能「井筒」の
本説(つまり元ネタ)は、『伊勢物語』第二十三段である。
『伊勢物語』には「むかし、おとこ(有りけり)」とあるだけで必ずしも彼が在原業平だとは明言されてはいない。しかし、状況からして彼は在原業平だと見なされている。彼はなかなか恋の多き男のようだが、その相手も大抵は「おんな」とのみ記されて誰かは判然としない。むしろ、そういう色男の“お話”と考えたほうがよく、在原業平の史実と比較対照して議論してもあまり意味はないだろう。
史実としての在原業平は阿保親王の子であるのに、この第二十三段では「田舎わたらひしける人の子ども」となっている。田舎わたらひしける人とは、地方をまわって生計を立てている人の意味であり、行商人や地方の下級官人などと考えられているが、いずれにせよ、とても親王には当てはまりそうもない。
だから各段を切り離して個別に考えたほうがいいのかもしれないが、この「昔おとこ」の全体像を思い描くに、だいぶ恋多き人だったと考えられる。
かりに行商人の子だったとすれば、世襲の世の中では行商人を継いだはずである。すると、たとえ結婚しても農民のように一カ所にとどまることはなかっただろう。現代で言えば、この男も土日しか帰って来ないような生活をしていたのだと思われる。ときどき各地の珍しいお土産を持ってくる程度で、妻にとってはひたすら待つ生活になっていたに違いない。
この井筒の女は、親の結婚させようとする相手を頑に拒否して確かに自分の思いは遂げたのだが、女の父親が死んでから雲行きが怪しくなってきた。男は、この貧乏女とシケた暮らしをするよりも別の金持ちの女に乗り換えようかと思っていた。そこに登場するのが、河内国の高安の女という浮気相手である。井筒の女は嫌がる様子もなく男を送り出すので、男はこの井筒の女に異心があるのではないかと疑うが、出かけたふりをして物陰に隠れて女の様子を伺ったところその疑いも晴れ、愛憐の情を感じた。他方、高安の女に対しては、その無作法に愛想をつかして行かなくなってしまう。
そこで一般には、ハッピーエンドと思われているようである。だが、また別の女のところへ行くようになったという仮定も成り立つ。行商をしながらあっちこっち浮気して歩く男だったのではあるまいか、というのが私の見解である。かりに彼が在原業平だったとしても、なにしろ親王様の息子だ。女性が放っておくわけがない。(笑)
私の想像では、この井筒の女は、一時的にはこの男と一緒にいられたが、結果的には何度も浮気されていた。いくら男がこの女を「いとしい」と思っても、やはり背に腹は変えられぬというか、貧乏でも二人で頑張ろうなどという殊勝な心がけはなかったのではないかと思える。かりにそうでなかったとしても、常に不在がちで非常に寂しい思いをしていたに違いない。能でも言われているように彼女は「人待つ女」である。
一応はときどき帰って来るけれど、いつも何処でどんなふうに浮気をしているのか。女としては気が気でない。まあ、悪い想像はどんどん膨らんでいったことだろう。表向きは貞淑で可愛らしくおとなしそうでも、心の中には嫉妬の念が渦巻いていたかもしれない。それは現在の能「井筒」の穏やかな序の舞を見ているとわからない側面である。
室町末期には、髪の乱れた「十寸髪(ますかみ)」の面を着け、激しいカケリを舞う演出があった。復曲され舞台を見ると、おとなしそうなシテの内面にこもった嫉妬の炎や、永遠に待ちつづけてもえられぬ恋人を、せめて形見を身に付けることでえようとする、女の情念が見えるかのようだ。 (『能楽鑑賞百一番』淡交社)
井筒の娘は、現代で言えば、いつも二股をかけられているのにひたすら待ちつづける女だった。嫌われないように、ただ待つしかない女。去っていかれるのが怖いから、決して怒れなかった女なのだろう。しかし、私の予想ではこの男は去っていった。こいつは絶対にプレイボーイだ。だから、この女は、いつもこの男の面影を想像して生きていた。だが、時が経つにつれて、悲しいかな記憶は薄れていくのである。心の中から失われていくからこそ、ますます会いたくなる。そして、亡霊となってまでこの男の墓参りをしているのである。
こうやって登場人物の置かれた状況を理解しようとすると、なかなか臨床心理学的だ。(笑) これに共感できればできるほど、カウンセリングの腕も上達するのではない・・・かな? で、もうちょっと深く心理学的に理解したい人は、私のメルマガ「
第14号 能「井筒」と自己受容」をどうぞ。
能「井筒」に関する記事の続きは、
こちら。

↑ランキングの応援も頼みます。m(_ _)m
《 臨床心理学関連 おすすめ本 》
ロジャース関連の書籍 ユング関連の書籍
メルマガ「カウンセリングと東洋思想」
登録はこちらから

0