能舞台正面の板壁(鏡板という)には松が描かれている。これは、能がもともと神社や寺の境内を使って演じられていたことの名残なのだそうだ。(
山崎有一郎・葛西聖司『能・狂言なんでも質問箱』
) 昔は神仏混淆で、お寺にも神様が降りてくる場所がある。それが「
影向の松」である。
能舞台はなんとなく神聖な感じがしていたのだが、なるほど神が降りてくることを暗示する場所でやっていたからなのか。我々はいわば神棚に向かって能を見ていたわけだ。
ちなみに神を表わすのは翁面であり、正式には最初の演目でやることになっている。そのあとは武将、女、物狂い、鬼など、さまざまな登場人物の演目がなされるが、すべて神の現われなのかもしれない。喜多六平太は「謡初と稽古始
ほか九篇」(
観世栄夫編『日本の名随筆87 能』
所収)で、次のように述べている。
この翁の厳粛な気分は、ただ単に翁そのものばかりでなく、広い意味では、二百番の全曲に含まれて居なければならないもので、つまり神に奉仕する心、さういふ敬虔な気持が、心の奥底にないと、いかに技術が優れてゐても、それは単なる見世物であって生命ある能芸とは云へないのである。
日本の神は、西洋の神と違って暗い側面も表に出す。日本の神とは、人ならぬ畏るべき働きをもったものと言っていいのではないかと思う。武将は神ではないが、神が宿って英雄的な働きをする。女は神ではないが、神が宿って幽玄美をかもしだす。物狂いは神ではないが、神が宿って苦しみや悲しみの深層を見せる。鬼もまた神ではないが、神が宿ってその荒ぶる心を見せる。
こうやってみると、能の見どころはストーリーだけではないというか、そのストーリーに舞い降りたあの精細さやピリピリした緊張感のほうだと言えるのかもしれない。

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