ミスティック・ツアー『真実への扉は何処に』
第八章 『石神信仰の謎2』
麻賀多神社から、勾玉の根源を探る旅に・・・
目に見えぬ世界への畏れ・・・
それは魔界か霊界か・・・
魔物か悪霊、邪霊の類か・・・
死神、地獄からの悪魔か・・・
天界からの使者か、崇高な神か仏か・・・
過去幾多の編み出された宗教は、あらぬ世界を畏怖の対象として恐怖の
呪縛をかけてきた。
しかし空想では見過ごせない、なんらかの顕れとしての不思議な現象が如実に物語っているモノもある。
心の中に芽生える、絵もいえぬ恐怖感はどこから来るのだろう?
魂の奥底から響いてくる崇高な閃きは、どこから訪れるのだろうか?
何も氣にせず、通り過ぎようとしても・・・。
通り過ぎられないトコロがある。
いや、通り過ぎさせてもらえないトキもある。
古代の人は、その見えぬ世界との連絡を模索したのでしょうか?
そしてそれ等を制御するかの、身につけるモノを創造したのでしょうか?
昨年末から麻賀多神社に伝わる勾玉の伝説で、古代の勾玉に纏わる探索の旅が始まった。

古墳から出土した翡翠の勾玉の首輪。(八尺瓊勾玉ではない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B0%BA%E7%93%8A%E5%8B%BE%E7%8E%89
まずは、麻賀多神社の社伝からの引用です。
麻賀多神社は、今より約1850余年前、人皇第12代景行天皇42年6月晦日に、皇子日本建尊が、大きな杉の幹に御鏡を懸け「インバノクニタマオキツカガミと崇め祀れば五穀自ら豊穣する」とのたまわれ、この鏡を祭祀することを教えられた。
その後約三百年、人皇第15代応神天皇20年現在の成田市船形手黒の地に印旛国造伊都許利命(神武天皇の皇子神八井耳命八世の孫)によって初めて社殿が創立せられ、その御鏡を御霊代としてワカヒルメノミコトを鎮祭された。
又伊都許利命は、ワカヒルメノミコトの御神命によっておお杉の下より七つの玉(勾玉)を掘出しそれらを御霊代として、オキツミヤにワカムスビノミコトを併祀せられた。
ワカヒルメノミコト、稚産霊命をマガタマの大神と崇められ、七つの玉(勾玉)から麻賀多と幾度か改称せられたるも、御神威は古くより輝き渡っている。
なお応神天皇27年に至って伊都許利命の御子浦長多津命が病で臥せられた際、父命は、真賀多真大神の御神命によって、マガタマの二柱の大神と共に病気平癒の祈祷をなされた結果御子の病は奇跡的に神癒された。
更に人皇第23代推古天皇16年に、伊都許利命第八世の孫広鋤手黒彦命に再び御神命があり、現在の成田市台方に「真賀多真の大神」としてオキツミヤよりワカヒルメノミコトを遷宮され、この御社を大宮殿と尊称する。
その後、人皇第60代醍醐天皇延喜18年、延喜式神名帳に登載の際、御社名が三種の神器と同称なるを「真賀多大神」と改称され、更に麻の名産地に因み真を麻に替え現在の麻賀多神社と改称された。
此処で注目に値するのが、三種の神器の「 八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)。八坂瓊曲玉とも書く。
大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられたもの。
伝承に現れる勾玉の正式な名前は「八尺の勾珠の五百津(いおつ)の美須麻流(みすまる)の珠」と記述されている。
考古学的には曲玉の出現は剣や鏡よりも古く、縄文時代からあるのです。
亀が丘石器時代遺跡出土
直径5cm 重さ100g
山内丸山縄文遺跡出土
現在当印旛沼の当方台地に当社を祖社とする麻賀多神社が十八社祀られて居ることからも当社に対する崇敬が如何に篤かったかが推察される。
http://www.geocities.jp/engisiki/shimousa/bun/smf200401-02.html
麻賀多神社 18社地図
さて、此処で登場する『ワカヒルメノミコト』とはどのようなお方であろうか?
記紀や風土記、神社縁起を調べてみた。
「日本書紀」では、機織している折スサノオノミコトにまだらの馬の皮を投げ込まれ,驚いて女陰を傷つけ死んでしまった女神。
アマテラスオオミカミが天磐戸に閉じ篭る原因となった。
アマテラスオオミカミの妹神とも、別神名とも解釈されている。(神戸市の生田神社などの祭神)
丹生都比賣神社では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9A%E6%97%A5%E5%A5%B3%E5%B0%8A
丹生都比売神社
http://www.niutsuhime.or.jp/goyuisho.htm
天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞 にうだいみょうじんのりと 』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命 わかひるめのみこと とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨。
稚日女は結婚後下照姫(シタテルヒメ)と名を改めたが、神上(かみあ)がってから後に、歳徳神と称えられたとホツマツタヱには記されている。
この歳徳神は、方位を巡る!!
また、天石門別八倉比売神社の御祭神は大日孁女命(別名天照大神)とある。
天石門別八倉比売神社
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm
この神社には五角形の青石の祠があり、山麓附近には五角形の井戸もあります。一説には卑弥呼のとも・・・
稚日女尊を祀る神社一覧
http://www.kamnavi.net/ny/wakahirume.htm
下照姫神は、大国主神の娘で、味鋤高彦根神の同母妹、そして、天若日子の妃です。
下光比売とも書かれます。あかる姫とも呼ばれます。
古事記の記述は、天若日子に絡む部分のみですが、この神はその名前から安産の神として信仰されており、鳥取県東郷町の倭文神社などでお祭りされています。
倭文神社に伝わる所によれば、下照姫は出雲から海路この地にやって来られて、人々に農業の指導をし、薬の知識を与えて、安産のための知恵を授けられたとのことです。
なお、下照姫の姉妹に高照姫神という方もおられます。
こちらは八重事代主神の同母妹になります。
つまり、大国主神の子供で下記4人きょうだいが関連神になっています。
母=奥都嶋の田心姫 味鋤高彦根神 葛城の高鴨神社
下照姫 葛城の長柄神社
母=邊都宮の高降姫 八重事代主神 葛城の下鴨神社
高照姫 葛城の中鴨神社
天若日子神は天津国玉神(日本書紀では天国玉神火と書かれる。
出自不明)の子で、葦原中国平定の際、3年たっても復命しない天穂日神に代えて2番目に派遣された神です。
しかし、この神は下照姫と結婚して、8年たっても復命しませんでした。
ここで高天原の神々は天若日子の所へ使いとして雉鳴女(きぎしのなきめ)を遣わします。
雉鳴女が「あなたの使命はどうしたのです?」と天若日子の家の前で問いただしますと、天探女(あめのさぐめ)が「あの鳥は不吉な鳴き声をしているから射殺してしまいなさい」と言います。
そこで天若日子は天からもらっていた弓矢で雉鳴女を射殺してしまいました。
この時雉鳴女を射抜いた矢が高天原にまで達して、その矢を高産巣日神が拾いました。
見るとそれは自分が天若日子に渡した矢です。
そこで高産巣日神は「天若日子が使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであれば天若日子には当るな。
もし天若日子の邪心があればこの矢に当れ」と言って矢を下に落しますと、見事に天若日子の胸を射抜きました。(これを還し矢といいます)
天若日子の死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、天若日子の父、天津国玉神は哀れんで地上におり、わが子の為に葬儀の手配をしてやりました。
その時、そこに当然下照姫の兄の味鋤高日子根神も弔いに訪れましたが、高日子根神が天若日子とよく似た風貌であったため、まだ地上にいた天若日子の父が「私の息子が生きていた」と言って抱きついて来ました。
すると味鋤高日子根神は「間違えるな」と怒って、剣を抜いて喪屋を破り倒すという一幕もありました。
ここで、何故か事代主が登場しました。
葛城王朝というのは、事代主血族の王朝ともいえるようです。
つまり伊邪那岐・伊邪那美の神の下で天照大神・素戔嗚尊の両系統に分かれた天神・地祇の系統がここで統合されています。
つまり天神とは神武天皇の祖先であり、地祇とはその后の五十鈴姫の祖先であるという考え方も成り立つようです。
事代主神(えびす)は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一にもなっています。
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/kotosironusi.htm
この事から、事代主神(おいべ・えびす)と下照姫の関係が浮上しました。
賀茂探求(8)古事記での賀茂大神と下照姫
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo08.htm
さて、麻賀多神社に記載されているもう一方のワカムスビノミコトを調べてみました。
ワクムスビ(ワクムスヒ)は、日本神話に登場する穀物・養蚕の神です。
古事記では和久産巣日神、日本書紀では稚産霊と表記される。
古事記では、神産みの際、火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んで火傷をし病に伏せった伊邪那美命(イザナミ)がしたゆまり(尿)から化生した。
ともにゆまりから化生した水の神である弥都波能売神(ミツハノメ)との間に豊受媛神(トヨウケビメ)を生んだとしている。
日本書紀の第二の一書では、伊邪那美命が軻遇突智(カグツチ)を生んだことによって死ぬ間際に土の神・埴山媛(ハニヤマヒメ)を生み、埴山媛と軻遇突智の間に稚産霊神が生まれたとする。
そして頭に蚕と桑、臍の中に五穀が生じたとしており、古事記におけるオオゲツヒメ、日本書紀におけるウケモチのような食物起源の神となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%93
大桑神社
http://www.norichan.jp/jinja/shigoto/okuwa.htm
と此処まで調べてみて、かなり不思議な状況を知りました。
さて、勾玉について更に調べてみます。
姫川の右岸の段丘上にある縄文中期の長者ヶ原遺跡より、硬玉原石、研磨未製品、玉砥石が発掘されました。
何故か青森県では、縄文時代後期―晩期の遺跡から出土する翡翠がけた外れに多いのです。
亀ケ岡文化など、この時期の北東北の地では特筆すべき翡翠文化が進行していました。
全国各地で出土する縄文の翡翠(硬玉)の大半は、新潟県の糸魚川周辺で採れたものなのです。
これまで青森県内の縄文遺跡から出土た翡翠は、六百五十点以上に及びます。
岩手、秋田両県合わせた合計でも、その半分にも至らないのです。
また北海道南域にも、翡翠を出土する遺跡が多いのです。
因みに青森県埋蔵文化財調査センターに、八戸市尻内地区の笹ノ沢3遺跡から出土した県内最古級の翡翠製品が収蔵されています。
年代は縄文中期初頭(約5000年前)のもので、糸魚川産という分析結果が出ています。
更に時代は遡り、山梨県で見つかった世界最古の翡翠大珠もあるのです。
埼玉県内で最近、4世紀頃(古墳時代前期)と思われる水晶の加工工房遺跡が相次いで発見されています。
ひとつは、桶川市の前原遺跡。
もうひとつは、10キロほど離れた所に見つかった東松山市の反町遺跡。
特に興味深いのは反町遺跡で、工房跡で見つかった石は水晶や碧玉(ジャスパー)など、ほぼすべて勾玉として加工されていたそうです。
長さ数センチの作りかけの勾玉が、4〜50点、破片も含めると数千点に及ぶ数だとか。
水晶の工房遺跡は他の地域でもみられますが、勾玉だけを作っていたのは今のところ反町遺跡だけだそうです。
そしてこの原石は、山梨県産の水晶とのことです。
どうやら、甲斐の国で原石を掘って秩父山系を越え、関東にもっていく水晶ロードがあったようだと伝えています。
縄文時代から古墳時代の翡翠は、祭祀・呪術品、装身具や勾玉などに加工され、「聖なる石」として珍重されていました。
日本の古墳時代に相当する朝鮮半島の三国時代の遺跡からも、翡翠の勾玉が遺物として発掘されています。
化学分析で糸魚川産の翡翠が、朝鮮半島に渡った事が証明されました。
『魏志』倭人伝に『男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。』という記述があります。
卑弥呼の死後13歳で女王の位についた壹與が、魏の都・洛陽に使をつかわしたときに献上した品物についての記述です。
この中の一つ「青大句珠二枚」は、翡翠の勾玉であると通説になりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B9%E3%82%A4%E8%A3%BD%E5%8B%BE%E7%8E%89
朝鮮半島では5〜6世紀の新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されています。
最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じものであることが判明しました。
これにより倭の勢力範囲を示し、少なくとも倭から朝鮮半島へ伝播したものであると考えられています。
中国の『後漢書』では「"出白珠青玉"(倭では真珠と青い玉が採れる)」と記されています。
また、『隋書81巻 列伝46』 によると、「新羅と百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭へ使いを通わしている」と記してもいます。
日本海沿岸の縄文遺跡のものと似た装身具が、八丈島で出土しました。
中国遼東半島で出土したもとも似ていることがわかり、八丈島の縄文遺跡の発見で航海技術が見直されました。
糸魚川のヒスイや隠岐の黒曜石も、日本海沿岸の各地の遺跡で発見され交易が裏付られました。
当然その航海技術によって、大陸との交易が伺えます。
鉄は弥生時代に伝わったとされていますが、「後漢書」に記載の「倭人鉄を交易す」との記述があります。
加羅地方の鉄とヒスイとされ、朝鮮の遺跡より出土したものは糸魚川産の翡翠と証明されました。
しかし奈良時代以降昭和初期に再発見されるまで、日本の翡翠は忽然とその姿を消してしまうのです。
勾玉や沖縄産のごほうら貝の腕輪等を使用していた祭祀は、謎の終焉を迎えます。
その証拠に仏教の伝来より後には急速に勾玉の価値が減じ、ついには日本人の記憶の中から翡翠そのものが忘れられてしまったようです。
約5千年間も続いた翡翠の文化は、古墳時代中期から後期にかけて衰退し、6世紀ごろには姿を消してしまいます。
この頃の日本では大和政権が日本各地へ勢力を拡大し、石材とその加工技術を各地から集めた玉造(たまつくり)を現在の奈良県橿原市(曽我遺跡)に置いた時期です。
翡翠が消えてまもなく仏教が伝来し、仏教による中央集権が行われまた。
これらの祭祀の終焉が、国内の戦乱に至る史実と関係してもいるようです。
この辺の経緯は、名護博著『赤椀の世直し』に詳述されています。
http://setouchi.ac.jp/~dnagoh/
最近ようやく世界最古の『古代日本の翡翠文化』を科学的な側面からも分析し、翡翠をめぐる歴史の謎が徐々に解明されつつあります。
その中でも、神話と考古学が一致した事例が出てきました。
「古事記」にある出雲国の八千矛神と、高志(越)国の奴奈川姫の求婚神話を裏付けることにもなったのです。
出雲大社本殿の裏の真名井遺跡から、最高品質の翡翠の勾玉が銅戈(どうか)とともに出土しました。
この翡翠は糸魚川産とされ、出雲大社では国の重要文化財として大切に保管されています。
出雲大社が奉る大国主命は、翡翠の産地・糸魚川がある越の国にいた奴奈川姫(ヌナガワヒメ)や、北九州の多紀理毘売(タギリビメ、宗像三女神の一神)らと結婚しています。
両文化圏を代表する翡翠と銅戈が埋められており、真名井遺跡に葬られたのは出雲地域の特別な人物と考えられています。
「沼名河の底なる玉 求めて得まし玉かも 拾ひて得まし玉かも あたらしき 君が老ゆらく惜しも」〜万葉集より
翡翠の産地・糸魚川がある越の国にいた、美しく賢いと評判の高かった奴奈川姫(ヌナガワヒメ)のために歌われた歌です。
《底なる玉》は、川底にある翡翠を表すと言われています。
さて、沼河比売(ぬなかわひめ)は、日本神話に登場する神です。
『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場します。
八千矛神(大国主?)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。
沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。
『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。
『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。
『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。
越後国頸城郡の式内社に沼河比売を祀る奴奈川神社がある。
天津神社境内社・奴奈川神社をはじめ、新潟県糸魚川市内に論社が3社ある。
また、長野県にも沼河比売を祭る神社があり、姫の乗っていた鹿のものとされる馬蹄石がのこされている。
http://www.noumachi-syoukoukai.or.jp/kankou/ubusyo/index.htm
天津奴奈川神社
http://hgotan.hp.infoseek.co.jp/etigonokamigami/amatujinjya/amatujinjya.htm
奴奈川姫の行列 1800年前の再現
http://www.noumachi-syoukoukai.or.jp/kankou/nunagawa/nunagawa.htm
余談ですが、翡翠はヒスイとも読むしカワセミとも読むのです。
もともとはカワセミのことだったのだが、色が似ているのでヒスイにも使われるようになったようです。
ちなみに、翡翠の「翡」は雄のカワセミ、「翠」は雌のカワセミです。
中国でこの石を「翡翠玉」と呼ぶようになり、日本に伝わって「翡翠」となったと言われています。
同じように、麒麟とか鳳凰とか鴛鴦も、前が雄の名・後ろが雌の名の熟語になってるのは不思議な共通点です。
また飛鳥寺は、蘇我馬子により建てられたわが国最初の本格的寺院でした。
593年(推古天皇元年)に、飛鳥寺の塔心礎に仏舎利を納めて心柱を建立しました。
奈良文化財研究所で所蔵の翡翠勾玉は、この仏舎利とともに埋められた宝物の1つで使用された年代が正確に特定できる唯一の古代の翡翠です。
翡翠とともに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じでした。
翡翠勾玉は2個埋められていましたが、1個は緑色の透明感のある翡翠で品質は当時の最高のものです。
人類が翡翠に注目し、加工と精神生活に取り込んだ文化圏が世界にもう一カ所あります。
それはメソアメリカの、オルメカ・マヤ・アステカ文明です。
オルメカ・マヤ・アステカ文化圏では紀元前1200年ごろから紀元前後にわたって文明が栄え、遺跡からは翡翠の仮面などが発見されています。
中米の翡翠は、グアテマラやコスタリカで産出したものだったことも分かっています。
成熟した宝石文化を持つヨーロッパにひすい輝石がもたらされたのは16世紀末のことでした。
スペイン人がメキシコのアステカから持ち帰ったものと言われています。
当時のアステカ皇帝モクテズマがスペイン人征服者コルテスにひすい輝石を贈ろうとした時、コルテスはそれがネフライトと同じ石と思い込み受け取らなかったそうです。
モクテズマは「ありがたい、彼らはこの石の価値を知らないのだ。」と語ったと伝えられています。
しかし、日本の方がはるかに先行していました。
縄文時代(約7000年前)、磨製石器の製作の道具として翡翠を加工し利用していました。
そして縄文時代(約5000年前)、呪具・装身具として翡翠を加工して使用されるようになるのです。
新潟・富山の県境付近の糸魚川・青海地域で翡翠の原石が産出し、縄文・弥生・古墳時代に大珠・勾玉・丸玉・丸輪が作られ、翡翠の加工をしていた遺跡が出土しました。
世界の歴史を調べると、これほど古い時代に宝石文化が起こった所は無いのです。
まさに日本は地球上で最初に宝石文化が生まれた、特別な場所なのです。
翡翠の宝飾加工品といえば中国を思い浮かべる方も多いと思いますが、古くから加工されていたのは軟玉(ネフライト)でした。
中国に硬玉が伝えられ、盛んに加工が行われるようになったのは18世紀以降のことです。
糸魚川で翡翠が神秘の力を持つ石として、勾玉や宝飾品として使用されていたのが今から約7000年前、縄文時代にさかのぼります。
糸魚川の翡翠文化は、世界のどこよりも古い時代から始まっていたのです。
さて、この翡翠ですが・・・
糸魚川の翡翠はおよそ5億年前にできたことが分かっています。
5億年前とは古生代カンブリア紀後期です。
日本では古くから翡翠のことを硬玉と呼んでいたため、一般的には翡翠といえば硬玉を指します。
軟玉との違いを明確にするため、「本翡翠」などとも呼ばれます。
19世紀の終わり頃まで、硬玉と軟玉は同じ石だと考えられていましたが、中国の彫刻が分析され違う石であることが分かりました。
この時、新発見であった硬玉の方に「ジェダイト=翡翠」という新しい名前が与えられました。
硬玉(ジェダイト)=翡翠・ひすい輝石岩(ひすい輝石、オンファス輝石からなる)
軟玉(ネフライト)=透閃石岩、透緑閃石岩
翡翠の産地は世界的に見ても限られており、日本のほか、ミャンマー、ロシア、アメリカ、中米などが主な産地として知られています。
糸魚川はミャンマー・中米と共に、世界三大翡翠産地の一つに数えられています。
糸魚川の翡翠の量は、明確には分かっていません。
1999年まで、発見された世界一大きな翡翠は糸魚川市青海の約100トンの石でした。
古代の人々は、何を思い翡翠を身につけていたのでしょうか?
謎は深まるばかりです。
更に探求の旅は続く・・・
・・・第九章に続く・・・
ヒスイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B9%E3%82%A4

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