曽根剛(そねつよし)のブログです。心理学に関連したエッセーや、心理学関連の本についての紹介などを掲載していきます。ブログ記事への感想などをコメントまたはトラックバックでお寄せいただけると幸いです。
筒井筒 井筒にかけしまろが丈まずは業平から井筒の女(紀有常の娘)へとご挨拶。「一緒にいた頃はあんなに小さかったけど、もう立派な女性になっているんでしょうね。」などと読める歌。ま、それをどこまで深読みするかは女がどれだけ思いを募らせているかにもよる。井筒の女は思いが強かったから返歌も大胆。生 ひにけらしな妹 見ざる間に(
比べ「あなたしかいません。」と、かなり熱の入れよう。来 し振分髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰か上ぐべき(
風吹けば沖つ白波竜田山 夜半にや君が独り行くらむ彼女は香を焚き花を供えて数珠を爪繰り、縁側に出て高安のほうを見やり、この歌を詠んだというのだから、高安の女のことは知らずに業平の夜道の安全をひたすら祈ったという読みもできる。しかし、「夜半にや」である。「や」がついて強調されている。「なんでまた夜に!」は訝しく思ったり、まあ浮気相手の女のことをいろいろと想像していた可能性は十分にある。『大乗起信論』には、無明の風が吹いて煩悩の波が起こるというような喩えが出てくる。この「白波たった山」は、嫉妬に狂った女の情念が山のように大きくうねっていると読めないこともないわけで、これは恐ろしい。(^_^; 意識では慎ましい女。だが、その裏には恐ろしい形相の般若の面が!
あだなりと名にこそたてれ桜花 年に稀なる人も待ちけり『伊勢物語』第十七段の歌であり、これもまた紀有常の娘のことだと解釈されている。業平は、桜花のごとく一年に一回しか帰って来なかったわけでもなかろうが、不在がちがったのである。しかしながら、「われ井筒の昔より、真弓槻弓年を経て、今は亡き世に業平の……」と言っているからには、死ぬまで業平に優しくしてもらったと思っていたのだろう。この一節は、『伊勢物語』第二十四段の
梓弓真弓槻弓年を経てわがせしがごとうるわしみせよを踏まえている。三年もご無沙汰だった男に愛想をつかして(?)女が別の男とベッドインするその当日に、その男が帰って来た。そこで男が女に詠んだ歌がこれである。「私が愛したように、その男を愛してやりなさい。」とは、イエス・キリストみたいな男だ。(笑) 女のほうは、
梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを「あなたを誘っても誘わなくてもずっとあなたのことが好きだったのに。」と言って男を追いかけるが、追いつけずに途中で命尽きてしまう。ちなみに、律令では、三年訪れがなければ再婚してもよいという規定が戸令にある。だから、言い寄ってきた男に負けてしまったのだろう。「もう三年も来てくれないんだから、ぼくと結婚しても誰からも責められることはないよ。」なんて説得されて。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にしてこれは『伊勢物語』第四段の業平の歌である。業平は藤原高子に恋をしていたようなのだが、彼女がよそへ(おそらく内裏へ)引っ越したので憂鬱になっており、翌年の梅の盛りにまた彼女に屋敷まで行ってみたが、昔とは違っていたという歌。満開時が毎年ほぼ同じだとしてもその時の月齢は去年とは違うから、「彼女と見たのはこんな月じゃなかった。」と思ったのだろう。
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