「「日本の自殺」(グループ1984年)を再読する@」
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「日本の自殺」(グループ1984年)を再読する@
昨日、月刊「文芸春秋」(3月特別号)に37年ぶりに再掲載された論文「日本の自殺」(注1)を読んだ。
そこに書かれていることが
現在の日本の姿を見ているようで、その
洞察力の深さ、予見力の高さに驚くとともに、
既に危険水域にある日本の行く末が大いに案じられた。
「日本の自殺」(byグループ1984年)って何?
朝日新聞が、
1月10日付朝刊(1面)のコラム「座標軸」で、
「明日の世界に責任を持とう」(
若宮啓文・主筆)というタイトルの論説を掲載していた。
今から
37年前(1975年)、匿名集団「グループ1984年」(注2)の名前で、文芸春秋2月号に掲載された「日本の自殺」という論文について取り上げたものである。
「古い論文が手元にある。1975年の文芸春秋2月号に載った『日本の自殺』だ。(中略)古代ギリシャもローマ帝国も自らの繁栄に甘えて滅んだと指摘、日本も衆愚政治で同じ道を歩んでいると警告する刺激作だった。
(中略)国の借金が瀬戸際までふくれた今、『日本の自殺』がかつてなく現実味を帯びて感じられる」と述べ、「与野党とも政局や選挙の利害ばかりを考えず、明日への責任を心に刻んで大人の議論をすること。それが『自殺』を避ける道である」と
若宮氏は結んでいる。
この
「日本の自殺」という論文は、
当時(1975年)かなりの反響を呼び、時の経団連会長:
土光敏夫氏は、論文のコピーを会う人ごとに配っていたという。
私も親父が「文芸春秋」を毎月購読していたので、この論文を読んだ記憶がある。皆さんの中にも、お読みになった方がおられるかも知れない。
「日本が、このまま安易に“パンとサーカスの道”(後述)を辿れば、遠からず、精神的に自殺と言ってもよい状態に陥り、国家は衰退して行くだろう」と、日本の将来に厳しく警鐘を発した、
骨太の論文であった。
ちなみに
1975年というのは、日本が、「赤字国債の発行」という麻薬に手を染め始めた年であり、37年後の現在その額は約670兆円にものぼっている。
(注1)国が自殺するという表現が用いられているのは、外圧によってではなく、
「社会内部の自壊作用」によって国の崩壊が始まることを予見してのものである。
(注2)「グループ1984年」は各分野の専門家二十数人による学者の集まりで、中心人物は
香山健一元学習院大学教授だったことが後にわかった。
“パンとサーカス”の意味するもの
つい最近出た
月刊「文芸春秋3月特別号」に、「日本の自殺」の抄録が掲載されていることを
ブログの知己:sunkyuさんから教えていただき、早速購入して読んだ。
先に述べた
“パンとサーカス”の意味はこうである。
ローマ時代の末期、市民大衆の支持や人気を得るため、政治家は働かない者にも無償で「パン」を与えたため、彼らはいよいよ働かなくなる。
そして時間をもて余した市民大衆は、これまた無償で興業されるサーカスに入れあげるようになり、精神的にますます退化していくというのである。
論文は、
「ローマ帝国時代、最初は勤勉だったローマ人が消費に狂奔し、権利を主張するあまり義務を忘れ、挙句の果てに栄光の代償として歴史から消え去った教訓を、日本人は学ぶべきだ」と主張している。
「ローマの市民大衆が繁栄の絶頂に達したと錯覚していた時に、ローマ人の魂は衰弱し、ローマの没落が始まっていた。同様に日本も今、誤った繁栄の結果、人々の道徳は荒廃し、人心はすさみ切り、個性を失って呆然と立ち尽くし、自壊に向かっている。
日本の自殺を食い止めるには、欲望肥大のサイクルから抜け出ることが必要であり、自己抑制を行い、人の幸福を金の多寡で語ることをやめ、国民が自分のことは自分で解決するという“自立の精神と気概”を持つことが肝要である。
そして政治家やリーダーは”大衆迎合主義”をやめ、指導者としての“誇りと責任”を持って、なすべきこと、主張すべきことを推し進めていくことだ」
と結論付けている。
「日本の自殺」は、
今の日本が置かれた状況を考えた時、非常に符号する部分が多く、とても37年前に書かれた論文とは思えない。
だが、日本のその後の歩みを考えた時、
残念ながら当時の予見どおりの道を辿っているように思えてならない。
以下、論文の中から、気になった箇所をご紹介したい。皆さんはどう思われるだろうか?
豊かさの代償
「豊かさの代償」という項で青少年のことを次のように述べている。
「生活環境が温室化すればするほど、教育は人為的にでも厳しい挑戦の場を子供たちに提供すべきなのに、教育は後にも述べるように過保護と甘えの中に低迷していた。
こうして、自制心、克己心、忍耐力、持続力のない青少年が大量生産され、さらには、強靭なる意志力、論理的思考能力、創造性、豊かな感受性、責任感などを欠いた過保護に甘えた欠陥青少年が大量に発生することとなった。」
この指摘は、決して青少年に責があると言っているのでなく、
こうした青少年を作り出してきた社会全体の教育・育成システム、親を含めた大人たちの存在が大きく関わっていることは言うまでもない。
また、教育という意味では、戦後、
日教組が掲げてきた「誤った平等主義」が、日本の子供達から、個性を伸ばしながら成長を図るチャンスを奪い、
次第に学力の低下を招いていったことが述べられているが、これは次回に取り上げたい。(この影響は、
これからボディブローのように効いてくるだろう)
情報の洪水が人間を劣化させる
ここでは、
マスメディアから日々発信される大量の情報が、人間を劣化させていくプロセスを改めて認識した。
@間接経験に誘導される
「経験」の中に占める
「直接経験」の比重が相対的に低下する一方、マスコミの提供する情報を中心とした
「間接経験」の比重が飛躍的に増大する。
これについては、自ら海外に出かけなくても居ながらにして、世界各国の景観や風土が
擬似体験できるメリットもあるが、人々は次第にマスコミの作り出す
巨大な社会的ネットワークに依存するようになり、
知らず知らずのうちにマスコミの意図する方向に誘導される危険が出てくる。
また、こうした中で
「集団ヒステリー」という、冷静で筋道立った対応とは全く正反対の
「近視眼的で感情的な言動が出現する」ことにも触れている。
以下の「例」は論文の内容ではなく、筆者が感じたことを例としてあげたものである。
例)
原発事故に伴う放射能汚染を怖れるあまり、
「集団ヒステリーに近い状況」が起きていないか?
放射能汚染とその人間への影響を、客観的な事実や数値で語ることをせず、「瓦礫の処理は必要だが、ともかく自分の住む町で被災地の瓦礫を受け入れるのは嫌だ」と拒絶することが、各地で起きていると聞く。実に情けない話である。
多くの国民が福島原発事故の生々しい画像を間接的に経験して、
原発、放射能に対する拒否反応を強め(というか煽られ)て、
「猫も杓子も一緒ぐた、坊主憎けり袈裟まで憎い」という感情に陥っていないだろうか?
A情報過多に伴う不適応症
たいていの人間は洪水のような情報を適当にさばいているが、
適当にさばけない人もあり、
短絡型、自閉症型、分裂症型となってあらわれる。
そして、そこから、かつては考えられなかったような凶悪事件や犯罪も発生する、
B情報の同時性、一時性
社会の変化のスピードが早く、情報の流れが早くなると、
人間と情報の関係が極めて一時的なものになってくる。
一時性の情報環境の中で、
深い人間的感動を伴う経験への昇華のないままに、
浅薄な好奇心だけが肥大化され、
人間は精神的、情緒的安定を失って、「今、今、今・・・」をうわべだけで追い求めるようになる。
C情報受信と発信の極端なアンバランス
一方通行の情報の受け手たち(すなわち一般大衆)は、
伝達される大量情報の応接に追いまくられて、その受信機はフル稼働している。
情報を受け止めて、自分の思考プロセスをじっくり通過させないため、
短絡型の論理的思考能力のない人間が量産されることにもなる。
Dマスコミによる異常情報、粗悪情報の過度な拡散
例)
これは、特に
民放テレビで顕著であり、
センセーショナルで事大主義的な番組が多すぎる。
時にお笑い番組もストレス解消になるが、見てためになったという記憶より、「また貴重な時間をつぶしてしまった」という失望感の方が多い。
自己防衛のため、
民放は、一部の贔屓メニュー(鬼平犯科帳、サザエさん等)
以外は原則として見ない事にしている。
(次回に続く)

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