「イントゥ・ザ・ワイルド」  

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主人公アレックスが家族もなく友人もいない孤独で心に傷を持つ老人フランツへ宛てた手紙の抜粋。自分の殻に閉じこもっていて、なかなか新しい人生へ踏み出せないでいる貴方に送ります。自分宛てに書かれた手紙だと思って読んでみましょう。(この映画は実話を元にしており、以下の手紙は実際にアレックスがフランツへ送った手紙をクラカワー著「荒野へ」から引用しています)

『あなたには、もう一度以前と同じアドバイスをさせてください。貴方は思いきってライフスタイルを変え、これまで考えてみなかったこと、あるいはなかなか踏んぎりがつかずに躊躇していたことを大胆に始めるべきだと思っているからです。多くの人々は恵まれない環境で暮らし、いまだにその状況を自ら率先して変えようとはしていません。彼らは安全で、画一的で、保守的な生活に慣らされているからです。それは唯一無二の心の安らぎであるかのように見えるかもしれませんが、生きる気力の中心にあるのは冒険への情熱です。生きる喜びはあらたな体験との出会いから生まれます。したがって、たえず変化してやまない水平線をわが物にしているほど大きな喜びはありません。毎日、あたらしいべつの太陽を自分のものにできるのです。人生からもっと多くのもの得たければ、ロン、単調な安全を求めるのはやめて、最初は常軌を逸しているようないい加減な生き方をしなければならないのです。でも、そうした生き方に慣れてくれば、その真の意味とすばらしい美しさがわかるでしょう。しかし、ぼくのアドバイスなど聞いてはもらえないでしょう。ぼくのことを頑固だと思っているようですが、あなたの方が頑固者です。車での帰途、あなたはグランドキャニオンという最高の景色のひとつを眺めるすばらしいチャンスに恵まれました。アメリカ人なら一生に一度は見ておくべき景色です。だが、ぼくにはわからないなんらかの理由で、あなたは家にまっすぐ帰ることばかり考えていました。くる日もくる日も、目にしている同じ場所へいっさんに。これからも、こういう生き方をつづけて、そのために神が僕たちに発見させようとして周囲に配置してくれたすばらしいものを、あなたはなにひとつ発見できないのではないかと思います。定住したり、一か所に腰を落ちつかけたりしてはなりません。あちこち動きまわり、放浪し、毎日毎日、水平線をあらたなものにしていくのです。人生の残り時間はまだまだたっぷりあります。ロン、この機会に生活を根本から変えて、まったくべつの体験領域に入ってくれればいいのですが。
 楽しみをもたらしてくれるのは人間関係だけであるとか、人間関係を中心にそれを期待しているとすれば、それはまちがいです。神は楽しみをぼくたちの周囲のあらゆるところに配してくれています。ありとあらゆること、なんにでも、僕たちは楽しみを見出せるのです。習慣的なライフスタイルに逆らって、型にはまらない生き方をするには勇気が必要です。
 要するに、あなたの生活にこの種のあたらしい光りを灯してくれるのは、ぼくでもほかの誰かでもないということです。あなたはただそこにじっと待っていて、それを掴もうとしているだけなのです。なすべきことはただひとつ、自分でそれを掴みにいくことです。あなたが闘っている相手はまさに自分自身であり、あたらしい環境に入ろうとしない頑固さです。物を見たり、人と会ったりするのです。学ぶことはいっぱいあります。ためらったり、あるいは、自分に言い訳するのを許さないでください。ただ、飛び出して、実行するだけでよいのです。飛び出して、実行するだけで。そうすれば、ほんとうによかったと心から思えるでしょう。
                   ご自愛ください、アレックス   』

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「わたしに会うまでの1600キロ」  

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このブログでもご紹介している『イントゥ・ザ・ワイルド』の女性版といってもいい作品。
『イントゥ・ザ・ワイルド』にいまいち自分を重ねることが出来なかった女性の方には是非お勧めしたい。

シェリル・ストレイドは母親のボビーと弟のリーフと三人暮らし。
母親のボビーは暴力を振るって暴れる夫から、子供達を守る為に逃げ出し、しばらくするとまた夫の元に戻る様な生活を繰り返している。

時が経ち、夫とは別れ、1人で子供達を育て上げたボビーは、かつて叶えられなかった大学へ通う夢を果たし、ようやく自分の人生を謳歌しようとしている。

しかしDV家庭に育ち、母親が肉体的にも精神的にも傷付く姿を見続けて来たトラウマは、今もシェリルの心に深い禍根を残している。

ある日、ボビーが楽しげに歌いながら料理を作っている。そんなボビーをシェリルは訝しげに見ながら、こう言うのだった。

シェリル :
その歌やめて 何なの?

ボビー:
あなたこそ何?
楽しいから歌うのよ

シェリル :
どうして楽しいの?
何もないのに

ボビー :
愛にあふれてる

シェリル :
くだらない
そういうのは やめて
ウエートレス同士

ボビー :
学生同士

シェリル :
一生 ローンを抱えて
こんなボロ屋住まい
乱暴な飲んだくれとなんか
結婚するから...
何に目をつぶれば
のんきに歌えるの?

ボビー :
目はつぶってない

シェリル :
じゃ なぜ?

ボビー :
私が唯一教えられるのは
最高の自分の見つけ方と
それを手放さない方法よ

シェリル :
今が最高なの?

ボビー :
頑張ってる
乱暴な飲んだくれとの結婚に後悔?
まさか
だって あなたを授かったから
あなたと弟を
いいところだけ見るのは難しいけど
価値はあるわ
この先 もっと ひどい日もある
つぶされるのは簡単よ
でも私は なぜだか 生きたいの


自分の人生を取り戻そうと腰を上げた母親と、これまでの自分の負って来た痛みに今尚、翻弄されている娘が互いの胸の内を吐露する場面だ。この時に交わした母との会話を旅の途中で思い起こすことになる。

シェリルは夫のポールとの離婚、そしてボビーの突然の死といった悲しみによって自暴自棄となり、ヘロインに溺れていく。そんな荒れた生活の中でシェリルは自分の心の傷を癒すために数千マイルにもわたるパシフィック・クレスト・トレイルを一人で歩き通すことを決意するのだった。

シェリルの回想シーンを挟みながら、旅の途中で様々なアクシデントや出会いを経験し、シェリルの成長していく姿を描く。

旅の途中で出会った少年がシェリルに歌って聞かせた歌の歌詞が印象的だ。
シェリルはそれをボビーに重ねる。
本当は愛して止まなかった、自分の全てだったボビーに。

「この谷間を去り行くあなた
輝く瞳と笑顔を忘れない
あなたと一緒に太陽が消えて
行く道を照らす光がなくなるから
愛しているならそばに来て座って
急いで別れを言わないで
赤い河の谷間を忘れないで
そしてあなたを愛したカウボーイを
赤い河の谷間を忘れないで
そしてあなたを愛したカウボーイを」


旅を終えたシェリルはこう回想する。

「ひとつの行動が何を生むか知るすべはない
何が何を導き
何を壊し
何を花開かせ
枯らせ
道を変えさせるのか

もし自分を許せたら?
後悔していたら?

でも時が戻っても私は同じことをするだろう
もし あの男たちを愛していたら?
ヘロインから何かを学んでいたら?
すべてのことが私をここへ導いたのなら?
何の救いも得られていなかったら?
既に救われていたら?


母の望んだ女になるのに
4年と7ヶ月と3日かかった
母なしで

悲しみの荒野で迷子になった私は
ようやく森を抜け出した

最後の日 そこへ着くまで
行き先はわからなかった
”ありがとう”と何度も心に思った

トレイルから学んだことと
これから学ぶことに
この4年後に再び橋を渡り
今 見ている場所で結婚することに
9年後には息子カーヴァーが生まれ
翌年 娘が生まれ
母と同じ”ボビー”と名づける

私は素手を伸ばすことをやめた
水の中の魚は眺めるだけで充分
それがすべてだ

私の命は 他の人と同じ
神秘的で かけがえなく 神聖で
すぐそばにあり
確実に存在し
私とは切り離せない
自然のままに あるべきもの」


原作はシェリル・ストレイドの自叙伝
『Wild: From Lost to Found on the Pacific Crest Trail』
『イントゥ・ザ・ワイルド』同様、この作品も実話を元にしている。

自分のこれまでの人生で負った傷に翻弄され「今」を生きている実感が持てない貴方
そして新しい人生を歩み出すことに躊躇している貴方

シェリルのように自然の美に抱かれて歩いてみませんか?


『わたしに会うまでの1600キロ』
原題: Wild
2014年・アメリカ
監督 ジャン=マルク・ヴァレ



【豆知識】
主人公が歩いたパシフィック・クレスト・トレイルはアメリカ=メキシコ国境からアメリカ=カナダ国境までのアメリカ西海岸を南北に縦走する長距離自然歩道。モハベ砂漠や数々の山脈を越える過酷なロングトレイル。ガラガラヘビ、サソリ、熊などの動物、生物の脅威から、雪や砂漠、崖といった自然、気候の脅威が走破を目指す者に迫り来る。成功を収める者は6割と言われる。

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2

 

「マダム・イン・ニューヨーク」  

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ミーラ、ケヴィン <この結婚...>
失礼、ヒンディー語を...

この結婚...すばらしいです。
それは最も特別な友情です。
なぜなら対等な者同志の友情だから。
人生は長い旅です。
ミーラ、時には感じるかも。
夫より劣っていると。
ケヴィンも感じるかも。
ミーラより劣っていると。
互いに助け合って
対等を感じるように。
そうすれば大丈夫。
時に夫婦でも
相手の気持ちが分からなくなるものよ。
だから助け合う方法も見失う。
それは結婚の終わりかしら?
違うわ。
自分で自分を助ける時よ。
自分を助ける最良の人は自分。
そうすれば対等の気持ちがあと戻って来る。
友情もあと戻って来る。
人生は輝く。
家族は決して傷付けない。
家族は引け目を感じさせない。
家族だけよ。
あなたの弱みを笑わないのは。
家族だけは
与えてくれるわ。
愛と敬意を。
以上よ。
末永く、お幸せに。
ありがとう。

2012年・インド
ガウリ・シンデー監督
原題:English Vinglish







2

 

「リトル・ランナー」  

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舞台は1950年代、カナダはハミルトンのカトリック学校。

生徒である14歳の少年ラルフ・ウォーカーはタバコや性に対する関心が人一倍強く、校則破りの常連で校長には目の敵にされている。
学校では問題児として他の生徒達からも疎まれ、友達はチェスターのみ。

そんなラルフの父親は戦死し、母親は難病に冒され病院で寝たきりの状態。

ある日、母を病院に見舞うと病状が突然悪化し昏睡状態に陥ってしまう。
看護婦のアリスに「奇跡でも起こさぬ限り昏睡から目覚めることはない」と告げられラルフは呆然とする。

母が目覚めなければ、保護者が不在であるという理由で施設に送られてしまう。
既に祖父母は亡くなっているものの、親友チェスターが祖父母の振りをして学校に提出する書類にサインをしていることもばれてしまうと学校にはいられなくなる。

日頃の行いを正すべく校長の命令でクロスカントリー部に入部させられたラルフ。
ある放課後、部員達の前でコーチであるビバート牧師は「君たちがボストンマラソンで優勝したらそれは奇跡だ」と言った。
それを聞いたラルフはボストンマラソンで優勝するという奇跡を起こせば母は昏睡から目覚めると信じて走り出す。

一方のクロスカントリー部のコーチ、ビバート牧師は、オリンピックのカナダ代表のランナーであったことをラルフに知られてしまう。出場予定だったオリンピックの大会の2週間前に負傷し、出場を断念せざるを得なくなってしまった。次回のオリンピックへ向けて練習を積んでいたものの、戦争が勃発してしまったためにオリンピック出場という夢を諦め、牧師になったことをラルフに告白する。

ビバート牧師は夢に向かって走っていた自分の姿をラルフに重ね、ラルフがボストンマラソンで優勝するためにコーチ役を買って出るのだった。

母を思いひたむきに練習し、確実に成果を上げていくラルフに次第に周囲は彼に対する評価を変えていく。

片思いだったクレアはラルフのボストンマラソン優勝を信じて毎日神に祈りを捧げ
ラルフを馬鹿にしていた生徒達も、次第にラルフを応援するようになる。
母の入院する病院の看護師アリスもボブスレーの選手だった時に覚えたウェイト・トレーニングをラルフに指導する。

そんな周囲の理解や協力を得て、ラルフは次第にランナーとしての実力を上げていく。

校長は軽々しく「奇跡」という言葉を口にすることは神への冒涜であり、学校を休んでボストンマラソンに参加することは許さないと、ラルフやビバート牧師を厳しく叱責する。

そんなある日、親友チェスターはラルフに「走ったら校長に退学させられるよ、ハミルトン中の笑い物になる。お母さんはもう目覚めない」と忠告し喧嘩になってしまう。

チェスターは更に「危険を冒して代筆してやったろ」と言い
ラルフは「君は危険なんて冒したことないだろ」と返す。

この後ラルフは母の病院に赴き、昏睡状態でベッドの上で目を閉じている母の肩を揺らしながら「起きて!」と涙ながらに叫ぶのだった。

その晩、両親の写真や思い出の品を焼いていたら不注意で自宅を全焼させてしまう。
呆然と焼けた自宅を眺めるラルフに駆け寄ったのは喧嘩をしたチェスターだった。

チェスターは「ボストンマラソンに出場すれば、校長を最高に怒らせることができるよ。それに君なら優勝できるよ」とラルフを励ます。

ビバート牧師はボストンマラソン参加を認めない校長の部屋を訪ね、こう言うのだった。

『実は彼に会うまでは何も信じていませんでした。
でも今はこう思えます
この世を去る時
神がお尋ねになる
"危険を冒したことは?"
"光が見えずとも跳んだことは?"
"目を閉じて運を天に任せたことは?"
今の答えはこうです
"いいえ ありません"
だから目を閉じます』

こうしてラルフとビバート牧師の二人の"奇跡"へのレースは始まるのだった。

ラルフが起こした"奇跡"、ボストンマラソンでの結果は是非映画本編で確認を!

この映画を観て感じるのは
実は"奇跡"は"奇跡"ではないなのではないかということ。

私たちは"奇跡"とは何か特別なことで
一生に一度も起こりえないようなことだと思っている。

しかし、それは違う。

ラルフを見てご覧!
チェスターという素晴らしい親友に恵まれ
ビバート牧師という師にも巡り会えた。
志と信念を持って前を進めば昨日までの敵は味方になることも知った。

彼がボストンマラソンで優勝し、母が目覚めることが実は"奇跡"なのではなく
既にラルフには日々"奇跡の数々が降り注いでいたのだ。
人生とはそういうもの。
悲しさや寂しさや不幸の数を数えるよりも、自分に既にある"奇跡"の数々を発見し数えるべきだ。

そしてラルフとビバート牧師の口から語られる「危険を冒すことの大切さ」
それは人生にとってとても重要なもの。

貴方は何かを諦め、悲観的になってはいないだろうか。
貴方は自分を責めてばかりで、何にもチャレンジしていないのではないだろうか。
言い訳や責任転嫁にばかり時間を割いて、重い腰を上げずにいるのではないだろうか。

貴方にも"奇跡"は起こせるし
実は今この瞬間さえも"奇跡"に愛されているという事実を知ってほしい。

この映画はそれをきっと教えてくれるだろう。
そして見終わったら、何かにトライして欲しい!

*実はこの僕も「危険を冒すため」この冬フルマラソンにチャレンジするのです!



2004年・カナダ
マイケル・マッゴーワン監督
原題:Saint Ralph




8

 

「Abita」  

福島の子供達の現状を描いたアニメーション「Abita」が国際ウラニウム映画祭でイエローオスカーを受賞!作者は日本人のShoko Haraさん。世界のアーティスト達が原発問題を啓蒙するフェスティバルだそうです。このブログでもご紹介したくて掲載致しました。是非ご覧を!

http://www.uraniumfilmfestival.org

2

 

「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」  

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リスクを嫌って冒険を避ける者は
何もせず、何も得ない

未来は現在(いま)と違う
分かるのはそれだけ

人が恐れるのは、現在そのままの未来
だから変化を尊ぶのよ

誰かが言ってたわ
"何事も最後は大団円"

不満がある時は覚えておいて
まだ発展途上なのよ



原題: The Best Exotic Marigold Hotel
2012年:イギリス
ジョン・マッデン監督
4

 

「ハッシュパピー バスタブ島の少女」  

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"川のほとりに立ち 船を見送る
船の姿が消え 我らは嘆くが 船は消えてはいない
見えないだけで存在する
どこか他の場所で誰かが叫ぶ 「船が来た」と
それが死ぬこと ほら船が来た!"

『目を閉じると周りには
あたしを作った全部が見えない姿で飛んでいる
見ようとすると逃げて行く
でも静かになるといるのがわかる
あたしは大きな世界の小さなカケラ
それでちょうどいい
あたしが死んだあと
未来の科学者が見つけてくれる
科学者たちは知る
昔、ハッシュパピーとパパがバスタブにいたことを』



バスタブ島は「世界一きれいな場所」
お祭り騒ぎが大好きな人々が住み、周囲とは隔絶された閉鎖的なコミュニティだ。
そんな島に6歳になる少女ハッシュパピーと父ウィンクは住んでいた。
ハッシュパピーの母親は家を飛び出して久しく、父のウィンクは酒に溺れる毎日。
2人は手作りの家で多くの動物達と気ままな暮らしを送っている。

「いつもみんなが心臓を鳴らして 知らない言葉で話をしている
たぶん"お腹がすいた"とか"ウンチがしたい"とか、でも暗号の時もある」
ハッシュパピーは白いゴム長靴を履いて外に出掛けては動物達の心臓の音を聞くことが日課だ。

学校では先生がこう教える。
「これはオーロックス。
この凶暴な猛獣が我が物顔で歩いてた頃人間は洞窟に住んでいたの。
オーロックスは洞窟から人間の赤ちゃんを奪って食べた。
原始人達は何も出来なかったわ。
力が弱くて小さかったから。
でも原始人達はメソメソ泣いてただけと思う?
よく考えなさい。近いうちに世界は大きく変わることになる。
南極の氷が溶けて水位が上がり、堤防より南は沈んでしまうの。
生きる術を学びなさい」

子供達はこうして学校で自然淘汰の仕組みや地球の温暖化、さらには生態系の変化によって、やがて"バスタブ"にも存続の危機が迫っていることや、生き残るために強くなれと教えられていた。

この作品では象徴的な存在としてオーロックスという獰猛な動物が幾度も登場する。
オーロックスは遥か遠い昔に氷に閉ざされ絶滅してしまったが
生きている者の鼓動に力が失われる時
アイスエイジ(氷河期)に氷の中に閉じ込められてしまったオーロックスが
それを嗅ぎ付け氷の壁を打ち破って現代に蘇って来る。
ハッシュパピーはそう信じていた。

父ウィンクと喧嘩した時にハッシュパピーはつい「死んでしまえばいい」と口走ってしまう。
それを聞いた父ウィンクはその場に倒れてしまう。

ハッシュパピーは
「ママあたし何かを壊した」と叫ぶのと同時に氷河が崩れ落ちる映像が流れる。
オーロックスが目を覚ましつつあるのだった。

オーロックスはまさに「死」と「再生」の象徴としてこの後、劇中に何度も登場して来る。

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そんなある日、バスタブは100年に一度の大嵐になって水に浸かってしまい壊滅状態となってしまう。
父と2人小さな船に乗って命からがら逃げ出すのだった。

バスタブはそそり立つような高い堤防に囲まれた島。
水浸しになってしまった島を元通りにするためには高い堤防を決壊させるしかない。
ウィンクと生き残った仲間達はバスタブのために決死の覚悟で堤防へ向かう。

無事に水が引いたバスタブだったが時既に遅し。
どろどろの焦土と化してしまったバスタブは植物も動物も死に絶えてしまったのだ。

命の灯火を失いつつあるバスタブに、あの獰猛なオーロックスが氷河を破り襲いかかろうとしていた。

バスタブは政府により強制退去区域に指定され、住民達は難民収容所の病院へ収容されてしまう。

父ウィンクがどうやら重い病気にかかっていることを知ったハッシュパピー。

「死んじゃうの?」「あたしを1人にする?」
「1人にはしない」
「パパが死んだら、あたしも死ぬ」
「そうはならないさ」

「お前を死なせないのが俺の仕事だ」

たった1人の側にいてくれる存在である父親を失ってしまうかもしれない恐怖に怯える娘を、不器用ながらも愛情一杯に包もうとする父ウィンクとハッシュパピーとのやり取りは胸に迫るものがある。

オーロックスの影に怯え背を向けていたハッシュパピー、父を失うかもしれない恐怖に身を伏せていたハッシュパピーが、現実に向き合い成長を遂げる。そして最後はオーロックスに正面から対峙するのだった。

誰しもが経験する挫折や孤独に対する不安、愛する人の「死」

それに立ち向かう術と勇気を教えてくれる素晴らしい作品だ。

オーロックスは誰の人生にも忍び寄って来る。
しかし、それは決して貴方の人生を食い尽くしてしまう獰猛な使者ではない。
貴方が、背を向けずに向かい合い、そして抱き締めようとすれば
オーロックスの胸からも鼓動は聞こえて来る。
「死」とは「再生」でもあり「始まり」でもある。

この作品はこの上ない人生賛歌だ。

僕も亡き父にハッシュパピーと同じ言葉を発したことがあった。
どことなく似ている環境、そして父と語り合った時のことを思い出して涙してしまった。
しかし後味の良い涙だった。

7

 

「人生に乾杯!」  



1945年5月8日の敗戦後にソ連に占領され
共産化が進められたハンガリー。

そんな最中、共産党員のエミルと伯爵令嬢のヘディは運命的な出会いをし結婚する。

それから数十年後、老夫婦となったエミルとヘディは年金暮らしを余儀なくされ、毎月の家賃は滞り、電気代も払えない有様。

ある朝、差し押さえに現れた執行官が家賃のカタにエミルの大切な本を持って行こうとするが、ヘディは自分の大切なダイヤモンドのイヤリングを外し、それを代わりに持って行くようにと彼らに渡す。

国のために様々な犠牲を払って来た老人が虐げられる社会、人として当たり前の生活さえも送れない、不安に怯えなければならない現実、そんな国の冷たい仕打ちにエミルは突如、行動を起こす。

"強盗"という手段で。

強盗にしてはスマートで紳士的な手法ではあったが、見事に成功してしまう。

各地で5件もの強盗を働きながら妻ヘディと共に逃走するエミル。

この逃走劇はマスコミでも大々的に報じられるが、次第に国中の同じ境遇にある年金暮らしの老人達の共感と同情を集めるところとなり、喝采と賞賛が送られるのだった。ハンガリー中で老人達が立ち上がり、デモに発展し、また模倣犯まで出現する。

テレビでは市民とレポーターのこんなやり取りも。

「年金だけじゃ生活していけないのよ
 その現状を知るキッカケになる」

「銀行強盗がですか?」

「ほかに方法がなければ仕方がない」



「俺は好きだぜ 人生 我慢して来たなら 最後くらいぶちかませばいい」



そんな逃走劇の中で、30年前に夫婦に起こった悲劇が浮き彫りになって行く。

そして結末は・・・

劇中では老夫婦の深い愛、互いに相手を想い合うシーンがいくつもある。

例えば、テレビでクイズ番組を観るのが好きな妻だが、家にあるテレビはとても小さくて古い。

強盗を働いた後、エミルが最初に手に入れたのはテレビ。
そのテレビを妻へ送る。

そして家賃のカタに取られてしまったダイヤモンドのイヤリング(エミルが結婚前にヘディへ送ったもの)の代わりに、宝石店へ、ヘディと共に押し入って新しいイヤリングをヘディに手渡す。

強盗という犯罪を犯しているにも関わらず、エミルとヘディは誰の命も奪うことはなく、終始紳士的に接し、礼儀正しい。夫婦に接した者達は2人を好きになり、2人を知らない者達はニュースでその姿を観て共感の拍手を送る。

そして何より逃走を続ける2人に悲壮感などなく、束の間のハネムーンを楽しんでいるかのようだ。

この作品は社会に対する痛烈なメッセージでもあるのと同時に、ロードムービーでもあり、そして老夫婦の尊いラブストーリーでもあり、人生賛歌だ。

人生の「終わり」は「命が尽きること」ではない。
「屈したり」「諦めた」時に人生の灯火は消え去ってしまう。

いくつになっても、幸せへの道は続いている。

いくつになっても、人生は変えられる。

貴方が立ち上がる時こそが、人生が変わる時だ!!





2007年・ハンガリー
ガーボル・ロホニ監督
原題:Konyec

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「君のためなら千回でも」  

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舞台は1978年、アフガニスタンの首都カブール。

アミールは12歳、いつも親友のハッサンと一緒に遊んでいる。

アミールは物語を書くのが好きな少年。
そしてハッサンは気の弱い臆病なアミールの傍らにいつもいて、街の不良から得意なパチンコを使って守っていた。

ハッサンは字が読めないので、本が好きなアミールの蔵書の中からイランの物語である「ロスタムとソーラブ」を読聞かせてもらうのが好きだった。

アミールの父ババは裕福で、ハッサンは父のアリと共にアミールの家で召使いとして働いている。
アリとハッサンはハザーラ人であるため街でも虐げられる存在であるが、アミールの父ババは自分の父が幼い頃のアリを引き取って我が子の様に育てた為に、2人を家族同然に受け入れていた。
(*ハザーラ人はアフガニスタン国内でもマイノリティであり人口の約1割程。外見的特徴はモンゴロイドであり宗教はイスラム教シーア派。虐殺などの歴史もあり現在でも差別などが残っている)

アフガニスタンでは新年に凧揚げ競技会が行われる風習があり、日本と違って二人一組になり相手の組の凧の糸を切り、落とした方が勝ち。アミールとハッサンは競技会に参加し、優勝する。

ハッサンは自分たちの凧を拾いに行くが、パシュトゥーン人の不良アセフ達に捕まって暴行を受けてしまう。ハッサンを探していたアミールは、ハッサンが暴行を受けている光景を見ていながらも勇気を出せずに隠れていたために気まずくなり、ハッサンをその日から避ける様になってしまう。

ある日、アミールは父ババから買ってもらったばかりの時計をハッサンの部屋の枕の下に置いて、ハッサンが時計を盗んだと父ババに言ってしまう。父ババはハッサンに「お前が盗んだのか」と問いつめるが、ハッサンは自分が盗んだと伝える。父ババはそれでもハッサンを許したが、ハッサンの父アリは、今日限りで家を出て行くと荷物をまとめてハッサンを連れて出て行ってしまう。

アミールとハッサンの心は交わることなく、離ればなれになってしまった。そして時を同じくして1979年にソ連によるアフガニスタンへの侵攻が始まり、アミールと父ババはアメリカへ亡命することになるのだった。

それから20年後の2000年、作家としてようやく芽が出たアミールの元へ、恩人のラヒム・ハーンから一本の電話が入る。この電話がアミールの人生を変える。20年の歳月の中で置き去りにして来た親友への思い、そして後悔。アミールはタリバンによる独裁政権下の祖国へと戻るのだった。そして祖国で知ることになる真実とは・・・

この映画でアフガニスタンの風習として扱われている「凧」、その「凧揚げ」は今作の一番の見せ場である。凧が大空を風を切って舞う場面は心が踊り、爽快でもある。凧は「自由」の象徴のようでもある。

凧は一見、自分の意志で大空を駆け巡っているようでもあるが、実は糸に繋がれている。凧とそれを揚げる人間(そしてその間にある糸)との関係は様々なものに置き換えることが出来る。「身体と心」「人間と宗教」「人間と人種」「人間と民族」「友情と愛情」「絆と絆」・・・(糸は意志、感情、思いに例えられるだろうか)凧が大空で絡み合い糸を切り合っている光景は人間同士の無様な民族対立であったり、宗教観の争いにも重ねて見ることが出来るし、様々な環境や境遇に囚われながらも、心や精神は凧の様に自由であり続けることが出来る、尊厳を維持出来るのだという人間としての厳かな意志の力にも見て取る事が出来る。

貴方は、この大空に舞う凧に何を思い、何を投影出来るだろうか。

二人の少年の友情を縦軸に、私達のそれぞれの人生でも身近にある誰かへの愛、そして信頼、絆、過ち、後悔という人間の本質に関わる繊細な事柄が横軸となって描かれている。

この映画は決して悲劇ではない。少年の慈悲と自己犠牲の精神が生んだ、壮大な愛と絆の叙事詩である。

この映画から私達が学ぶべきことは、今がどんなに困難で苦しい状況であったとしても、必ず一歩踏み出せば新しい未来を手に入れることが出来、そしていつだってやり直しが効くということだ。

この映画はきっと貴方に希望のメッセージを送ってくれる。

タイトルの「君のためなら、千回でも」は台詞として劇中の前半と後半で二度出て来る。
最初はハッサンが、後半はアミールが。

その言葉の真意を是非映画を観て確かめて欲しい。


アミールの父ババのこの台詞も印象深い。

『この世に罪は1つ "盗み"だ 他の罪は盗みの変形だ わかるか?』

『男を殺すことは 男の命を奪うことだ 男の妻から夫を盗み 子供たちから父親を盗む 人を騙すのは その人から真実を盗むこと 盗みは何よりも卑怯だ わかるか?』



2007年・アメリカ
マーク・フォースター監督
原題: The Kite Runner
ペルシャ語題: کاغذ‌پران‌باز- Kāğazparān Bāz

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「ヒューゴの不思議な発明」  

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イザベルに駅の時計台からパリの夜の街並を見せながら
ヒューゴが語りかける。

「父さんが死んだあと、よくここへ登った
 ここからは世界が1つの大きな機械に見える
 機械に不要な部品はない
 使われている部品はすべて必要なんだ
 だから世界が1つの大きな機械なら
 ぼくは必要な人間なんだ
 理由があってここにいる
 君にも理由があるはずだ」
(ヒューゴ)


ママ・ジャンヌがジョルジュ・メリエスに

「ジョルジュ、あなたはずっと過去を忘れようとした
 でもそれは、あなたを不幸にしただけ
 そろそろ思い出したら?」



2011年・イギリス=アメリカ
マーティン・スコセッシ監督
原題:HUGO
3

 

「宗方姉妹」  

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古い道徳の伝統に忠実であろうとし、ニヒリストを気取っているものの、求職中の身でありながら酒に溺れる毎日の夫に献身的に尽くし寄り添う姉の節子と、英語が得意で奔放な妹、満里子が対比的に描かれている。

公開された1950年代前後の時代背景もまた、新しい価値観と、古い価値観が交錯し、時に対立しながらも、日本という国が自らのスタンスを模索していた時期なのだろう。

古さとは何か、新しさとは何かを、大きなテーマとして投げ掛けている。

特に、姉妹のこのやり取りは、それを直接的に表現している。


節子
「あんたの新しいことってどういうこと?」

満里子
「お姉さん、自分では古くないと思ってらっしゃるの?」

節子
「だから、あんたに聞いてんのよ」

満里子
「お姉さん、京都に行ったって、お庭見て歩いたり、お寺廻ったり」

節子
「それが古いことなの?それがそんなにいけないこと?私は古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとに新しいことは、いつまでたっても古くならないことだと思ってるのよ、そうじゃない?」

「あんたの新しいってことは、去年流行った長いスカートが今年は短くなるってことじゃないの?みんなが爪を赤くすれば、自分も赤く染めなきゃ気が済まないってことじゃないの?明日古くなるもんだって、今日だけ新しく見えさえすれば、あんたそれが好き?」

満里子
「だって世の中がそうなんだもの」

節子
「それがいいことだと思ってんの?」

満里子
「だってしょうがないわよ。いいことかわるいことか。そうしなきゃ遅れちゃうんだもの。満里子みんなに遅れたくないのよ」

節子
「いいじゃないの、遅れたって」

満里子
「嫌なの。そこがお姉さんが私と違うとこなのよ。育った世の中が違うもの。私はこういうふうに育てられて来たの。悪いとは思ってないの」

「私行って、お父さんに相談して来る」

宗方忠親(父)
「そりゃ姉さんは姉さん、お前はお前さ。どっちがいいとかわるいことではないよ。まぁお前はお前のいいようにやるさ」

「ただ、間に長い戦争があったからね。まぁ段々に良くはなろうが。人がやるから自分もやるっていうんじゃつまらないね。よく考えて、自分がいいと思ったらやるんだよ。自分を大事にするんだね


日本人は常に新しいものを求めて来たからこそ、ここまで発展して来たわけであり、その恩恵を受けて私達はこの世に生きていられる側面もある。

しかし戦後の日本人が失ってしまったのは「自分で物事を考えたり、発見する」目線であると思う。「新しい」という価値観が常に自分以外の手に委ねられ、操作されているのだ。自分で発見したかのように感じている「新しい」価値観は、それが「新しい」ものだという社会や他者からの押し売りや、受け売りなのだ。そして「新しい」ものに飛びついているという安心感の傘の中にいれば、自分があたかも社会に参画しているという満足感と優越感に浸る事ができ、社会の一構成要素であることに存在意義を感じなければ、生き甲斐を見出せなくなってしまっているし、そう仕向けられている側面もあったりする。

古い価値観を通して、今の自分を見つめ直したり、その中にひと際輝いている普遍的な精神性や美しさを発見出来る目線こそが、今の若い世代には求められている。無論、小津映画もそうだろう。

節子の夫である三村亮助は横暴な夫ではあるし、その「古さ」の中には歪さや刺々しさしか伺えない。だからこそ、新しい価値観で生きる妹、満里子の「あんな男とは別れなさい」という助言を聞き入れるまでもなく、節子は夫と別れる決意をする。

しかし、映画の後半では、夫の「古さ」の中にある悲哀や不器用さが表出される。節子が別れる決意をして、かつての恋人である田代宏の元に相談に行ったところ、夫の三村が突然やって来て「仕事が見つかった」と言う。田代はこの場で三村に、節子と一緒になることを告げようと考えている。しかし、ひとまず三村の仕事が決まったことを祝おうと酒を頼もうとするが、三村自らが席を立ち「私が持って来る」と言って部屋を出てしまう。しかし酒を持って来たのは女中で、三村は帰ったと言う。三村はそのまま行きつけの酒場で泥酔するまで飲み明かす。

三村は、節子の田代への想いを分かった上で「自分は仕事を見つけたから安心して、自分の道を歩みなさい」というメッセージをその行動によって表しているのだ。そして祝いの酒は、自らの就職祝いではなく、節子と田代への餞(はなむけ)の杯でもあったのだ。「古さ」というものの中にはそうした精神性も込められているのだと思う。

三村は、泥酔したまま雨に打たれて帰宅をし、自室で心臓発作で亡くなってしまう。これでようやく心置きなく節子は田代と一緒になれるはずなのに、田代に別れを告げる。三村のそのメッセージがしっかり届いていたからだ。きっと仕事は見つかっていなかったのだろう、私の田代への気持ちを知って背中を押したのだろう、それならば・・・

節子が経営するバー「BAR ACACIA」の閉店を前に、満里子に三村が語るかける言葉は実はとても深い言葉だと思えた。そのバーに掲げられているのはドン・キホーテの台詞。

『I Drink Upon Occasion Sometimes Upon No Occasion - Don Quixote』
「私は理由があって飲む。時には何の理由もなくて飲む」


自分の中にある「古さ」そして「新しさ」について再考してみる機会が、この映画を観ることで持てるかもしれません。

また高峰秀子(満里子役)のキュートな演技も、この映画の魅力です。
若い人にほど小津映画をたくさん観て欲しいと切に願います。


こちらで全編観れます。

1950年・日本
小津安二郎監督
6

 

「クリクリのいた夏」  

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1930年代初頭のフランス。

マレ(沼地)の畔にはそれぞれの過去を背負った世捨て人達が豊かな自然に抱かれながら生活していた。

復員兵のガレは偶然に旅の途中に沼地にたどり着いたが、そこには病に伏せた老人がいた。老人は彼を心良く招き入れ、また彼は老人を看病する。しかし翌朝ガレが目を覚ますと老人は亡くなっていた。それ以来ガレもこの沼地の住人となるのだった。

住人の1人リトンは前妻に逃げられたことを今も嘆いていて、酒が入るといつも前妻への未練をとうとうと語るのだった。リトンは不器用で、おまけにおつむが弱くて厄介者。しかし気の優しい愉快な男。ガレはそんなリトンのよき理解者で親友になっていく。

2人は街に出てスズランのブーケを売ったり、夜中にお金持ちの邸宅の前で大声で歌を歌ったり(大方迷惑がってチップをくれるので、それが目当てなのだ!)、大雨が降った翌日にはカタツムリを捕りレストランに売り、ある日にはカエルを市場で売って日々の稼ぎを得ていた。その日暮らしの生活なのだけど、どこか優雅で自由で、ささやかだが幸せが満ちた日々。

リトンには息子が2人とクリクリという5歳になる娘がいる。この映画は老女となったクリクリ自身が過去を懐古する形で進行していく。

沼地の住人達は心が澄んでいて、出会った街の人々をいつも魅了する。
数々の出会いがそこにある。

ガレはリトンと共に夜の街に稼ぎに出掛けた時に出会ったメイドのマリーと出会い恋をする。

沼地の出身で一代で富を築き、今は悠々自適の生活を送っているペペはカエル取りの名人。だが家では息子との確執が深く唯一家族で心を通わせているのは孫だけだった。そんな荒んだ心を癒してくれたのは、沼地の住人達だった。クリクリはペペの孫であるピエロに恋をしてしまう。

街の住人でガレとリトンの唯一の仲間アメデはいつも仕立ての良いスーツを着ている金持ちだが一度も働いたことがなく、一族の資産で生活をしている。音楽と読書が趣味でいつも本の一節を2人に聞かせる。アメデは沼地で自由に何の束縛もなく美しい自然に抱かれた生活をしているガレとリトンに憧れを抱いていて尊敬している。そしていつも2人と行動を共にし、時にはご馳走を差し入れしたりもする。

アメデの紹介で、ある邸宅の庭仕事をすることになるガレとリトン。邸宅の住人である老女は夫に先立たれ豊かで優雅な生活を送ってはいるが孤独の身。庭仕事に訪れるガレとリトンを庭の片隅で見守り、いつも世話を焼いてくれる。

そしてもう1人の重要人物はジョー。ある日リトンはバーでいつものように酒を飲みながら前妻への思いをぶちまけていると、そこへこの日に街で試合をするボクシングのチャンピオン、ジョーが恋人を連れてバーに入って来る。泥酔していたリトンはジョーの恋人を前妻だと間違えて抱きついてしまう。それに気付いたジョーはリトンに殴り掛かるのだったが、その勢いでバーを破壊してしまい、警官に逮捕され刑務所行きになってしまう。ジョーはチャンピオンベルトを剥奪され、ボクシングライセンスも失ってしまい、獄中で出所後にリトンを殺す計画を立てるのだった。

そして、ついにジョーの出所の日、リトンはジョーの報復を恐れて身の危険を感じ、気が気じゃない。ジョーがある日、沼地にやって来て・・・

クリクリの目線を通じて、沼地に集う、不器用で、奇妙で、そして温かな人々の心の機微、コミュニケーションを描いて行く。人間にとって豊かさとは何か、幸せとは何かを観る者に切々と訴えかける。

僕が生涯で観た映画の中でもオールタイムベストの10本の指に入る名作中の名作だ。
貴方の心にもきっと何かを残してくれる映画だろう。



1999年・フランス
ジャン・ベッケル監督
原題:Les Enfants du marais



10

 

「星の旅人たち」  

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カリフォルニアに住む眼科医のトムの元に、1人息子のダニエルがピレネー山脈の山中で嵐に巻き込まれて死んだという知らせが入る。ダニエルは世界遺産であるサンティアゴ・デ・コンポステーラへ800kmの道のりを歩いて巡礼している最中だった。トムは息子の訃報を聞き、すぐさま現地へ駆け付ける。

トムは亡骸をそのままアメリカへ持ち帰るつもりだったが、現地で荼毘に付すことにする。それはある目的のため。

そう!ダニエルが果たせなかったサンティアゴ・デ・コンポステーラへの旅を続けるため。ダニエルの遺灰と共に800kmの巡礼の旅が始まるのだった。

息子の遺品のリュックに詰まった装備をそのまま背負い、そしてリュックのポケットにはダニエルの遺灰を忍ばせ、その道中で撒いた。

聖地巡礼の旅を決め歩き出した時、ダニエルの事故を担当した警官がトムにこう問う。

『なぜ"道"を歩く気に?』(警官)

『息子のためかな』(トム)

『"道"は自分のためのもの』(警官)

『どういうことです?』(トム)

『エイヴリーさん 私も息子を失った
 良い旅を 巡礼を楽しんで "2人"で』(警官)

トムは道中で三人の巡礼者と出会う。

オランダ人のヨストはダイエットのために。

カナダ人のサラはサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いた瞬間に禁煙をすると決めている。
(旅の途中でサラは結婚をしていたが夫のDVにより破綻してしまい娘を手放したこと、今もろくに母乳もあげられなかったことを悔やんでいると吐露する)

アイルランド人のジャックは作家としてスランプに陥っていて、この旅にその打開を賭けていた。

それぞれが苦悩や葛藤を抱えているのだ。

初めは息子を失った悲しみで心を頑に閉ざしているトムは、自分の目的を貫徹することだけを考えて、旅を共にする仲間へなかなか視線を向けようとせず、いつも苛立ち不機嫌で、巡礼の目的も頑として語ろうとはしなかった。

しかし巡礼の旅を重ねることによって、その喪失感を埋めてくれるのは彼らであることに気付き、心を許し、自分のことを語る様になって来る。

家族を失い、しかし、またそこに新たな家族がいることに気付く。擬似的な家族だが、そこには旅を共にすることでお互いを癒し合い、そして認め合う信頼感が生まれて来る。

そう、人生とは『巡礼』そのものだ。

最初からその目的がハッキリしている者もあれば、それが不明確な者もいる。
旅の途中で、それを見出す者もいる。

『巡礼』は自分を見出す旅。
長い道のりの中で歩むのをやめたり、誰かと争ったり、同行の仲間との別離を経験したり、バックパックを河に流されたり盗まれたりもする。

しかし誰かと争っても、別離を経験しても、互いに目指す聖地は同じ。夕暮れが近付いて今日の宿へ立ち寄る者もいれば、まだ歩けるからと先を急ぐ者もいる。辿り着く時期は同じではないが、またどこかで必ず会えるし、その中で誰かを許したり、謝ったりするチャンスもある。

バックパックを河に流されたり盗まれたら(大切に抱えているものを失ったら)またそれを拾い上げることも出来るし、誰かがそれを見つけ出して、新しい価値を付加して返してくれるかもしれない。

それに『巡礼』は禁欲的で厳粛で険しい道のりばかりではない。

『巡礼』とは本来、至福に満ちたものだ。

絶品の料理や酒もあれば、掛け替えのない出会いもある。

それに気付き、光を注ぐのも自分なら、それを見ようともしないでただひたすら歩こうとするのも自分だ。

旅のクライマックスには雄大な自然と荘厳なミサが迎えてくれる。
それぞれの道中を祝福する様に。

旅を終えると、それぞれが本来の自分の生活へと舞い戻って行く。

こんな想像をした。

『巡礼』が人生なら、サンティアゴ・デ・コンポステーラはゴール。
つまり『死』を意味する。
『死』とは『生』そのものでもあり、また『入口』でもある。

『死(生)』はあまりにも煌びやかで美しく、そして感動を与え、涙に打震えるものだ。
勿論それは、他の誰かにとってではなく、その道を確かに歩いた自分にとってだ。
(本作の終盤、サンティアゴ大聖堂での大香炉が堂内高く揺れる光景は圧巻だ)

そして舞い戻って行く日常の生活は

『死』の向こう側の世界に例えられるだろう。

そこが「本来」自分がいた場所なのだ。
『巡礼』を始める前にいた場所に帰るのだ。

そしてそこでは『巡礼』によって見出した自分の個性が生かされるのだ。

そう『巡礼』を終えていつもの自分の生活に戻った時に。

劇中で流れるアラニス・モリセットの「THANK U」にもこう歌われる。

『"死"と"立ち止まる"を同じに考えるのをやめてみたら?』と・・・

それならば、この『巡礼』を穏やかに、そして楽しみながら歩こうではないか。

そして誰かを許し、心を開けた時からが、本当の旅の始まりかもしれない。
その時期を決めるのも、また自分だ。

自分に降り注ぐ風を愛おしみながら、共に歩こう!

この映画を観ながら、自分の人生を『巡礼』に例えてみませんか?



2010年・アメリカ=スペイン合作
エミリオ・エステベス監督
原題・THE WAY

『星の旅人たち』挿入歌

THANK U / ALANIS MORISSETTE

抗生物質を処分してみたら?
満腹のときは食べるのをやめたら?
透き通るほど薄いニンジンを吊るしたら?
分かりにくい賛辞ってどうなのかしら?

ありがとう インド
ありがとう 恐怖よ
ありがとう 幻滅よ
ありがとう 弱さよ
ありがとう 結果よ
ありがとう ありがとう 沈黙よ

あなたのすべてを受け入れる私はどうなの?
一度だけその一瞬を楽しむ私は?
最後に貴方を許し気分よくなる私は?
一度にすべてを悲しむのはどう?

ありがとう インド
ありがとう 恐怖よ
ありがとう 幻滅よ
ありがとう 弱さよ
ありがとう 結果よ
ありがとう ありがとう 沈黙よ

何かを手放したと思ったのに
手に負えないほど手に入った
何かから飛び降りた瞬間
私は着地してた

自虐的な態度をやめてみたら?
自分の神々しさを思い出してみたら?
ものおじせず思いきり泣きわめいてみたら?
"死"と"立ち止まる"を同じに考えるのをやめてみたら?


ありがとう インド
ありがとう 恐怖よ
ありがとう 幻滅よ
ありがとう 弱さよ
ありがとう 結果よ
ありがとう ありがとう 沈黙よ



5

 

「長屋紳士録」  

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終戦後の焼け野原には、親を亡くしたり、はぐれたりした浮浪児達が3万5千人以上はいたといわれ、東京・上野駅の地下道にはそんな浮浪児(戦争孤児)達が集団で暮らしていた。

この物語も浮浪児と心を通わせる市井の人々の心の機微を描いたものだ。

ある日、人相見を生業にしている笠智衆演じる田代が、父親とはぐれた少年を連れ帰る。
父親と茅ヶ崎から出て来たのだが、九段の鳥居の側ではぐれてしまい途方に暮れている少年を見付けると、そのまま付いて来たという。

連れ帰ったはいいが、同居人の為吉に一晩泊めてやってくれと頼むが為吉はそれを頑に拒む。
仕方なく長屋暮らしの気心知れた隣近所に、少年を一晩泊めてやって欲しいと懇願するものの、皆迷惑がって、人に押し付けようとする。

何とか、長屋で雑貨屋を営む飯田蝶子演じるおたねが、少年を否々ながら預かることになる。
一晩泊めた翌朝、少年はおねしょをしてしまい、おたねから叱られる。
おねしょをした布団を破れたうちわで、早く乾く様にとおたねが少年に扇がせる様子が滑稽だが、その向こうに少年の父親とはぐれたことによる不安と寂しさといたたまれなさが感じ取れるシーンだ。

そんな少年を持て余した、おたねは少年を茅ヶ崎まで連れて行って父親探しを始めるが見つからない。
困り果てたおたねは、そのまま少年を茅ヶ崎に置き去りにしようとするが、少年はおたねに付いて来てしまう。
またもや、おたねは仕方なく少年を泊めることになる。

翌日、少年は外に出てポケットいっぱいにタバコの吸い殻や、釘を拾い集めて来る。
おたねが、何故こんな汚いものを集めて来るのかと子供に問うと、それはお父さんにあげるためだという。
お父さんは大工なのだ。
お父さんが仕事に使える様にと釘を拾い集め
お父さんが喜ぶだろうとタバコの吸い殻を拾い集める。
この作品の公開当時のピース10本入りの価格は30円。
庶民に愛されたゴールデンバットは11円。
都市近郊の労働者の平均月収が1万円前後だったことを思えば
少年の家庭の窮状というものが想像出来るだろう。
そしてその健気さに胸が熱くなる思いだ。

子供を押し付けられ、迷惑千万と、叱り飛ばす日々だったが、次第に少年に情が湧いて来る。
おたねは亡くした我が子の面影を少年に重ねるのだった。

おたねの表情の変化が物語の進行と共に、穏やかで温かいものに変化をして来るに従って、こちらの胸もギュッと締め付けられる。

物語の終盤では、おたねが友人に「この子を好きになっているんじゃない?」と問われて、自問自答するシーンはとても印象的だ。

そしてついに、自分の子供として育てて行くことを決意する。
少年のために新しい洋服や帽子や教科書を買い、上野動物園に連れて行き、写真館で一緒に写真を撮る時のおたねの幸福に満ちた表情は、それまでの苦労の絶えなかったであろう彼女の人生に訪れた一筋の光明であったことが伺える素晴らしいものだ。

今までの人生にはなかったものが、今自分の目の前にある。
しかし、そんな矢先に少年の父親が訪ねて来る。

父親と共に帰って行く少年、その親子の背中を見送った後におたねは顔を手で覆って号泣する。

そこに訪ねて来た為吉と田代。
為吉『何も泣くことねぇじゃねぇか、お前さん、あの子はじめから好きじゃなかったんじゃねぇか』

おたね『わたしゃ悲しんで泣いてんじゃないんだよ。あの子がどんなに嬉しかろうと思ってさ。やっぱりあの子ははぐれたんだよ。さぞ、不人情なおとっつぁんだと思ってたら、どうしてとってもいいおとっつぁんで随分あの子を探してたんだよ。それが会えてさ。これから親子が一緒に仲良く暮らせると思ったら、どんなに嬉しかろうと思って』

我が子を亡くした、おたねだからこそ、親子は一緒にいなければならないのだ、共に暮らしていなければならないのだと人生で味わって来た歩みの中で痛感しているからこその、言葉であり、その言葉の裏にはやはり、喪失感も漂っているような気がしてならない。

最後のおたねさんの台詞が素晴らしい。

そしてまさに今私達にも問われていることではないかと思う。
終戦のまだ瓦礫の散乱する焼け野原の中で、人々はこのようなことに既に気付こうとしているのに、今の私達は何をしているのかとハッとさせられる。

『親子っていいもんだね。
 嬉しかったよ、私。
 こんなことなら私もうんと
 可愛がっといてやりゃ良かったと思ってね。
 可哀想に何にも知らない子供を邪険にこずきまわしてさ。
 考えてみりゃ、私達の気持ちだって随分昔とは違ってるよ。
 自分1人さえ良けりゃいいじゃ済まないよ。
 早い話が電車に乗るんだって、人を押しのけたりさ。
 人様はどうでも、てめぇだけは腹一杯食おうって了見だろ。
 いじいじして、のんびりしていないのは私達だったよ』

『そう言われれば、確かにそうだったな。
 そうだったよ。耳が痛いよ』(為吉)

子供という無垢な存在を通して、我が身を振り返り、自分を俯瞰で眺めることが出来るのだ。

長屋という場所の持つ味わいと人情、そして時代背景が持つ、敗戦のショックからの荒んだ街と人の心。それらが対比されてこそ、浮き彫りになって来る人間にとって大切な人を思う情、人の心を想像すること。そして人を理解しようと思える心の在り方。

この映画は現代の私達にも大切なメッセージを投げ掛けている。


*全編観れます。

1947年・小津安二郎監督
4

 

「パーフェクト・センス」  

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この映画はパニック映画という体裁を借りた深い人間ドラマであり、示唆に溢れた哲学的な映画でもある。人間とは何なのか、人間はどこに向かい、何を求めているのか、人間という実存への果てしなき問い掛け。

「SOS」と名付けられた原因不明の感染症が世界的に猛威を振るい始める。

突然の悲しみに襲われ泣きわめいたかと思えば次の瞬間には嗅覚を失う。そして次第に味覚、聴覚と五感を失って行き、瞬く間に世界は混乱し、人類存亡の危機を迎えるのだった。

感染症を研究する科学者スーザンとシェフのマイケルは、そんな混乱の最中に出会い惹かれ合って行く。

ストーリーの詳細に関しては物語の性質上この辺りで留めておきたい。

「SOS」と名付けられる未知の感染症の正式名称は「重症嗅覚障害症候群」。
しかしこの映画でその「SOS」の正体に関して追求されるような筋書きは一切ない。
そこがこの映画の重要なテーマ、そして核心を物語っている。

病は打ち拉がれる堪え難い悲しみ、喪失感、後悔に根ざした慟哭から始まる。
涙が涸れた時には、もう既に嗅覚を失っている。

そして聴覚を失う前には、とてつもない怒りが自分を支配する。

それでも混乱に陥りながらも日常を取り戻そうとする人間の強さ、逞しさ。

遂に最後に残された視覚を失う直前に現れるのが、多幸感だ。

この順番にも非常に大きな意味が込められているのを感じる。

常に疑わずとも自分の手中に、傍らにあるものだと思い込んでいたものを失った時の喪失感は、とてつもなく心にトラウマティックな傷を残す。

そして人は、自分を責めたり、人を責めたり、人生という自分の本質に関わる部分に禍根を残したまま日々を凌いで行く。

しかし、それらを経験したことによってしか味わえない深い「愛」深い「幸福」を知ることが出来る。「愛」や「幸福」は掴み取るものではなくて、常に傍らにあって「感じる」ものだということ。

それを感じ得る為の媒介こそが、何かを失ったり、怒ったりという自分の紛れもない歴史であり物語。


何かを失ってこそ、人は人としての原初の魂に返れるのかもしれない。

何かを手放してこそ、人は生きていることへの感謝の念が沸き上がるのかもしれない。

世の中から何かが失われ、姿を消したとしても、それでも人は生き続ける。

人はそれでも生きて行く。

人は常に自分に「付け足して」いこうとする生き物だ。

そしてその「付け足された」重みに堪え兼ねて歩を進めることを諦めもする。

そして「付け足す」ことで傷付いたら人を恨み、怒りを露にする。

「付け足す」ことで自分も人も傷付けていることに気付こうともしない。

きっと人は「引き算」をしてこそ、自分の本来の姿に気付き、その輝きを享受出来るのかもしれない。

何かを失って嘆くことはない。

何かを失うことによって、貴方は本来の自分へと次第に返っているのだから。

何かを失うからこそ、与えたいと思え、許したいと思える。

何かを手放すからこそ、寄り添い、抱き締め、愛することが出来るのだから。

Life Goes On...



2011年・イギリス
デヴィッド・マッケンジー監督
原題:Perfect Sense
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