このブログについて  

このブログは僕が高校二年(16歳頃)から現在(26歳)に至るまでに書き溜めた日記を、まとめるために開設したものです。

普通のブログの形で読めるようになっています。

僕は高校一年の頃から精神疾患を患い、現在はかなり回復しましたが、とても苦しい十年間を送りました。

このブログはその苦闘の記録です。
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2013/4/14

高校時代  

今、高校二年の時に書き始めてから溜まりに溜まった日記をブログにまとめている。

とりあえず今受験生活を切り取って、散文にしてみた。


どうしてもうまく人と関われないんだ
おまじないを見つけてはずっと心の中で唱えている
「こんなのはちっぽけなことだ」
「自然体で臨めば大丈夫」
「緊張を恐がらなければ自然に解けるものさ」
二、三日たつと効果が切れるから
苦しくなってまた新しいおまじないを見つけてくる
その繰り返し

頭の中で友達が批判してくるから
それに反論して考えられるパターンを尽くしてしまった
でもどれだけ理論武装しても実際にはずっと怖がるだけで戦闘は起こらない
皆が自分を悪く思っている気がする
「そんなことない、そんなことない」
「人は自分の事なんて大して考えてない」
「絶対大丈夫だ」
頭で繰り返せば繰り返すほど
ノートに書きつければ書きつけるほど
緊張は高まっていく

目が合わせられない
声が出ない
友人とすれ違うのが怖い
うまく歩けなくなるので腰をかがめて歩く
そして訝しく思っている友人をにらみつける

黒板がうまく見上げられない
文章が頭に入らない
当てられるのが怖くてずっとびくびくして準備している
人が当てられるたびに戦慄が走る
「ああ、自分じゃなくてよかった
でも次がある」
授業が終わってホッとする
昼放課は教室にいられないので外で壁に石をぶつける

それでも僕は 東大に入らなくちゃいけないんだ

がむしゃらに勉強する
全てが茶番に思えてくる
こんなことすべてに何の意味が?
何か先に待っているものでもあるのか?
浮かび上がってくる問いかけを必死に押し殺して
猛スピードで走る

達成の喜びが待っている
なんちゃって、そこには何もない
でも目標を作り出してはそれに向かって走る
その価値を疑っては、無理矢理正当化して自分の背中を押す
見栄?自己顕示欲?結局僕を駆り立てているものはなんだ?
わからない
もはや自分の有能さを主張することでしか
人に認められると感じられない

悩みを友人に相談した
「才能あるのに何贅沢なこと言ってるの」
「もうちょっと頑張ればきっと道が開けるよ」
これで三回連続学年一位だ
東大模試もA判定

偉大ななにかが成し遂げたいと思っていた
時代の認める至高の価値にすがりついた
リミットまであとわずか
にじむ汗 拍車のかかる自分いじめ

僕がそこにたどり着いたとき
そこに待っていたものはどうでもいい名声と
込み上げてくるどうしようもない悔しさだった

勝利と言う名の敗北
僕の受験生活はその実感とともに終わった
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2004/4/6

(無題)  

オープンキャンパスに一足遅れて、高校の東大志望の連中と東大見学に行ってきた。
人生のすべてが意味のないものに見えてきた。
東大を見て、東大に行きたいと思いたかった。
東大生は普通の人間だった。
そこらの人と大して変わらない気がした。
ただ学問ができるんだろう。
確かに東大は研究するには最適のすごいところのようだ。
でも東大生を見ると別に楽しくてたまらなそうには見えない。
がんばって勉強して彼らは何を得たのだろう。
あれが自信を得た姿だろうか。
がんばって勉強した末に、喜びを得たのか?
受験戦争に勝った喜び?
興味がない。

人生楽しむことに意味がある気がする。
他の人からの優越に意味を感じなくなってきた。
皆それぞれの価値観に基づいて、様々なことを思い込んで生きているのだろう。
その思い込みがないと生きていけないし、何もできないけれども。
でもそれを取り去ったら、何が残るだろうか?
いい生き方とはなんだろう?
いい思い込みをすること?
いいってそもそもなんだ?
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2004/3/7

(無題)  

東大に何を期待するのか。
勉強、研究の楽しみを期待できないなら、勉強の後の楽しみを期待してよいと思う。
東大に受かった瞬間、東大構内を自分のもののように歩く快感、東大生だという自信、それは他人より優れていると言う優越感ではなくて、客観的には他人との比較になってしまうけれど、その中で、自分が自分として頑張って、東大入学の切符を手にした喜び、それを励みにしていいと思う。
今まで多くの大人たち、教育者たちと動機について話してきたが、でも、自分なりに考える限界近くまで来て、袋小路に入ってしまったように思う。
動機となり得るのは、東大の人脈、東大の名前を利用する特権、研究設備やそのための多大な費用を手にすること、優越感、選択の幅の広がり…
人生の本当の価値を楽しむことにおき始めて、これらはどれも決定的なものにはなり得なかった。そしてこれ以上多くの人に意見を求めても、決定的な答えを見いだせる気がしない。
それに決定的な答えのもとで東大を目指す人も少ない。いや、相当の思い込みがないとできないだろうと感じてきた。
それでも俺は今年、受験生だ。今まで、勉強のための動機を逆に求めていたが、具体的動機をしぼって決定するのはやめようかと思う。
東大に受かったらまず遊ぶ、ってかやりたいことをやる。一本で受験して、滑ったら浪人してもう一年楽しみは先に延ばす。まあ、勉強は極力楽しむけど。
先にあげた東大への動機は、どれも決定的にはなり得ないまでも、味方につけられるものばかりだ。味方につけよう。
やる気は、受かった瞬間の喜び、東大生である自分への憧れ、そのイメージから引き出そう。
俺は絶対に東大に行く。他は蹴る。他人に示す必要なんかない。示さないほうがむしろしっかりしたやる気になる。自分の為に、できる。自分の満足感を中心に考えよう。
東大に入ったら遊ぶ。自発的に行動する。やりたい研究をする。読みたい本を読む。彼女もいい人を見つける。他人とも楽しむ。ギターも弾く。卓球もやる。やる気がなかったらやめる。でもとにかく行動して楽しむ。
この一年間、自分との勝負だ!
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2004/2/25

(無題)  

クラスでいおうと思って結局言えなかった。
でも言わないで正解だったかも。

みんなに言いたい事があります。
俺はもう他人の目を気にして生きるのが嫌だ。
もっと度胸をつけたい。
前からずっと思っていたけど、思っているだけでは変えられないとわかってきたので言ってみることにしました。
最近よく生きるっていうのは楽しくやりたいことをやって生きることじゃないかと考えていました。
俺はこの二年間だけでも、楽しめるところで楽しめないことがとても多かった。
学校祭や球技大会でも人より評価されたいと思いすぎたり、恥ずかしがったりして嫌な気分になる事ばかりだった。
俺はもう人の評価に価値を置くのをやめたい。
人の目を気にするんじゃなくて、もっと人と楽しめるようになりたい。
それに人の批判を嫌がりたくない。むしろ批判されたい。
俺はどうしてそういう批判が起こるのかとか、どういう気持ちで、何を求めて批判してるのかも考えられるし、意味がない批判なら無視もできる。
今まではずっと怖がっていたけれど、もう嫌だ。
俺はもっと度胸が欲しい。
皆が物事に対してどんな考え方をしているのか知りたい。
時間の無駄とか、考えすぎとか、何でもいいから俺に伝えてほしい。
半分の人が流して、半分の人が批判してもいいつもりでいいました。
終わり。
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2004/2/16

(無題)  

人生で何に価値を置くのか。
人それぞれの考え方があって、大半は他の人の考えを認めることはできない。
認められる人なら争わないのではないか。
でも、認められる人は「他人の考えを認めることはとてもいいことだ」と考えているのだろう。これは大きな矛盾だ。
ある人「よいこと」を決める時、それと対になるものが犠牲になる。つまり「悪いこと」が生まれる。
少々の事ならば対立まではいかないかもしれないが、とても大きなことや責任を伴うこと、となると対立せざるを得ないし、それは世界でつねに起こる。
この場合悪いことは「他人の考えを認めないこと」だが、この話は明らかに矛盾している。認め合うことがよい事だと言う時点で「認めない」ということを認めていないのだ。
ここに対立の絶えない世界の縮図が見られる気がする。人間は何かに価値を置かないと生きられないのだ。
いや、動物すべてに、そして植物にも言えるかもしれない。食欲、性欲、睡眠欲。意識はしていなくても確実にそこには好悪の対象となる性質、つまり価値が存在する。
生きることの、基本にしなくてはならないことが生まれる。
さらに人間はそれを生きるだけならば不必要な価値へと発展させる。
価値観を持たないことは結局不可能なのだ。
それでも、戦争はいけない、やめるべきだと言う立場を取る人たちが、その実現のためには多く必要だということは変わらないけれども。

認めるとは受け入れることだろうか?
利害の対立が起こった場合、果たして認め合うなんてことは可能なのだろうか?
必要なのは欲望を捨てることだろうか?それとも一定の価値観に基づいた規則だろうか?
規則を、自由の侵害や、他人の支配とみなして受け入れない人はどうするのか?
しかし、考えは変えさせようとすべきではないと考えたなら世界は変わらない。
自分の考えを押し付けて相手を変えようとすれば、そこに対立が生まれる。
とるべき行動は?持つべき考え方、価値観は?
そもそも「べき」という言葉自体に固定した価値観を求める思いがつまっているのかもしれない。
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2004/2/2

(無題)  

Aは別の人と付き合うことになったんだって。ショックは受けなかった。お幸せにと言って送ってやった。でもその俺の全く知らない人がAの家に入って、インコを紹介されて、Aは遠慮のない笑顔で、そんなことを想像していたら、胸がすごく痛くなった。久しぶりの感覚だ。
一年の時はこれとは違うけれども、恋の感じ、Aを想像してAのくれたマフラーを抱いているだけで喜びが込み上げてくる感じ、勝手に自分の事を変に思われているのではないかと想像して苦しんでいた感じ、そういうものを体験していた。懐かしい感じがした。こんな一時的な思いは明日になったら消えてしまうだろうから、今のうちにしっかり味わっておこう。
てかA勉強大丈夫かよ…。してないな。クラスでキューブの問題すら正答言えてなかったし…。
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2004/1/22

(無題)  

K高校に入る前に卓球で行くか勉強で行くかと言う選択があって、卓球なんてできても何の役にも立たないとまわりの大人が猛反対して結局勉強で行く事になったけれど、名門高校の人たちの練習とかを考えると、そんな中で身に付ける考え方とか、磨く人格とかはとても大きなもので、そんな高校生活もありじゃないかと思った。
 そちらに行けば考え方やふるまい方の従うべきモデルのようなものも与えられるのだろうか?それなら今みたいに悩むこともなく、もっと別の悩みを持っていただろう。でも、こちらでしかわからなかったことや、考えなかったこと、身につかなかったこともあるだろう。
 最近は卓球ばっかりやっているが、自分で満足できている。まだ目指したい自分はあるけれど。
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2004/1/13

(無題)  

自分がなくなりそうだったら、他人に影響されてしまいそうだったら、それを他人に隠すことはしない。
他人に影響されていることに気づかれることにびくびくするのはもうやめよう。そんな考えは捨てよう。
自分の持って生まれたものは愛する。変えるのが不可能なものに悩んだところで無意味だ。
考えても悩んでももうどうしようもないことは悩むのをやめよう。
悩んでも自分が苦しむだけで状況は悪化してゆくだけだ。
自分自身の満足感を他人の評価より重視しよう。
でも、どうにもならないことをある程度認めた上で、妥協したうえで、それでもどうにかしようと考えるのもいいのかもしれない。
夢を膨らませるのも。
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2004/1/11

(無題)  

俺が東大に期待していたものは、他人の目や、他人に依存した価値観から脱することだったのかもしれない。
東大生が東大生であることに浮かれていることに嫌悪感をもってきたけれど、でもそれは自分の価値観に基づいた、一種の反発だった。
それはでもどうしても存在するし、それを取り去ったところで東大に向かう力が生まれるわけでもない。
東大に向かう力が欲しい。
学校によって勉強が義務付けられ、勉強の価値が広く信じられ、自明になってきて、現在勉強することはほぼ正しいことになってしまっているし、確かに身につくものは多い。
思考力、対応力、学んだものに対する支配力、出世や名誉。
でもそういうものにはあまり納得ができない。
だからと言って東大に他人のに縛られることから脱することを期待しても目指してる方向が逆かもしれない。
自分を鍛えるため、で納得できるか。
できると思えばできてしまうかもしれない。常に勉強中理由を考えているわけではないから。
だが東大レベルになると、足りるだろうか。
何に価値を置いて勉強していけばいいのだろう。
今求めるのは勉強に向かうための考え方の体系だ。
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2004/1/7

(無題)  

ふと思ったけど、Aが求めてたのは本当は優しさじゃないんじゃないだろうか。最近思うように、恋の感情を女子高生として求めていただけだったのかもしれない。つまり俺が優しくなくても、下心があっても、Aが納得して恋ができればよかった。
感覚だけでの恋では間違えたりだまされたりするおそれがあるし、他人や自分に納得させる都合から優しさを、俺の価値を測る指標として持ち出した。でも必ずしも優しい人をとにかく求めていたわけではなかった。そもそも優しいの定義がよくわからない。つまり、俺に恋のテクニックがあれば続いていたんだ。
心で思ってなくてもAが喜ぶことをして、それでAが恋を味わえればそれでよかった。それから俺が優しいと思い込んでも問題なかった。俺が誕生日プレゼントを喜ばなかったことで、ひどく辛い思いをして冷めていったらしい。「嬉しくなくても喜ぶのが親しさの中の礼儀でしょう」?大したことの気がしない。本質的には何も変わっていない。冷めかけていたときにAを嫌な気分にさせてしまった、それがいけなかったんだ。それだけだ。
結局高校生の自己中な恋だったのだ。いや、恋なんてみんなこんなもんのような気がする。恋の感情を持続させるテクニック、自覚していなくてもその感覚が、結局は必要なのだ。それから相手が優しいと、相手も自分も思い込んでも問題はないのだ。なんかだんだん否定的で皮肉めいた感じになってきた。相手も自分もだまそうって事だろうか?もうやめよう。
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2003/12/30

(無題)  

ハイレベルな知的探究に興味がある。
今、理系の研究よりも人間とは何かとはとかを考える哲学に興味を持った。
でも、理学部の案内の、まだ解明されていない課題の部分を読んだら、それにも興味を持った。
俺はなんにでも興味をもてると思う。
とにかく大学で研究がしたい。
東大で高レベルの研究、探究がしたい。
また、そういうことを語り合える仲間が欲しい。

↑興味大  文学(哲学、心理学)
         理学  医学  経済学
       工学  教育学  薬学
              教養   農学
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2003/12/29

(無題)  

俺はなんでもできる。そう思う。思い込むことが力を発揮することにつながるんだ。
でもこうやって頭で文字を並べてできると思うのとほんとの自信は違うだろう。
ほんとの自信を身に付けるんだ。そうすれば成功できる。
成功?成功ってなんだ?その価値は?

地理が苦手だと他人に言っているのは、自信のなさの現れかもしれない。つまり、成績が落ちたときの弁解をしながら、心のどこかで、みんなと同じようになれば人間関係がうまく行くものだと思っているのかもしれない。
俺にとって大事なのは何か。成功や、成績がいい事の価値は今は少ししかわからないが、まわりに影響され続けて生きることの価値は、あるかもしれない。それで人間はいろいろなことをするのかもしれない。
でも俺の場合、それに縛られているので、この意味では、自由に生きることが楽しい、よい生き方につながるような気もする。

とにかく自信をもとう。俺はなんでもできるんだ。
とりあえず高校を卒業するまではこう考えよう。
いい大学に行く事はいいことだ。よい成績、何事にも頑張る姿勢、時間の有効活用はいいことだ。なんでもできないよりできた方がいい。

だめだ、こんな考え方では狭い人間になってしまう。
いろいろな面から見ながら、自分はがんばる、そういう姿勢がいいと思う。
もっと勉強すればもっといろいろな観点から物事が見られるようになるはずだ。

思い込みの力は強い。
東大に行くには、東大に向かう力を自分に与えるための思い込みが必要だ。
人間関係をよくするためにはそのためのまとまった考え方が必要だ。
何がいけなかったのかを考え、比較して、次に生かすこと。
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2003/12/28

(無題)  

人間の心理に興味がある。
自分にとって思い通りにならない人間の心理は、悩みの種であり一つの課題でもあった。
また、人間の幸不幸は人間との関係から大部分が決まるのではないか。
これは自分にとっては仮説だったけれど、他の多くの人々にとっては自明の常識だったような感じだ。
空気のようなものだからな。
人間のいろいろな場面での心の動きについて研究したうえで、よい生き方について追究してみたい。
…周りの目を気にしたくないのに心理学?
でもこじつけるなら、人間は周りを気にせずには生きていけない。
他人の心を動かしたいと言うのは活動の力の源にもなり、悪いとは言い切れない。
そう言う面も含めて心理学、哲学がやってみたい。
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2003/11/20

(無題)  

寛容さがない。人を批判する人間は我執の強い、劣等感を持った人間だ。
人を利用しようとするなら、付き合う必要はない。
自己確立のためには、そういう付き合いはすべきではない。

理想に固執せず、現実に妥協する。
妥協する部分は間違えるな。
現実の中では精一杯やること。

相手の事を考えて相手に合わせるのがいい。
相手への恐怖や執着からではいけない。

○共感的人間関係 ×共棲的人間関係

でも、人間関係の良さ自体を目的にするのは避けよう。

今自分にできることは?
自分以外にはできないことは?

勉強を頑張ること。
他の意味のないことをやっていてはだめだ。
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