4月12日から専門学校での心理学講義が始まった。
内容は、大学の一般教養科目の心理学のようなものである。今回の講義内容は知覚心理学であり、ゲシュタルト心理学や錯覚などに関する基本的知見を紹介していくものであった。講義する側に回っていると、それらの知見を通してどのようなことを学んでもらいたいかという点(すなわち学習目標)が気になってくる。そこで今回は、講義で言及しながらも教科書には書かれていなかったことについて簡単にまとめておきたい。
まずは、感覚と知覚の区別である。一般の人々は両者をほとんど同じ意味で使うか、知覚という言葉をほとんど使わない傾向にある。しかし、心理学では両者は区別される。感覚は生理的なもの、知覚は心理的なものである。教科書には以下のような図が載っていた。
物理的刺激世界
↓物理的エネルギー(光,音波など)
感覚器官(受容器)
↓電気信号
大脳皮質
↓
知覚経験
知覚と区別して「感覚」という場合は、感覚器官の働き、すなわち物理的刺激エネルギーを電気信号に変換する生理的システムを指す。または感覚内容という意味で、この電気信号データを指す場合もある。そして、感覚と区別して「知覚」という場合は、感覚器官から入力された電気信号情報を大脳皮質によって経験できる意味に変換する情報処理システムを意味する。また知覚内容という意味で、処理結果を指す場合もある。
一般に知覚経験はこれらの諸部分が融合して不可分のものとしてワンセットになっているので、多くの人々はこれらの区別を問題にしないが、感覚器官や知覚に関する病気や錯覚現象や知覚の歪みなどの際に気づかれる。
感覚情報だけで我々の知覚が成立していないのは、たとえばダルマチア犬(James, 1966)の絵などでもわかる。感覚としてはただの白黒の模様なのにそこに犬の形を積極的に認めるからこそ、我々にはそれが犬として見える。
感覚情報の中から特定のものを選り分けて意味づけるからこそ知覚として成立するのである。しかもわざわざ意識的に犬を見ようとしなくても見えてしまうという場合もあることから、知覚は無意識下でも成立する情報処理システムだと言えよう。
ヘリングの錯視図やヴントの錯視図は、たしかに平行線ではなくて湾曲した線に見えるし、ミューラー・リヤーの錯視図は、たしかに長さが違うように見える。我々の知覚は必ずしも対象の客観的な性質を正確に把握しているとは言えない。にもかかわらず指摘されるまでそれが客観的な対象(の性質)だと素朴に信じているわけで、この信じているということ自体が我々の意識世界・心理世界の基盤になっている。
また、主観的輪郭線の図(kanizsa, 1955)に見られるように、真ん中に白い三角形や黒い三角形が知覚されるのも、この情報処理が半ば自動的に行われている証拠である。さらに、これらの三角形がより白く、より黒く見えてしまう点を考えると、色彩の調整までも自動的にやっていることになる。
講義では例に出さなかったが、同じ色でも光の加減によって黄色く見えたり黄土色に見えたり焦げ茶色のように見えたりするが、これも同一のものだという認識がある場合には、同じく黄色に見えたりするのである。だから絵を書くときなどには、影の部分の黄色を黄土色などにしないで鮮やかな黄色を使って幼稚園児の絵のようになってしまったりする。おそらくは色彩イメージまでも知覚は微調整してしまっているのであろう。
「ルビンの顔と盃」(Rubin, 1921)や「少女と老婆」(Boring, 1930)などの反転図形も、視覚刺激としては同一のものなのだから、知覚というものは我々がそれを何として意味づけるかによって成立しているという良い例だろう。
奥行き知覚を起させる刺激要因として、ものの相対的な大きさ、重なり、陰影、遠近法があげられる。しかしこれは客観的な対象自体に含まれる性質ではなくて、奥行き知覚を形成するための情報処理手続きのように思える。奥行きすなわち空間的広がりがあるように、目に入ってくる光刺激を心の中で適切に配置して知覚しているのである。
たとえば、「大きさが一定ならば」という仮定のもとで「遠くのものが小さく見える」ゆえに「小さいものは相対的に遠くにある」ように見える。○o。という三つの丸がだんだん遠くなっていると見えるように。かように我々の知覚世界の中では、単なる感覚刺激ではなく、感覚刺激と感覚刺激の相対関係が空間イメージを成立させている。しかもその関係(すなわち奥行き知覚様式)を感覚データに当てはめて無意識的に情報処理をしているのである。絵の大きさとしては同じでも、遠くにいる人間がそのままの大きさで知覚の位置に配置されて描かれると、極端に小人になったように見える(kimble et al.,1980)。あらかじめ遠近法で絵を見るように訓練されているからこそ、そのような現象が起こるのである。
こんなことをどこまで理解してもらえているのか。私の学生時代を振り返っても、「だからどうしたと云うんだ」という感じだったから、心理学科生でもない人たちがどこまでその意味を考えてくれるか、いささか心もとない。(^^; 実際に教科書の図がなくてこの記事を読んでいる人にとっては、さらに難解な話なのだろうが、言おうとしていることは簡単である。
感覚データを認知図式によって整理したものが知覚である――たんにこれだけの話なのだが、ここでちょっと注意してほしいのは、錯覚に見られるようなものも認知図式に含めるという点である。私見では、言語化しえない“感覚的な情報処理”も認知図式として扱うべきなのである。
心理学からは少し離れてしまうが、認知に先立つ意味づけという意味では、知覚図式はカントのいう「アプリオリな形式」と並行するものではないかと思う。カント哲学では、光や音波などによって触発された感覚は、まずは時間と空間という「感性の形式」に当てはめられる。知覚心理学においても、奥行き知覚を起させる 重なり等の刺激要因は、奥行き感覚を生じさせるための認知形式なのではあるまいか。さもなければ平面に投射された光にすぎない映画等で奥行き感を感じられるはずがない。
カント哲学では、感性の形式は時間と空間の二つしかないといって、学問的な基礎となる感覚データは均質に流れる時間とユークリッド空間という二つの抽象的形式によって整理されると考えている。だが、心理学の場合には認識内容が学問的に厳密である必要はなく、むしろ間違いやすい人間の認識がどのように形成されているのかを研究する。すると、人間が知覚している空間はユークリッド空間のように客観的なものではないし、時間だって均質に流れてなんかいない。科学的な人々はとりあえずこのユークリッド空間にあわせようとするが、一般人は人間的な空間と時間の中に生きている。
各人が知覚している世界はだいたい似ているが、錯覚の場合のように客観的な世界であるとはかぎらないし、また、各人の心理によって微妙に個人差があったりする。個人差の部分に関しては、今回は時間切れで講義ができなかったので来週に持ち越し。
この教科書で講義をしています。
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