県のはずれの斎場に9時前に到着。
棺の中のゆき子先生と対面する。
死に化粧を施された顔は美しくやつれてはいない。
とても八十を目前にした顔には見えない。
でも、触れた頬は氷のように冷たかった。
「ごめんなさい、先生」
余命一年と聞いたのは半月前のことである。
一段落したらお見舞いにいこうと思っていた。
それなのに、あっけなく、逝ってしまった。
中学時代の担任で、文字通り恩師である。
ゆき子先生がいなかったら、どんな道に逸れていただろう。
生きている理由を見出せないことが辛かった。
どこにも安らげる場所がないことが悲しかった。
元々、両親の離婚以来、家庭には安らげる居場所はなく、
まして、教室にもなかった。
益々屈折して頑なに心を閉ざし、
反抗することで必死に先生にしがみつく日々。
先生は、放課後の教室に何度も私を呼び出して
「信じてるからね」と肩を叩いてくれた。
それでも、素直になれない。
読書の好きな私のために電車通勤で重い荷物であったろうに
自宅から文学全集を持ってきては貸してくれた。
日曜日にはまだ小さなお子さんのいる忙しい時期なのに、
自宅に招いてお昼をご馳走してくれたことも数え切れない。
不貞腐れて勉強もしない。本ばかり読んでいた。
当然、テストの点が下がる。
それでも、先生は「あなたは実力があるのだから」と
通知表の国語を「5」のままにしてくれた。
そして、所見欄にたった1行書かれていた言葉が
石のような心に風穴を開けてくれた。
「玉磨かざれば光なし」
その言葉は今でも私の座右の銘となっている。
早く中学を卒業して、生まれ変わりたい。
その願い通り、高校に入り私は変わった。(変えた)
はじけて自由奔放に謳歌した。
先生に詫び状を送ったのもその頃である。
以来、先生との交流は40数年にわたっている。
活字になったエッセーを送ると喜んでくれた。
会葬者の見知らぬ方からも声をかけられた。
「あなたですね。読ませていただいていましたよ」
長女あっちゃんからは
「母はいつも教師冥利に尽きる、と言っていました。
受賞したエッセーを私に何十枚もコピーしてきてと頼み、
私の自慢の教え子よと配って歩いてましたよ」
そんな風に言って下さった。
娘が先生の出た女子大に合格した時も
とっても喜んでくれた。
私も嬉しかった。
晩年、先生は長男をバイク事故で亡くされ、
続いて、ご主人を亡くされた。
電話が頻繁にかかってくるようになったのは
寂しかったのだと思う。
電話は1時間にも及び、同じ話題を繰り返すようにもなり、
それが面倒だと思う日もあったけれど
私が受けた恩に比べれば問題ではなかった。
今度は私が先生を支えてあげたい。
おこがましくも、そんな気持ちでいたのである。
一昨年だったか、次男が離婚して、
孫3人を引き取り世話をすることになったという。
しかし、昨年、私は体調を崩し、
先生の電話に答えることができなくなっていた。
その間に次男は病に倒れ、この春永眠。
その辺りから先生は気落ちして体調も崩したようだ。
だが、その肝心な時期に自分の生活に精一杯で
私は何の役にも立てなかった。それなのに
「最近音沙汰がないけど具合でも悪いのかしら」
と心配していたという。
こんなに情けをかけてくれた先生に
私は報いることが出来なかった。
唯一甘えることの出来た先生が消えてしまった。
親の葬儀でも泣かなかったが
嗚咽がもれるほど、こみ上げてきて止まらない。
最後にお別れの花を棺に入れるときには慟哭してしまった。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が入り混じった涙だ。
あっちゃんは喪主として気丈に振舞っていたが、
出棺の際には堪えきれずに泣いていた。
春に弟、秋に母親の葬儀とは……
次男の遺児3人をみることになった、
独身のあっちゃんを思うと胸が詰まる。
卒業してからの空白が長く、
遠い地での葬儀でもあり、
同級生はS君と私だけだった。
二人で「少しでもあっちゃんの力になれれば」と話し合った。
霊感はないが、先生が息を引き取った時間に
今まで感じたことのない不思議な気配に身を包まれていた。
先生がお別れにきてくれたような気がする。
今日は何を見ても涙が出てくる。
こんなに泣いた日はない。
寂しい。