓮大聖人が御入滅された10月13日前後から咲き始め、なんと翌年のお釈迦様のい誕生日の頃に満開になるという、非常に珍しい桜です。
お釈迦様の誕生日というと「花祭」ですよね?4月8日。
さらに、日蓮聖人入滅の日に開花したという伝説もあるそうです。
…見てみたいものです。
10月から4月ぐらいまでなら…年末に帰った時には、少し咲いてないでしょうかねぇ?
…徒歩圏内なので、見に来てみようかしら…と思いました。

余談ですが、こちらのお寺さん、宿坊もあるそうですよ。
詳しくはお寺さんのHPもあるので、興味のある方はご確認ください。
1
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2010/5/19

空也ノ滝  史跡散策-京都

2010年5月3日の続きです。

「月輪寺」を後にした父とわたしは、そのまま道を下って行きました。
途中、小さなお地蔵さんに出会いました。

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霊水奇蹟之跡 身助地蔵 鎌倉山月輪寺
と書いてありました。
ということは、お寺にあった龍女水のお話にあった空也上人が助けた龍神様の場所がこちらということでしょうか?
山の中ですので、線香や蝋燭は禁止とありました。

さらに山を下ると、開けた場所にたどりつきます。

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清滝から歩いてくると、向かって右手に行けば「月輪寺」、左手に行けば「空也ノ滝」となります。

父とわたしは、空也ノ滝をめざします。
なんといっても陽が傾いております。

整備された石段を上っていくと、水の流れが心地良い音で響いています。

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途中、石塚を発見。

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遠く過ぎてちょっと読めません「蛇谷白玉…」その先がわかりませんでした。
白蛇さんの塚のようです。
滝あるところ白蛇さんありです。

しばらく登ると石(コンクリ?)の鳥居が現れます。

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額には「八大龍王」と書かれてあります。
月輪寺の住職さんが
鳥居をくぐると住宅が並ぶとこにでますけど、そのまま進むとありますよ。とおっしゃっていたのを思い出します。
本当に住宅が並びます。
そんなお宅の間の道を歩いていると、滝から戻って来られた方々とすれ違います。
「こんにちわー」
と言い合う山道の出会いはここでも健在です。
その方々が
「立派な滝でしたよー。是非見て下さい」
と口々におっしゃいました。
これは期待大!

木々の間、細かく小さな滝が続く道を進むので、あたりはどんどん気温が下がってきます。
石段の上に朱色の鳥居を見つけました。
この朱色に逆光の光を浴びた新緑の木々がキラキラしていて、手前が暗い分、なんとも美しい光景です。

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この綺麗さ、写真で伝えられますかどうか…。

ここまで来ると滝の轟音(?)も聞こえてきます。
この鳥居をぐぐると、その先にあったのは…

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写真ではこの感動が伝わらない〜〜(><)
なんといえばいいんでしょうね、この感覚。

余談ですが、わたしは最近流行りのパワースポットやらに行っても、全く、恥ずかしいくらいに何も感じない、霊感も皆無というような体質なんです。
後から人に「あそこパワースポットなのよ」と言われ、…行ったんやけどなぁ…といつも首をひねるこのわたしが!!

ここなんかあるっ!

とすら思うほどでした。
ビリビリと感じるとか、なんかよくそんなこといいますが、そんなんじゃないです。
どーんと深い何かに包まれるような、大気に自分が油断すると溶け込こまれて一体化してしまいそうな、くらくらする感じに似てます。

滝の手前にある鳥居をくぐると、滝のしぶきを浴びるほど近くまで行けます。

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滝の横にお不動さんも見えます。

滝の左手に役小角像

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前後の鬼もちゃんといます。
空也上人もここで修行をされたのですが、それ以前にも役小角や泰澄上人も修行をしたといわれる場所なのです。
父も3年ほど前だったか、投げ入れ堂に行ったそうで、役行者という名前には興味があったようです。

滝の右手には

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六角柱の石碑があり、わたしが見た角度からだとお不動さんの紋の下に「嵯峨権現不動明王」と三つ鱗紋に「春日弁財天女」と刻んでありました。
鳥居の下にあった、お不動さんと弁天さんの紋の意味がなんとなくわかった気がしました。

その柱の手前には

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刻まれた文字が読めなくて…10神分の大神と書かれた名前がありました。
中央の大きな文字の2神が
「熊丸大神」「佳照大神」と書かれてありました。
左右に4神づつ…と、これが八大龍王なのかも…。
大きな石碑の横にも小さな石碑があったのですが、そちらも大神とあるのですが…どうも読めなくて…
「書」に弱いわたしですみません…(泣)

とにかくすごいところです!
ここは来た人にしかわからないと思います。
行ってみて欲しいです。
清々しいといういは、その濃度があまりに濃くて、気に当てられるみたいな…。
下山してから父は
「わしは気持ち悪くなった」
と言っていたぐらいです。
わたしは気分こそ悪くなりませんでしたが、それほど何か大きく人間の体には影響するような感じがします。

そんなわけで、わたしはこのままずっといてもいい…とすら思ったのですが、陽の傾きも気になっていたので、滝を後にします。

帰りは、その西日が木々の影を岩肌に映し、その陰影のコントラストがとても綺麗です。

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ついでにシャッターを切っているわたしの影(笑)

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影がぼんやりしてないので、そういった影の模様がホントに綺麗だったんですよ。

山を降りて、平坦な道になり、清滝駅へ向かうだけとなりました。

…がっ!!
清滝駅に着くと、京都駅行は出たとこ…

煤i ̄■ ̄;

しかたがないので、烏丸を通るバスに乗り、烏丸御池で降りて地下鉄に乗ることにしました。
そのバスまでもまだ20分ぐらいあります。
バスが出た後やったら、あそこのお店でビール飲もな!と父と話していたので
「ビール!ビール!」
とお店に入ると、そんなわたしの声が聞こえていたのか、お店の方が入るなり
「ビールね(^^)」
と出してくださいました。
表の椅子に腰を下ろして
「お疲れ〜!」
暑かったし、よー歩いたし、ええとこいっぱい見られたし、今年も元気でお互い登れたし、来年も元気で登れたらええなぁー…に乾杯!
3
タグ:  空也 役小角

2010/5/18

月輪寺  史跡散策-京都

2010年5月3日のお話です。

毎年恒例の、父と一緒に登る愛宕山です。
この日はとても暑く、ものすごい良いお天気。
清滝のバス停から、表参道から愛宕神社のある山頂をめざします。
ところが、5合目あたりでなんと貧血に襲われたわたしは、例年にないゆっくりペースで登りました。
陽射しが痛くて、気温が高いのが苦しくてねぇ…
愛宕の山頂は下と10℃ぐらい違うといいますが、この日はホントに暑かったんです。山道で日陰を探して登るような状態でした。

ですが、これまた例年にはない人の多さに父と二人で驚きました。
中でも子供の数がとても多い。子供が多いというか、家族が多いんですけども…。
5歳から小学生の低学年までって感じでした。
もちろん、例年通り3歳までに登ったら…ということで2歳ぐらいのお子さんも沢山。
面白いのは、2歳ぐらいのお子さんを連れているのが、たいていおじいちゃんとおばあちゃんだったということですね。

7合目で休んでいると、疲れたお父さんらしき人が入って来られました。
しばらくして、小学低学年らしき女の子が
「また休むのぉ〜。わたしまだ疲れてへんもん〜。」
と文句を言いながら入って来たのが面白いかったです。
父もあの女の子たちの発言とお父さんの様子が楽しかったようで、山頂手前の広場でおにぎりを食べていたときに
「あの子らもう来たかなぁ」
などと話していました。
もちろん、その広場はピクニック会場のようになっていましたね。

「最後のここがきついなぁ〜」
と父と笑いながら神社手前の石段を上り、参拝、昨年のお札を納めて今年のお札を購入。

というわけで、愛宕さん説明は過去のブログを読んでいただけたらと思いますので、割愛させていただいて、今年は「月輪寺」へ向かって下山します。

昨年の愛宕さんレポートはこちら
愛宕山2009

一昨年のレポートに詳細があります
「愛宕神社2」
「愛宕神社1」
「愛宕山に登りました」



今年は寒かったり暑かったり、なかなかややこしい気温が続いていたせいで、愛宕の山桜もほとんど蕾でしたが、神護寺や月輪寺方面へ向かう道すがら、綺麗に咲いている桜を見つけました。

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他にも、表参道ではまだまだ咲いていなかった三つ葉ツツジも、こちらでは綺麗に咲いていました。

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月輪寺に向かう道は、神護寺へ向かった道とも、水尾方面への道とも違って、途中に岩がごつごつと剥き出しの面白い道を通りました。

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岩がごつごつある道が大好きなわたしはテンション上がりまくりです。
しかも、この道おすすめです!!
下りでも足への負担が大変少ないです。
「登りもこっちの方が楽ちゃうんかなぁ」
などと父と二人で話したぐらいの優しい道です。
松などの葉が落ちていて、自然のクッションを作ってくれているせいで、とても優しく感じます。
下りでおすすめでないのは水尾方面ですね。
小石の道って感じで、油断するとズルっといきます。
ちなみに表参道からは降りたことがないのですが、表参道の登りは階段が多くて運動不足の方にはきついかも…です。

もうそろそろ見えてきてもええんちゃうん…と言い、道間違えたか?と思うようになった頃…お線香の匂いととともお寺さんらしき屋根が見えてきました。

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「着いた〜!」
\(^▽^)/


裏手から入ったようですが、そこに満開の白い花。

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桜?
桜にしては白いなぁ…と話していたのですが、後で聞いたところ、こちらは梨の花だそうです。

で、先ほどの写真で、葉のグラデーションが綺麗〜と言っていたのが桜。
こちらの桜はもう散ってしまったそうです。
残念(><)

実は今年、山種美術館の速水御舟展に行った時のこと、速水御舟というと有名な作品の一つに「散り椿」というのがあります。
これは一条通りの「地蔵院」の散り椿を描いたもの。
ちなみに夏のレポートですが「地蔵院」のブログはこちら
「地蔵院(椿寺)」

そこで、この作品にはもう一つ「愛宕の桜」という構想があったのを知りました。
沢山の素描が残されていたのですが、その素描が「月輪寺」の桜だったのです。
何故、描かれなかったのはわかりませんが、それを見てからこちらの桜を見たいなぁと思っていたので、今年はこちらから下山することにしたのです。

お寺に入ると
「お疲れ様でした〜」
とお寺の方に声をかけられました。
「そちらの御神水を飲んでお休め下さい」
なんとも素敵なお言葉に、父と一緒にいただいたのがこちら

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「龍女水」
空也上人が観音様の御告により、清滝川の龍神を助けた御礼にと屏風岩の湧き水です。
奇蹟の水は寺の大切な命の水です。水の御恩を知って感謝致しましょう。合掌。

-------------------------------------------------
と書いてありました。
冷たくてまぁるくて、この暑さの中、山道を歩いて来た者には、本当に美味しかったです。
…合掌。

そして目の前の大きな石楠花に目を奪われます。
「大きい石楠花やなぁ、綺麗に咲いてるわ」
と父。

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するとお寺の方が
「こちらの石楠花は、明智光秀が植えた石楠花なんですよ」
とおっしゃった。
「この上の愛宕さんに参拝されたとき、こちらに立ち寄られて石楠花を植えていかれたんです」

(@。@)
なんと!

その明智光秀のお話は、先の方に書いた過去の愛宕山のブログで書いていますので割愛。
その時にこちらに植えられたものだったのです。
最初は桜を植えようとされたのですが、法然さんの桜があったので、桜はひかえて石楠花にされたとのことです。
そんな気遣いと、選んだのがまた石楠花というのが、明智光秀の人柄を表しているようで、わたしは感動してしまいました。

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後日、京都新聞に載った記事を叔母が送ってきてくれまして、その記事によると、最も高いところで約5m、幅約15m、奥行き約10mもあるそうです。
今年の天候不順で、今年の開花は少し遅れたそうですが、おかげでわたしたちはみごとな花を見ることができたかと思うと、今年の天候不順にも感謝しなあかんなぁ〜と。

立派な石楠花に先をこされましたが、こちらのお寺さんのご由緒を書いておかないといけませんね。
境内の駒札によると
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月輪寺
鎌倉山と号する天台宗の寺で、法然上人二十五霊場の第十八番目の札所である。
寺伝によれば、天応元年(781)慶俊僧都の開基と伝え、寺名は地中より掘り出された宝鏡の背面に刻む「人天満月輪」の銘によっている。
その後、空也上人も当寺に参籠したといわれ、境内清泉龍女水は、上人と清滝龍神の話しを今に伝えている。
平安時代の末期には、九条兼実が当地に閑居し、兼実を訪ねた法然上人、親鸞上人がそれぞれ刻んだといわれている三祖像を残す。
また、本堂前の時雨桜は、別離を惜しんだ親鸞が手植えしたものといわれている。
宝物殿には、千手観音立像、阿弥陀如来坐像、伝善哉童子立像、竜王立像、十一面観音立像、聖観音立像などの平安時代の木造群や、空也上人立像、伝藤原兼実立像(いずれも鎌倉時代作)の重要文化財を安置している。

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そうなんです。
先に書いたように、速水御舟の素描から、こちらのお寺を調べたら、九条兼実の名前が出てきて、さらに来てみたくなったのです。
平家物語の歴史的な裏づけなんでも、この人日記が参考にされたりするので、よく目にしていた方です。
大変平家嫌いの方でしたが…(笑)
そんな方がここを終の棲家にされたのか…という思いもありましたし。

お寺さんを参拝して、かんだかとても心地良いお寺さんであったこともあり、御朱印をいただこうとお願いしましたら、先ほどからお話してくださった方が
「ご住職呼んで参りますのでお待ちください」
と奥へ消えてゆかれました。
しばらくして、尼さんが出てこられ、御朱印を下さいました。
この方が、こちらのご住職さん。

そうそう、清滝駅で父を待っているとき、同じようにお仲間を待っていらした年配の方(66とかおっしゃってましたか…)が、
「愛宕さんのぼらはるんですか?」
と話しかけてくださって、そこからあれやこれやと話していて、わたしが帰りは月輪寺から降りようと思ってるんですと話していたら
「あそこはええとこですよ。元気のいい尼のご住職さんなんで、是非会ってみはるとええですよ」
と教えて下さったのです。
その方なんだなぁと…。
お名前は知らなかったのですが、京都新聞の記事に、横田智照住職とありました。
ハキハキと話される、本当に元気のよい素敵な方でした。

そして、中央にある大きな大きな桜の木のお話しをして下さいました。

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大きくて全部を写真におさめることはできませんでしたが、こちらがご由緒にもあった「時雨桜
法然上人と親鸞上人が流罪となった時、こちらに心を残し手植えされたもので、その別れを惜しむかのように、4月中旬から5月上旬の頃、葉先か雫を落とすというのです。

ちょうど傾きかけた陽の光が逆光となって、葉先にキラキラと光るものが…

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「昨日も雨が降っていません、今日も関西全域に乾燥注意報が出ています。でも雫が落ちるんですよ」
とご住職。

ふわっと風がふいて、雫がポトリと落ちます。
なんとも神秘的な光景です。
伝説の通り、別れをを惜しみ、ここに心を留めて手植えされたという上人のお心を現在にも伝えるかのようです。
写真ではなかなかうまく撮影できませんでしたが、頑張ったズームがこちら

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わかりにくいのですが…どうでしょう???

実際、このような品種の桜のお話は聞いたこともないですし、この木がやはり泣いているのだと思いたいです。
おそらく、速水御舟が描きかたかったのも、この桜なのではないかと。
この涙を流す桜と散り椿を対にしたかったのではないかと思いました。
何故、完成されなかったのでしょうね…。

とにかく、このお寺さんと、大きな石楠花と、この不思議な桜と、気持ちの良い住職さんとで、父もわたしもとても好きになってしまいました。
父なんかは、
「今度は、桜が咲いてる時に来なあかんな!」
と気合すら入ってます(^^)
また、車なんかで来られない、自分の足で登るしか訪ねる方法はないというのも、わたしたちには魅力でした。
本当に素敵なお寺さんです。

宝物殿の方は、事前にご連絡しておくと見学することができるそうです。
あまりにも感動したので、宝物殿も見たくなりましたし、事前に予約を入れておけば…と悔やまれてなりません。

最後に、空也の滝に向かう道を尋ねると、ご住職はこれまたとても丁寧に教えて下さいました。

父と二人で、とても良い気持ちになりながら、ご住職さんとお寺の方に御礼を言って、月輪寺を後にします。
ちなみに、わたしは3年前に愛宕さんに登った時には「げつりんじ」と読んでおりましたが、「つきのわでら」と読むようです。



再び山道を下りながら、空也の滝を目指します。
続く。
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2010/5/17

道祖神社・不動堂  史跡散策-平家物語ゆかり

2010年5月2日の続きです。

新撰組不動村の屯所跡を2箇所紹介しましたが、不動村というのだからお不動さんがあるだろう…と探してみつけた不動堂の紹介をあとまわしにしていました。
ブログのジャンルを平家物語ゆかりの地にカテゴリわけしたのも、不動堂のお隣にある「道祖神社」のせいです。

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手前が道祖神社、奥が不動堂。
まずは道祖神社から

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「えんむすび」とかかげてあるのでどなたのゆかりの地なのだろう…と気になったのですが、神社の境内も狭く、ご由緒書きもなく、いったい誰がお祀りされているのかもわかりません。
道祖というのだから、猿田彦あたりかしら?と思ってみたり…
境内は狭いのですが、いくつかのお社が並んでいます。
その奥に、こんな文字

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石段の間にあった「洛陽二十五社 書聖天満宮」文字。
初めて聞く名前です。洛陽25社って何だろう…

いろいろわからなかったので、お隣の不動堂の方に聞いてみようと思い不動堂の方へ。
おそらく神仏分離で分かれただけで、もとは一つだと思いましたから。

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こちら「まぼろしの屯所」の提灯が上がってます。

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御由緒などいただけませんか?と尋ねると、今切らしていて…ということでいただけずしょんぼり…
いらっしゃった方に、お隣の道祖神社はこちらと同じですよね?と尋ねたところ、もともと一緒ですとお答えいただいたので、まずは縁結びの由来を尋ねてみました。
「あぁ、あれは義経と静御前にゆらいしているんです」
…え?(@。@)
「ここ、新撰組の屯所跡とかかかげてますけど、もともとはそっちなんです」
そっちなんですって…義経ゆかりの地ってことですか?
「ほら、本堂の上に絵馬もありますでしょ?」
本堂の上を見上げると義経らしき武者の描かれた大きな絵馬が2枚。
「どんな話があるんでしょう?」
「えーーっと…すいません…わたしはそこまで聞いてなくて…」
…残念!(>×<)
「なんかね、ここの向かいに義経の身代わりになった人の屋敷があったそうなんです」
「それは誰ですか?」
「…あ、すいません…ちょっと名前までは…、義経が敗戦して逃げる途中に身代わりになったんですよ」
義経が敗戦???
「あ、あの人何回か負けてるんですよ」
…それは何の戦いでしょう…?
つか、おそらく鎌倉に追われて京都を出た後のことでしょうし、それは敗戦というのだろうか???…と思ったのですが、思っただけです。

では、神社の前にあるこのレリーフは、義経と静だったんですね。

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鎌倉に追われ、京都を出る時に、ここで静と分かれたとか、再び会う約束をしたとか…そんなとこかなぁ…と勝手に由緒を推測。

で、身代わりになった人というのは、吉野で身代わりになった佐藤忠信のことだと思います。
この人のお屋敷七条坊門不動堂あたりにあったのいうのですから間違いない。
吉野で身代わりとなって都に潜伏、ここに住んでいたのだそうです。
なるほど…

ですので、ブログのカテゴリを「平家物語」にするのはどうか…とも思いましたが、新撰組とカテゴリするのもなぁ…と思ったので…。
なんせ「まぼろしの屯所」ですから…
お寺さんも「新撰組というより、そっちなんです」とおっしゃってましたからね。
平家物語というか義経記って感じですが、こちらにカテゴリしてみました。

そんなわけで、なんかふわっと新撰組めぐりをしてしまいました。
歩いて、お話を聞いて、やっぱり新撰組は京の人々に嫌われ(うとまれ?)ていたんだなぁと思い知りました。
でも、今はそんな新撰組で観光客を集めているというのも…(笑)
ひにくなもんですなぁ…
そんな現在を見たら、新撰組の皆さんはなんと思うでしょうね(^^;



さて、本日はこれにて終了〜♪
京都駅まで歩いて行って、市バス206…205…50…どれでも先に来た方に乗って帰ろう…っと♪
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タグ: 社寺 源義経 新撰組

2010/5/16

西本願寺(太鼓楼)・不動村屯所跡・伊東甲子太郎外数名殉難碑  史跡散策-京都

2010年5月2日の続きです。

市バスを堀川七条で下車したのは、もちろん新撰組が壬生から移転した先「西本願寺」を訪ねるため。

堀川通りに面してツツジが満開で、とても綺麗でした。

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写真をご覧いただくとおわかりいただけるかと思いますが、3時ぐらいになると陽射しが西に傾くので、実はお寺さんのほtんどが逆光になってしまいます。
というわけなので、ここは新撰組に絞った感じで…
なにせ、西本願寺といえば、かなり大きなお寺さんですから、全部ことこまかに説明していると、この先行く場所に行ったときには、陽がかたむききってしまっているおそれもありましたから…

それに本願寺を紹介するなら来年!とも思ってましたし(^^;
親鸞聖人が亡くなって750年、来年の4月から再来年の1月まで法要があるそうですし、できればその時に…と。

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にしても…
実はわたし、西本願寺に来るのは初めてかもしれません。
少なくともわたしの記憶に残っている年齢ではありません。
浄土真宗のお寺さんですし、うちは真言宗でしたから、それほど行かなきゃ!と思わなかったのと、有名なお寺さんだしいつでも行けるわ…という感じで…。

西本願寺の創建は、親鸞さんの末娘の覚信尼がつくった大谷廟堂だといいます。
その孫・覚如さんの時に本願寺という名前になったそうです。

長州贔屓のように言われていますが、たしかもともと徳川家が本願寺が力を持つのを快く思っていなくて東西に分けられた…というような話しを聞いたことがあるのですが…
西本願寺のHPにも書いてなかったので、わたしの記憶違いかも…
でも、おそらくですが、もともと幕府に対して快く思っていなかったお寺さんだったのでは?とも思うのです。

で、今回は新撰組中心のレポをと思っていたのですが、これまたほとんど残っていない(笑)
残っているのは、堀川通りに面した北角にある「太鼓楼」だけ。

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新撰組の幹部が、こちらに寝泊りしていたそうです。
境内からの写真。

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入口のようなものを発見

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ここが出入り口だったようです。

もともとは、時刻を知らせたり、法要の合図とした太鼓があった場所なのだそうです。
宝暦10(1760)年の親鸞聖人500回忌の境内の整備で建てられたものが現在に残っているものと考えられているそいうです。

境内にある大きなイチョウは、京都市指定天然記念物に指定されています。

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おや?と思われた方もいらっしゃると思います。
わたしも近づくまでイチョウだとは思っていませんでした。
こんなに横に広がるイチョウってめずらしくないですか?
植えられたときから、剪定などとちゃんと行なわれていなかったためではないかと言われているそうです。
樹齢は明らかになっていませんが、このイチョウの前にある御影堂が寛永13(1636)年に建てられていることから、その頃からあるのではないかと言われています。
…そうすると、新撰組がここに屯所を構えた頃にはあったでしょうし、このイチョウは新撰組のことも見ていたことになりますね。
イチョウは火に強いそうですが、この木も天明の大火にあってなお生き抜いた木なのだそうですよ。

いやぁ…それにしても広い。
大きすぎて、境内に立つと自分のちっぽけさを感じさせられます。

また来ますね…と心のうちでご挨拶して堀川通りを南下します。



ざっくり西本願寺を歩いたわたしは、そのまま堀川通りを下がり、塩小路通りまで。
堀川塩小路を少し下がると、京都リーガホテルがあります。
そのホテルの前にあるのがこちら

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西本願寺から追い出された(?)新撰組が慶応3(1867)年6月15日不動村に築いた屯所跡の碑です。

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事あらば われも都の村人と
      なりてやすめん 皇御心

という近藤勇の句が書いてありました。
近藤勇が上洛してものなくの頃詠んだ歌だそうです。

屯所の移転に際して、土方歳三が吉村寛一郎に西本願寺と交渉させ、引越し費用を本願寺にもたせたと書いてありましたが、本願寺としてしては、お金払ってでも出て行って欲しかったと解釈した方がよさそうです。

屯所の広さは1万uだったいいますから広い!
お風呂なんか30人が一度に入れる広さだったんですって。
12月14日に伏見奉行所に移ったのですから、6ヶ月だけの短期間使用しただけでした。

ところが…

そんな不動村の屯所跡なんですが、永倉新八の残した記述でも「七条堀川下ル」とあるだけで、正確な場所は不明なのだそうです。

そんなわけで、塩小路西洞院の角にある「ハトヤ瑞凰閣」の角にも「新撰組最後の洛中屋敷跡」という碑があります。

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さらに!

不動村というのだから、お不動さんがあっていいじゃないかと思っていると…ありました!

…ですが、ちょっとここは新撰組というより、平家物語に組み込みたいなぁと思いますので、ちょっと後まわしにして、先に「油小路事件」の現場へ

塩小路から油小路を上ルと、しばらくして見えてきます。

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写真は油小路の上の方から撮影しています。

伊東甲子太郎は、常陸(茨城県)の出身で学問はもちろん北辰一刀流の名手でした。
元治元(1864)年、門弟7人を率いて参謀として新撰組へ。
まぁ、諸説あるみたいですが、次第に新撰組と意見が合わなくなって、慶応3(1867)年3月に同士15人を連れて新撰組を脱退。
孝明天皇の御陵を御守りする「御陵衛士」を作ります。

ちなみに、その御陵衛士屯所としたのが、東山の高台寺のねねの道。

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写真は、昨年のお盆に高台寺で妖怪画が見られるとあって出向いた時に撮影していたものです。
その時は、まさか新撰組ゆかりの地をめぐるなんて思っていなかったので、まぁ撮っておこうかなぁ…と1枚だけ撮影したのです。
…こんなふうに役に立つとは…撮っておいてよかった(^^;

ここでの伊東は、新撰組の奇襲にそなえて、いつも刀を抱いたまま眠っていたといいますから、どんなふうに仲たがいして脱退したんでしょうんねぇ…。
薩摩藩の援助を受けながら、倒幕を説いていたというのですから、もはや新撰組と真逆の方向に向かっていたんですね。

で、これも諸説ありますが、新撰組で伊東暗殺計画が持ち上がり同年11月、近藤勇の妾宅で伊東を招いて酒宴を開き、酔った伊藤を帰り道に襲撃したのだそうです。
まぁ、北辰一刀流の名手ですから、酔わせでもしないと勝てなかったのかも。
その知らせを知って衛士たちが駆けつけ来たところを、さらに新撰組は待ち伏せをして襲ったといいます。
伊東一派一掃というわけです。
まぁ、これで新撰組サイドにも被害は出たようですが…
これを世に言う油小路七条の変。
…と書いてあるのもあれば、単に油小路事件と書いてあるのもあります。

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伊東は、ここ本光寺の門前の石塔にもたれて絶命していたそうで、伊東甲子太郎絶命の碑というのはあるようなのですが…いったいどこにあったのでしょうか?
お寺さんの中でしょうか?



さて、先においてけぼりになった不動村屯所の不動堂のご紹介をば…
続く。
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2010/5/14

前川邸跡・光縁寺  史跡散策-京都

2010年5月2日の続きです。

「壬生寺」を後にして、もう一つの屯所跡「前川邸跡」に向かいます。

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ですが、ここ…
建物以外は、どうも完全に物販スペースになっているような気がします。
わたしがいろいろ見逃していたのかもしれませんが…
入ってすぐに、新撰組の顔出し看板があったり、ベンチがあったり。

お店の前に、当時を偲ばせる図面がありました。

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写真が細かくてうまく見えないと思いますが…(^^;

特にグッズを買うこともなかったので、天井の大きな梁なんかを眺めておりました。


「前川邸跡」を出て綾小路通りを東へ…
大宮通りの少し手前に「光縁寺」があります。

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門も閉まっているので、入れないのかなぁ???と思っていたのですが、門の左脇の引き戸を明けると…ガラガラっと開きました。
いいのかなぁ?と顔を出すと、他の観光客の方が丁度拝観料を払っていらしたところでした。

引き戸を閉めて中に入ります。

中にはお寺さんが綺麗に手入れしてらっしゃるのだろうと思う花々が鮮やかな色で咲いていましたし、おそらくエンドウ豆の花だと思われる蔓植物の花も元気良く咲いていました。

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わたしも先の方と同じように、拝観料を払います。
こちらに山南さんのお墓があると知っていたので、そこでお線香をいただき、ライターもお借りしました。
「ここでつけて行くか?」
とお寺さんの方はご親切に言って下さいましたが、お墓参りの前に、まずはご本尊を拝まないと…と思っていたので、ライターだけをお借りすることにしました。

この日、こちらも特別公開なのか、本堂に上がらせていただき、ご本尊を拝見することができました。

いただいた案内書によると、こちらは満月山普照院光縁寺(まんげつざんふしょういんこうえんじ)というのは正式名称で、浄土宗のお寺さんです。
知恩院さんの末寺なのだそうです。
創建は慶長18(1613)年の頃、やはりここも天明の大火で本堂や山門を焼失していて、文政2(1819)年本堂は再建、山門は弘化3(1846)年に再建され、それぞれ現在まで残っているそうです。
ご本尊は阿弥陀如来。
左に観音菩薩、左に勢至菩薩。
右脇には、善導大師、法然上人をお祀りされています。

ご本尊に手を合わせて、本堂裏の墓地へ向かいます。

そのお墓は、西北角にありました。

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向かって右に「山南敬介藤原知信墓」、中央が「大谷良輔藤原義則墓」とあり、あとは5名の名前が刻まれているように見えますが、実際、こちらには数多くの新撰組隊士が眠っています。

資料ですし、全部名前をあげてみますか!

文久3年12月27日 野口健司
文久4年9月6日 葛山武八良橘憲章
元治2年2月23日 山南敬介藤原知信
元治2年3月4日   大谷良輔藤原義則
慶応元年6月21日  施山多喜人源泰朝
慶応元年6月21日  石川三郎源義元
慶応元年9月1日   松原忠司藤原誠忠
慶応元年12月12日 桜井勇之進平盛房
慶応2年2月5日   大石造酒蔵源守仲
慶応2年2月12日  河合耆三郎吉輝
慶応2年2月18日  小川信太郎平国行
慶応2年4月1日   谷三十郎藤原供国
慶応2年6月23日  柴田彦三郎忠興
慶応2年10月7日  市橋鎌吉藤原義次
慶応3年1月10日  田内知源重次
慶応3年4月15日  眞明院照誉貞相大姉(沖田氏縁者)
慶応3年4月26日  矢口健一郎藤原定孝
慶応3年6月14日  冨川十郎藤原政行
慶応3年6月14日  中村五郎藤原政常
慶応3年6月14日  佐野七五三之助藤原重之
慶応3年6月14日  茨木司藤原信忠
慶応3年6月23日  加藤羆藤原定徳
慶応3年11月18日 藤堂平助宜虎
慶応3年11月18日 服部武雄良章
慶応3年11月18日 毛内有之助良種
慶応3年11月18日 伊東甲子太郎武明
慶応3年12月8日  宮川延吉頼温

以上が資料にあった名前です。
でも、この人たち以外も眠っているそうですが、何せ「人数が多くて、戊辰戦争の頃には、もう名前も記録できなかったそうですわ」
とお寺さん。

そんなお話をしていると、ご年配の男性の観光客の方(関西弁ではなかったです)が
「新撰組の墓にしては小さいね」
とおっしゃったんです。
するとお寺さんが
「まぁ…一応、賊軍やからねぇ…」
とおっしゃった。

当時のことを思えばしかたないことだろうと思います。
新撰組は錦の旗に追われたわけですから、おっぴらに大きなお墓なんか建てられなかったでしょう…と思うのと、やはり京都の人たちは、そんなに新撰組が好きじゃなかったのでは?とも思うわけです。
仏さんに向かって、ひどいこともできませんからね、お墓の前でそんなことは言えませんが…。
ここは静かに手を合わせ、いただいたお線香に火をつけ、線香の束を3等分してお供えました。

春風に 吹っそはれて 山桜
      ちりてぞ人に をしまるるかな

これは、山南さんが切腹したことを知った伊東甲子太郎が弔いに詠んだ歌なのだそうです。
屯所の移転で土方と対立、もともと犬猿の仲だったといいますから…
で、近藤さんの思案を探るために脱走。
もともと試衛館出身ではなかったので、近藤さんもかばいきれず切腹を申し渡した…ということだったかと思います。
介錯人は沖田総司だったのだとか…。

えっと…何故ここに新撰組のお墓があるのかということも書いておかないといけませんね。
案内書に書いてありました。

新撰組が壬生に屯所を構えていた頃、こちらの門前近くに新撰組の馬小屋があったそうで、多くの隊士がこちらの前を行き来していたそうです。
その中に山南敬介もいて、こちらの山門にある「丸に右離れ三つ葉立葵」び紋が山南家の家紋と同じだったと、当時のご住職・良善上人は年齢も同じだったということで交流をもったそうです。
当時、葬儀も出せない人々が、莚にまかれた遺体を門前に放置されていたりして、そういったご遺体も、住職は分け隔てなく弔っていたそうです。
そんなことで、山南さんが切腹した隊士たち(局中法度を破ると切腹だったそうです)をこちらで弔っていただいたのが始まりなのだそうです。
3人目には自分は名前を連ねることになるのですが…
その後も多くの隊士たちを弔らわれています。

で、先ほどの上げた名前は、過去帳や墓石に記載された者だけで、その後は名前を記録することもできなったのですが、ちゃんと弔って下さったのだそうです。
先ほどにも書きましたが、当時の情勢を考えると、こちらのお寺さんが、本当に分け隔てなく仏さんをお弔いされていたのだとよくわかりました。

また、幕末の円山派の絵師・中嶋来章とその子・有章のお墓もあります。
京都御所や二条城本丸に襖絵などと残した方だそうです。
有章さんの方は、孝明天皇が徳川家茂や慶喜ら文武百官を従えて、両賀茂神社へ行幸されたのを描いた屏風図を残しているそうですよ。

というわけで「光縁寺」を後にします。
来たときのように、引き戸をそろりと開けて顔を出すと、わたしと同じように、入ったもんか…とうろうろされている観光客の方が数人。
わたしが出てきたものだから、入っていいだぁ〜といわんばかりに門をくぐっていかれました。



余談ですが、お寺さんの境内、及び墓地に、周辺の迷惑になりますので騒がないで下さい。という張り紙が気になりました。
新撰組ということで、若い女性がキャーキャーと騒ぐのでしょう。
…実際、残念ながら壬生寺でも沢山見かけました…。
わたしがいた間でも、お墓だけみて本堂に手を合わせず出て行く方々もいらっしゃいました。
周辺の迷惑もさることながら、お寺さんの境内であること、墓地であることの意味をちゃんと考えて参拝してあげてください。



その後、いったん四条大宮まで出て、軽食をすませると、今度は再び市バスの206に野って、七条堀川で下車…

続く。
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2010/5/13

壬生寺<2>  史跡散策-京都

2010年5月2日の続きで、壬生寺<2>です。

特別公開は、本堂と資料室(?)だけでなく、本堂向かって左手にあるお庭も公開されていました。
こちらにもお寺の方がいらっしゃいまして、撮影は可能だと確認できたので、写真をアップ。

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もうこの期間以外は公開しないかもしれないと言われると、かなり長い間お庭を眺めてしまいました。

京都市指定の名勝となっています。
お庭の作者は不明とのことですが、北村援琴の『築山庭造伝』に
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微密閑艶体、細やかに心をつけてしとやかにみゆるすがた
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とあるそうで、当時から名園だったそうです。
現在、水は枯れてなくなっていますが、先のブログ(八木邸の回)でも、昔は湿地帯、だから水が生まれる壬生という名前なのだと書きましたが、水田地帯の広がる場所だったので、水も豊富にあったそうです。
平安京の中心である朱雀大路が現在の千本通りだと思えば、かなり東に広がったといえます。

話しはそれますが、新京極という通りがあります。
修学旅行生などのお土産屋さんが多く軒を連ねる賑やかな通りで有名ですが、新京極…元の京極は現在の寺町通りです。
豊臣秀吉が御土居などというわけのわからないものを造ったあたりで、お寺さんを何故かここに集めて寺町になっちゃったわけです。
で、この京極、読んで字のごとく京のきわにあったわけです。
ちなみに西のきわは、西京極。
駅名に「西院」というのがありますが、「さいいん」と呼ばれることもありますが実は「さい」が正しくて(駅名も「さい」です)賽の河原の意味だそうですよ。
その先はあの世だったわけです。野辺ですからね。

そう思うと、壬生はそのきわにある場所でもあります。
嵯峨のあたりは湿地帯…という話しは「蚕の社」の回にHPの方で書いていますので、興味のある方はそちらをどうぞ…(^^;

それがだんだんと乾いて、現在のように人も住みやすい状態になったら、この池の水も枯れてしまったんですって。

写真中央に見える築山斜面枯滝石組は、石組によって滝の流れをあらわしています。
嵯峨野にある「天龍寺」の夢想疎石の庭が有名ですが、あそこにもこんな石組で滝を表していますよね。
写真で見えますか?
その滝の下、左下の方ですね、少し反ったような石があります。
それが鯉を表しているのだそうです。
滝を登った鯉は竜になるという登竜門のあれです。
手前の橋は4mにもなるらしいです。

先の<1>の方にも書きましたが、ここはあの天明の大火で被害を受けています。
このお庭も例外ではなく被害を受けたそうですが、昔の姿をとどめた状態で再整備され、現在に江戸時代の名園をしのぶことができる貴重なお庭なのだそうです。

普段は一般公開されていません。

天気も良すぎて陽射しがキツイなぁと思うような日、緑あふれる綺麗なお庭を眺めていると、時間のたつのも忘れてしまいます。
しばらく眺めていましたが、お礼を言ってお庭を出て、本堂前から境内へ。

本堂横に御朱印をいただけるところがあるというので、御朱印をいただくことに。
写経とか奉納したわけではありませんが、これほどしっくりお寺さんを味わって、ご本尊も目の前て拝ませていただけたので、御朱印をいただこうかと思いまして…。

御朱印をいただいて、あと、壬生狂言の冊子があったので、勉強のためにこちらも購入させていたただき境内を散歩。
<1> で紹介した以外にも境内にはいろいろあったので、まずはそれをご紹介。

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阿弥陀堂のお隣にあったのが「弁財天」と書かれてあるだけで、それ以外の由緒はわかりませんでした。

そのお隣にあるのが「水掛地蔵

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慶安2(1649)年の作なのだそうです。
水を掛けて願うと、1つだけ願いが叶うのだそうです。
1つだけです。欲張ったは駄目!
手前に「水掛地蔵ご詠歌」というのが書いてありました。
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みずかけの こころでねがえ
なにごとも おもわでむすべ
かなう みほとけ

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そのお地蔵さんの後ろに大きな竜を発見!

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向かう先は先ほどの「弁財天」さんのようですが…
こちらからだと、説明書きがないのでよくわかりませんが、壬生塚に入ると書いてありました。
平成15年に壬生で板金業を営む桶本忠弘さんが奉納されたものだそうです。


他に、北門のそばにあった「三福川稲荷堂

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「三福川」とかいて「みぶがわ」と読み仮名がふってありました。
ここより少し東が「壬生川」という地名があるので(壬生川通りかな?)そこの関係かしら?と思ったのですが、創建年代は不明のようです。
扁額には「三福川大明神」とあります。
何度もいいますが、ここはもともと湿地帯だったので、壬生菜をはじめ田んぼも多く、そこから五穀豊穣の神として祀られていたのではないかと書いてありました。
また江戸時代末期の「壬生寺絵図」には「六所明神堂」「一夜天神堂」と並んで建っているそうで、壬生の守護神としての一面もあるようです。

さて、阿弥陀堂の奥、「壬生塚」へ行きたいと思います。

阿弥陀堂内は撮影禁止ですが、そこから先は撮影禁止ではないみたいです。
というか…わたし、学生時代に来たときはお金なんて払ってないですよ…
昔はきっと無料だったと思うんですが…いつからこんなことに…

朱塗りの橋を渡ると正面にあるのが「壬生官務家墓

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そのお隣にあるのが三橋美智也氏の「あゝ新撰組」の歌碑

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100円を入れると音楽が流れるしくみになっています。
たまたま、わたしの前のご年配のご夫婦が100円を入れられたようで、音楽が流れはじめました。


その隣りにあるのが「壬生寺歴代住職供養塔
壬生寺にある宝筺印塔の中では最古のもので、鎌倉時代のものだそうです。

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通路向かって左手

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手前の方から「お百度石」「慰霊塔」「新撰組顕彰碑
そして絵馬掛所をへて

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新撰組局長・近藤勇の胸像です。


その隣に並ぶのが

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胸像の隣、写真の右手手前が「近藤勇遺髪塔
そのお隣が「河合耆三郎の墓」「隊士七名の合祀墓
で…非常に残念なのですが、写真に入らなかった(ホントなら左端い写るべきところ)のが「芹沢鴨と平山五郎の墓


先ほどの通路で顕彰碑の向かいにあるのが「人丸塚

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万葉歌人の柿本人麻呂の灰塚だと伝えられているそうです。
ですが、現在の石は大正時代のものだそうです。
「人麻呂」が「人丸」になり、「火止まる」になり、火除けの御利益があるのだとか…。
なんでだろう…人丸と言われると「鬼」しか出てこないので、人麻呂だと思ってなかったです…(^^;
絶対、鬼に関係する塚だと思っていたんで、なんやそうかぁ…という気分。



というのが壬生塚です。
毎年7月16日
そう!あの池田屋騒動の日に合わせて、新撰組隊士等慰霊供養祭を行なっているそうです。
…池田屋騒動の日なら、新撰組じゃなくて長州勢だろう…とか思うのはわたしだけでしょうか…(^^;
ちなみに7月16日は祇園祭の宵山です。


そんなわけで「壬生寺」を後にします。
続く。
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タグ: 歴史  新撰組

2010/5/11

壬生寺<1>  史跡散策-京都

2010年5月2日の続きです。

「新徳寺」の向かいにあるのが「壬生寺」です。

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律宗のお寺さんで、創建は正暦2(991)年に快賢(かいけん)僧都よって開かれました。
ご本尊は延命地蔵菩薩(平安時代作・重要文化財)で、昔は地蔵院とも呼ばれていたそうです。

壬生寺といえば「壬生狂言」が大変有名で、重要無形民俗文化財として指定されています。
壬生狂言の上演は、春の4月21日〜29日と秋の10月の連休。
もともと壬生狂言には何かの本で、この衣装が死者の模様だと読んで以来、大変興味があったのですが、残念ながらまだ一度も拝見したことがありません。
狂言堂も少し変わった造りになっていて、2階があるような感じでできています。
向かいの会館の2階から見学するのですが、舞台から飛び降りたり、かわらけの大きなような炮烙(ほうらく)というのがあって、それを落として割ったりするのに使われるそうです。「炮烙割」という狂言演目の一部なのですが、人々が奉納した炮烙を割って厄除開運を願います。

壬生狂言は、正式名称「壬生大念仏狂言」といいます。「壬生さんのカンデンデン」という呼びやすい愛称もあります。
この起源に登場するのが、あの円覚上人。
正安2(1300)年に上人の「大念仏会」を行なったのですが、スピーカーもマイクもない時代です、多くの人が集まっている中、身振り手振りで仏の教えを説いたことで、無言劇を思いつき、これが壬生狂言の始まりになったといいます。
ですから、この狂言には台詞がなく無言劇なのです。
もちろんお囃子ははいるそうですが…。
東京で見た、大鳥さんの里神楽みたいですね。
演目は全部で30。
鑑賞料として、大人800円、中高生600円、小学生400円。
でも外から見る分には無料みたいです。
(たしかな情報ではないので、その時季になったら確認してください)

そんな狂言が行なわれるのは、北門そばにある「大念仏堂

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こちらも重要文化財に指定されるほどのものです。
写真右手に席があり、左が舞台。
その前にあった説明書きです。
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安政3(1856)年の再建である。
狂言堂とも呼ばれ、この建物の2階で壬生狂言が演じられる。本舞台、橋掛り以外に能舞台には見られない「飛び込み」や「獣台」などの特異な構造を持つ、他に類例をみない特異な建造物である。
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わたしが入ってきたのは東門で、おそらく正面だと思います。
東門入ってすぐに「一夜天神」という社がありました。

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学業成就とともに、遠方親族の安全祈願というのもありました。


その横に境内マップがありました。

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写真を小さくしたら読めなくなったので、打ち込んでみました。
大きなお寺さんですよね。


その横に小さなお地蔵さん

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夜啼き地蔵」とありました。
「おせき地蔵」とも呼ばれていて、病気平癒や子供の夜泣きに御利益があるそうです。
もともとは塔頭中院にあったそうです。

ちなみに中院は撮影し忘れてしまい写真がありません(T_T)

そのお隣が「阿弥陀堂

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歴史資料館と一緒になっています。
平成14年に完成したものだそうで、かなり新しいです。
歴史資料館に入るには200円。
その奥に壬生塚があり、そこに入るには100円。
何かと入用で…(^^;

とりあえず、壬生塚の方が後にして、まずは本堂参拝。

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写真左に見えるのが「千体仏塔

この本堂は特別拝観期間でした。
受付で600円。
本堂に上がらせていただくことができます。
そして本堂で壬生寺の歴史やご本尊の解説を受けることができました。

正暦2(991)年、三井寺の僧だった快賢さんが仏師定朝(ていちょう)に3尺の地蔵菩薩を造らせて、これを本尊として五条坊門壬生に一宇を建立、寛弘2(1005)年に堂供養を行ない、白河天皇が地蔵院の号を与えたのだといいます。
建保元(1213)年、平宗平(たいらのむねひら)が現在の場所に移して伽藍を建立したものの、正嘉元(1257)年に焼失。
宗平の子・政平が再興して、名前を「宝幢三昧寺」改名。
円覚上人の大念仏会などで賑わうも、中世末期頃には衰退、豊臣秀吉や徳川家康の保護を得てまたまた再興。
でも、あの天明の大火で焼失してしまうと、またまた衰退。
再建されたと思ったら、今度は本堂が昭和37(1962)年に本尊とともに、なんと放火によって焼失してしまいます。
現在の本堂は昭和45(1970)年に再建されたものだそうで、現在の本尊・地蔵菩薩立像は、奈良の唐招提寺から移座さられたのだそうです。
元の本尊は半跏像だったそうで、現在のご本尊の裏側に写真が展示してありました。
現在のご本尊も新しいかと思うと、実は藤原時代作で重要文化財になっています。
こちらのご本尊さん、お地蔵さんによく見られる右手に錫杖、左手に宝珠ではなく、左手の宝珠はそのままなのですが、右手は下へと下げれて手のひらがこちらを向いている珍しいお姿でした。
これは、この右手で全ての人々をお救いくださるという形なのだそうです。
桐材を中心に檜を合わせて造られた寄木造りで、漆箔が施されています。
日本でも最古といわれるほどの地蔵像なのだそうですよ。

そんな説明を受けながら「おや?」と思ったわけです。
三井寺だったのに唐招提寺???
で、解説が終了したとき聞いてみた。
「円覚さんの頃に改宗したんですよ」
と丁寧にお答えいただけました。

こうしてちゃんとお寺さんからご説明を受けるのはとても勉強になるし、ありがたいことですね。
ビバ!特別公開!

最後にとってつけたように新撰組のお話をされたのがおもしろかったです(^^;
「新撰組、新撰組って言われますけど、実際に新撰組がいたのは、お隣の八木さんとこで、うちは直接関係ないんですよ」
にこにこ笑ってさらりとそんなことをおっしゃる。
「境内が広いから、軍事朝礼やったり、演習で大砲…まぁもちろん空砲なんかを撃ったりしてたそうで、今やったら窓もしっかりしてますけど、当時は障子ですからねぇ…壊れたりして…まぁお寺としては…迷惑やったんですわ(笑)」
言っちゃった…(笑)
西本願寺に行っても、度々ここに来てそんなことをしてたんだそうです。
そりゃ迷惑だわ…(^^;

本堂のまわりの襖絵は平成13年に友禅画家のあだち幸さんがぐるりと描かれたもので、鮮やかな色で人間の苦の世界から仏の世界までを描いてありました。
天井の柄は、壬生狂言の衣装の柄だとおっしゃるので、もしやこれが死者の模様?とか思ったのですが、向かい合う鳳凰のように見えました。

さてこの特別公開、本堂内部だけでなく本堂脇にある資料室だったか宝物室だったか…名称は忘れてしまったのですが、こちらも公開されています。
小さな一室なのですが、十王の掛軸などがこじんまりと並んでいました。

入口付近に壬生狂言のお面が並んでいました。現在は使用されていない古い面なのだそうですが、その一つ「僧」の面の横に「伊藤若冲」の文字を発見!
煤i@□@
「これ!どうゆうことですか!!」
入口に座っていらっしゃったお寺の方に聞いてみる。
読んでそのまま伊藤若冲が寄進したものなのだそうで、お面の裏にそう書いてありますよというものだったんです。
うわぁ…伊藤若冲ファンとしてはかなり感動です。
若冲が打った面…だとさらに嬉しいのですが、それを証明するものはなく、ただ贈ったという話しだけしかわらないそうです。



と、ここまで書いて長いのでいったん切ります。
続きで「壬生塚」を書きます(^^;
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2010/5/10

八木邸・新徳寺  史跡散策-京都

2010年5月2日の続きです。

「梛神社」を出て坊城通りを下がると右手に見えてくるのが「新撰組壬生屯所跡 八木邸」です。

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新撰組が屯所にしたところの一つで、ここにいた2年間ぐらいが新撰組の一番華やかな時代ではないでしょうか…。
表には「新撰組発祥の地」という駒札がありましたが、細かく言えばくろ谷さんが発祥の地かと思います。

入っていくと、長屋門の手前で拝観料を払います。
1,000円
煤i ̄■ ̄;


び…びっくりしました…高くて…。
新撰組を侮っておりました。
いやぁ…実は、新撰組って好きでも嫌いでもない…程度だったんですよね…。
京都の人間としては、よその人やし…みたいな(笑)
何故、今回あらためてやって来たかと申しますと、お仕事でやることになった某乙女ゲームのせいでございます…(爆)
学生の頃に、幕末大好きな友人がいまして、壬生寺に一緒に行った記憶はあった程度です。

で、1,000円にビビリながら支払うと、なんとお抹茶付きでした。
…お抹茶は任意にして500円にしませんか???(´Д`;

その拝観料を払った横に「隊士腰掛の石」というのがありました。

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本屋敷と表屋敷の間にあった石で、隊士たちが腰を下ろして休んだりしていたんだそうです。
で、2〜3移転ののち、ここに落ち着いた石なのだそうですよ。

こちらが長屋門

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ここの右柱に『松平肥後守御預新撰組宿』という表札を掲げて、沖田総司だの、原田左之助なんかがその前へ立って、がやがや云いながら、しみじみ眺めて喜んでいた…と、八木為三郎翁(八木源之丞三男)の遺談があるそうです。

こちらの紋が三ツ木瓜で少し気になったのですが、いただいたチラシには、八木家の中祖が、戦国大名・越前朝倉家で、この紋を使用しているのだそうです。

長屋門をくぐると、こんな景色

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中も当時とほぼ変わってないそうです。
もちろん中は撮影禁止でしたので、写真はありませんが、芹沢鴨らが暗殺された部屋で、血天井とか、勢いあまって鴨居についた刀傷とか見てまいりました。

土間では、稽古もしたし餅つきなんかもやっていたそうです。
奥まで見られないですし、二階にも上がれませんから、実際どれほどの広さがあるのかはわかりませんが、芹沢鴨の寝所の大きさをみても、たしかに人数が増えたら手狭だろうなぁ…と。

表にあった八木家住宅の駒札によると
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八木家は、壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老をつとめていた。また幕末には、新撰組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所としてしられている。
建物は長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して立つ、当家に残る普請願から長屋門は文化元(1804)年、主屋は文化6年の造営と知られる。
主屋は西端に土間を通し、土間に沿って居室を三室づつ二列に配置する。入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を供えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげを残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の農家の遺構として、また、新撰組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。

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これで、少し中のイメージをわかせていただけたでしょうか?
思ったより天井は低く感じますが、この時代の建物に共通する高さです。

で、ここが手狭になったために移転した先が、これまた嫌がらせといわんばかりの西本願寺(^^;

壬生から引き揚げる際のエピソードで、ホントがどうかわかりませんが、八木家と前川家に寸志を渡したそうです。
たしか、八木家に5両、前川家に10両だったかな?
で八木源之丞(当主)が「2年の家賃にしたら安おすなぁ…」みたいなことを言ったそうです。
京都の人らしいイケズですなぁ(笑)

あっ!
煤i@■@;
も…もしやその分を今回収してるとか… <1,000円いつまで引っ張るんや…(笑)

せっかくやから、最後にいただけるお抹茶とお茶菓子のお写真

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お茶菓子の方は「屯所餅」といって、こちらでお土産として売られています。
スキのない…(^^;
もちもちとした食感がここちよい美味しいお菓子でした。


さて、こちらからさらに少し下がると「新徳寺」があります。

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臨済宗のお寺さんだそうです。
室町時代の洛陽六地蔵の1つだった星光寺の本尊であった地蔵を安置されていたそうですが、現在のものは江戸時代のものだそうです。
屋根が台風で壊れた時に、現れて修理してくれたとかいうお地蔵さんで、屋根葺地蔵とも呼ばれているというお話があります。

こちらは公開されていようなので、表の写真だけ

徳川家茂さんが上洛に際して、清河八郎が将軍警護の為に江戸で浪士隊が結成され、将軍様より先に上洛をし、壬生に入りました。
その時、浪士隊が集まったというのがこちらの新徳寺さんなのだそうです。

そこで清河八郎がぶっちゃけカミングアウトしちゃったわけですね(^^;
目的が尊皇攘夷であると知れると、浪士隊は江戸に戻されます。
そこで浪士隊から分かれて、今日に残った13名が新撰組となったわけです。
芹沢鴨、平山五郎、近藤勇、土方歳三、新見錦、平間重助、野口健司、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎
以上の13名。
八木邸のパンフにあった順番で並べてみました。

この13名が八木邸に残り、文久3年3月16日、八木邸の長屋門に表札を掲げ、ここに新撰組誕生となったわけですね。

続く。
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