「イン・トゥ・ザ・ワイルド」  

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主人公アレックスが家族もなく友人もいない孤独で心に傷を持つ老人フランツへ宛てた手紙の抜粋。自分の殻に閉じこもっていて、なかなか新しい人生へ踏み出せないでいる貴方に送ります。自分宛てに書かれた手紙だと思って読んでみましょう。(この映画は実話を元にしており、以下の手紙は実際にアレックスがフランツへ送った手紙をクラカワー著「荒野へ」から引用しています)

『あなたには、もう一度以前と同じアドバイスをさせてください。貴方は思いきってライフスタイルを変え、これまで考えてみなかったこと、あるいはなかなか踏んぎりがつかずに躊躇していたことを大胆に始めるべきだと思っているからです。多くの人々は恵まれない環境で暮らし、いまだにその状況を自ら率先して変えようとはしていません。彼らは安全で、画一的で、保守的な生活に慣らされているからです。それは唯一無二の心の安らぎであるかのように見えるかもしれませんが、生きる気力の中心にあるのは冒険への情熱です。生きる喜びはあらたな体験との出会いから生まれます。したがって、たえず変化してやまない水平線をわが物にしているほど大きな喜びはありません。毎日、あたらしいべつの太陽を自分のものにできるのです。人生からもっと多くのもの得たければ、ロン、単調な安全を求めるのはやめて、最初は常軌を逸しているようないい加減な生き方をしなければならないのです。でも、そうした生き方に慣れてくれば、その真の意味とすばらしい美しさがわかるでしょう。しかし、ぼくのアドバイスなど聞いてはもらえないでしょう。ぼくのことを頑固だと思っているようですが、あなたの方が頑固者です。車での帰途、あなたはグランドキャニオンという最高の景色のひとつを眺めるすばらしいチャンスに恵まれました。アメリカ人なら一生に一度は見ておくべき景色です。だが、ぼくにはわからないなんらかの理由で、あなたは家にまっすぐ帰ることばかり考えていました。くる日もくる日も、目にしている同じ場所へいっさんに。これからも、こういう生き方をつづけて、そのために神が僕たちに発見させようとして周囲に配置してくれたすばらしいものを、あなたはなにひとつ発見できないのではないかと思います。定住したり、一か所に腰を落ちつかけたりしてはなりません。あちこち動きまわり、放浪し、毎日毎日、水平線をあらたなものにしていくのです。人生の残り時間はまだまだたっぷりあります。ロン、この機会に生活を根本から変えて、まったくべつの体験領域に入ってくれればいいのですが。
 楽しみをもたらしてくれるのは人間関係だけであるとか、人間関係を中心にそれを期待しているとすれば、それはまちがいです。神は楽しみをぼくたちの周囲のあらゆるところに配してくれています。ありとあらゆること、なんにでも、僕たちは楽しみを見出せるのです。習慣的なライフスタイルに逆らって、型にはまらない生き方をするには勇気が必要です。
 要するに、あなたの生活にこの種のあたらしい光りを灯してくれるのは、ぼくでもほかの誰かでもないということです。あなたはただそこにじっと待っていて、それを掴もうとしているだけなのです。なすべきことはただひとつ、自分でそれを掴みにいくことです。あなたが闘っている相手はまさに自分自身であり、あたらしい環境に入ろうとしない頑固さです。物を見たり、人と会ったりするのです。学ぶことはいっぱいあります。ためらったり、あるいは、自分に言い訳するのを許さないでください。ただ、飛び出して、実行するだけでよいのです。飛び出して、実行するだけで。そうすれば、ほんとうによかったと心から思えるでしょう。
                   ご自愛ください、アレックス   』
39

 

「聖者の眠る街」  

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心に染み入る美しい映画。

自称写真家のマシューは住んでいたジェファーソンアームズ・ホテルを追い出される。行き場のないマシューはホームレスになってしまう。マシューは幻聴に悩まされ17歳から20歳までの間、精神分裂症(統合失調症)で入院していた過去を持つ。

ホームレスのための簡易宿泊所であるフォート・ワシントンへ向かうバスを待っている時にマシューはホームレスの黒人ジェリーと出会う。マシューはカメラでジェリーを撮ろうとして咎められてしまうが、そのカメラにフィルムが入っていないことを知ってジェリーは困惑する。

宿泊所フォート・ワシントンは乱暴者の巣窟。寝ている間に身ぐるみを剥がされることもしばしば。ジェリーは新参者のマシューに宿泊所で無事に朝を迎える為の心構えを教える。

翌日、フォート・ワシントンを牛耳る屈強な黒人リーロイにマシューはからまれてしまうが、ジェリーは「こいつは俺の息子だ」と言って助ける。

自分の身の上を語ろうとしなかったマシューに「誰にでも物語はある」と自分の身の上話を話して聞かせるジェリーに次第に心を許していく。

人の声が聞こえ、分裂症の診断をされ入院していたことをジェリーに打ち明けるマシュー。ジェリーはマシューにこう語りかけるのだった。

『声が聞こえて何が悪い?
 ジャンヌも声を聞いた。
 ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いた。
 モーゼも。
 声を聞いた。
 神の声を。
 だからこの世にキリスト教が生まれた。
 モーゼは山を下り、民衆に神の声を告げた。
 "なんじ殺すなかれ"
 "姦淫するなかれ"
 もし民衆がモーゼを変人扱いして
 鎮静剤をしこたま飲ませたら
 俺たちは今でも異教徒だったろう。
 小羊や人間の犠牲(いけにえ)を捧げてたはずだ。
 俺もお前も人身御供だ。
 お前は分裂症じゃない。
 きっと"聖人"なのさ』
 

この言葉にマシューは、勇気付けられ生きる希望を見出すのだった。

やがてジェリーの勧めで共にラッシュアワーで信号待ちをしている車の窓拭きをして毎日の糧を稼ぐ様になる。最初の儲けは16ドル50セント。そんな時ジェリーはマシューに車の窓拭きで稼いでアパートを借りて一緒に住み、友人から車を借りて商売をしようと提案する。

仕事が終わってバーでその日稼いだ金を数えるシーンがある。ジェリーに今日いくら稼いだか数えてみろと言われたマシューだが「数え方を忘れた」「聞こえて来る声が邪魔して数えられない」と告げる。するとジェリーは「俺がそいつが来ないように見張っててやるから数えろ、きっと数えられる」と言うと席を立ち上がってバーの店内を見渡す。このシーンはジェリーがマシューの分裂症をしっかりと理解しようとし、相手の懐に入りながらも自立心を芽生えさせようとする姿勢が現れている印象的なシーンだ。

リーロイとのトラブルによってフォート・ワシントンに戻れなくなった二人は、ジェリーがかつて商売で使っていた廃車になったワゴン車に寝泊まりをするようになったが、このワゴン車も奪われてしまう。公園のベンチで寝ていたが車の窓拭きの仲間ロザリオの住む廃屋に泊まることになる。そこで起こる奇跡。マシューが"ホームレスの守護聖人"となるのだ。

物語の続きは映画を観て頂きたい。

夢や希望は叶うことだけが全てではないし、むしろその本質は叶うことにはない。夢や希望がないと嘆いたり、自分に幸せはこないと落胆する前に「今」をどう生きるか、どう純粋に、どう人に優しくあれるかを考えよう。

マシューだって、ジェリーだって、境遇がホームレスだからといって、自分の中にある善意や気高さは失っていない。傷つきながらも懸命に、自分らしく今を生きようとしているからこそ、自分を肯定してくれるパートナーに巡り会えるのだし、自分も相手のためになってあげられるのだ。今辛い状況にあったとしても、貴方の経験は自分のためばかりか、誰かのために有効に使えるのだ。

貴方だって"聖人"なのです。
貴方の"物語"だって美しく光り輝いている。

私自身ホームレスを経験し、母親が分裂症(統合失調症)であったことから、とても心揺さぶられる映画だった。



1993年・アメリカ
ティム・ハンター監督
原題:The Saint of Fort Washington
4

 

「ヤング・ゼネレーション」  

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この映画は台詞を抜き出す必要はない。

映画全体にほとばしるエネルギーを感じ取って欲しい。
きっと何かに打ち込みたくなるはずだ。

今の自分の境遇に不満を持ち、くさっていたり、歯痒い思いをしているなら、この映画の主人公達に心を寄せられるはずだ。そして彼らを自分の仲間や、理解者や戦友のように思えるだろう。映画を観終わる時、きっと新しい人生に踏み出す勇気、果敢に挑みかかる精神を彼らに教わって前を見て歩けるだろう。

インディアナ州のブルーミントンに住む主人公のデイヴは自転車が趣味。いつもマイク、シリル、ムーチャーと4人でつるんでいる。4人は高校を出たものの職にも就かず、大学にも進学出来ず、時間を持て余し、集まっては溜まり場になっている石切り場の跡にある池で泳いだり、話したりしていた。

ブルーミントンにある大学は全米の各地から裕福な家庭の生徒達が集まっていて、4人のリーダー格であるマイクは特に大学の生徒達を気に入らず反目し合っていた。マイクとシリル、ムーチャーの父親は石切り場で働く労働者。デイヴの父も元は同じ石切り場で働いていて今は中古車屋を営んでいる。就職も出来ず、大学に通う経済的な余裕もない現実に劣等感を抱き、大学の生徒達に対抗意識を剥き出しにするマイク。

デイヴはそんなマイクをよそに、趣味である自転車に打ち込み、そして大学の女子生徒キャサリンに恋をしてしまう。

ある夜デイブはダニエルを伴って、キャサリンが寄宿している大学の寮へ行き、窓の下でイタリア語でセレナーデ(女性を称える歌のこと)を唄い、キャサリンに強い印象を与えることに成功する。しかしこの一件がキッカケで大学のクラブの食堂でマイク、ダニエル、ムーチャーの3人と男子生徒達が乱闘騒ぎを起こしてしまう。これを知った大学側は地元のブルーミントンで開かれる恒例の「ブルーミントンミニ500レース」にお互いがチームとして出場して競うように勧める。

大学生達から「原住民(カッターズ)」と罵られていたデイヴ、マイク、ダニエル、ムーチャーの4人がそれぞれの挫折感を胸に団結して立ち上がる!

そして感動のラストへ。

1980年第52回アカデミー賞脚本賞受賞、アメリカ映画協会選出「感動の映画ベスト100」8位の傑作。



1979年・アメリカ
ピーター・イェーツ監督
原題:Breaking Away
4

 

「ハロルドとモード / 少年は虹を渡る」  

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アメリカン・ニューシネマの歴史的傑作にしてカルト的人気を誇る作品。

裕福な家庭で育った19歳のハロルドは母親からの愛を十分に感じられず、母親を振り向かせる為に自殺を演じることを趣味にしていた。

かつて寄宿学校の化学実験で誤って爆発を起こし死にそうな目に遭うが、その場からこっそり家へ逃げ帰った。警察が後から家に訪ねて来て母親に「ハロルドが死んだ」と告げた。その報せを聞いて母親は"右手をおでこにあて、左手を助けを求める様に伸ばし"警官の腕の中に崩れ落ちた。その様子が唯一母親からの愛を実感出来た瞬間だった。それ以来「死」に魅せられてしまうのだ。

ハロルドは母親からせっかくプレゼントされた車まで霊柩車に改造してしまい、その車に乗って他人の葬儀に参列するのが日課になっていた。

一方のモードは79歳。彼女もまた他人の葬儀に参列することを趣味にしていた。ハロルドとモードはある日の葬儀で運命の出会いを果たすのだった。

モードは街路樹が車の排気ガスで死にかけているからと白バイを盗んで山に植え替えに行くといった奔放で常識外れの行動を繰り返すが、モラルに縛られず自由に生きるモードに惹かれて行く。

映画が作られた70年代初頭に蔓延るベトナム戦争や冷戦構造の中での社会全体の焦燥感と相まって「如何に生きるか」ということへの迷いと、愛を実感出来ずにいる苛立ちをハロルドという青年を通して描き出している。その対極でいつも自由に人生を謳歌しようとする79歳の老女との結び付き、芽生える愛情が救いをもたらしている。

「人生から逃げ腰になってるだけ、当たって砕けなさい。時には傷つくことも。でも、思いっきりやるのよ。懸命に生きるの! LIVE(生きがい)を求めて!でなきゃ、面白みのない人間になる」

ハロルドへ、そう言い聞かせるモードの言葉が胸に染みる。

とても印象に残ったシーンがある。
夜の遊園地でデートをするハロルドとモード。ハロルドがモードへ贈り物を渡す。贈り物に喜ぶモードだったが、モードはその贈り物を海へ投げ捨てる。

「これで、どこにあるのか忘れない」

この言葉はとても深い。人は執着心を持つからこそ物事の本質や、真の美しさから離れて、最終的には自分が雁字搦めになって傷ついて行く。執着から離れたところに本当の愛があり、その手触りを、ありありと感じられるのだ。

生き方に迷っている人。愛を感じられずにいる人に是非観て欲しい。
そして観た後には自由に羽ばたいて欲しい。

3

 

「パレルモ・シューティング」  

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世界的な名声を手中にして活躍する写真家のフィン。彼は写真をデジタル処理することによって新たな現実を創出していた。しかし、日々仕事に追われる彼は疲れ果て、いつも「死」の夢を見ていた。そんな時、撮影で訪れたパレルモの街にすっかり魅せられた彼は撮影後も滞在することに決める。

パレルモでの休日を満喫していた彼だが、矢で彼を射ろうとする謎の男に追われるのだった・・・

フィンはパレルモの街で羊の番をする男にこう言われる。

『母親に最後に会ったのは?
 最後の散髪はいつ?
 何事にも最後はあるが、人は気付かない
 いつも これが最後だと思うことだ
 最後の羊の番 最後に目にする他人 君の涙を見るのも最後
 すべてを正面から受け止めるんだ』

今日目にするものが人生で最後だと思えば、その対象に優しくなれるし、その時間を愛おしめる。自分の目の前に広がる世界をしっかりと受け止めることの大切さを教えてくれる言葉だ。

フィンはやがて謎の男と対峙する。その男の正体とは「死神」そして「死」そのものだ。

「死神」はフィンにこう語りかける。

『フィン 君は人生を敬っていない

『別に写真に恨みはない。
 見事な発明だと思う。
 私の仕事に役立つ。
 "死の発現"写真とは本来そういうものじゃないか。
 "生"の捕捉だ。"ネガ"というものは人生 そして光りの反対面だ』

『今のカメラは違う デジタルの時代だ』とフィン。

『それが問題なのだ。
 私なしには生は理解出来ない』

『うんざりだ 悪人を演じるのはつらい。
 私は優しいのに。
 皆 私を残虐だと思う。
 私は始まりだ。
 行き止まりなんかじゃない。
 唯一の出口なのだ。

 なぜ これほど 私を誤解する。
 誕生の手助けは感謝される。
 だが私も同じなのに忌み嫌われる』

『俺に何が出来る?』(フィン)

『今何と?』

『あんたを助けたい』(フィン)

『そんな言葉を!
 初めて聞いたよ。君にやってほしいことは・・・』

『何だい?』(フィン)

『恐怖をすべてなくすこと。
 つまり・・・わかるかな?
 私を敬え』

『どうやって?』フィン

私の本当の姿を示すのだ。
 私は彼らの内側にいる。
 私自身の顔は己自身の顔。
 醜い死神は人々の思い込みだ


つまり、死というものへの価値観とは、私達の生への取り組み、考え方、心の在り様とイコールであるということだ。

私は常々こう考えている。

日本人は「死を忌む」文化を持っている。

死を忌まわしいものとして捉え、仏教のほとんどの宗派では通夜や葬儀の帰りには塩を撒いて穢れを祓う。『死』という穢れを家の中に持ち込まないためだ。

まるで『死』というものを擬人化し、自分自身と切り離そうとしている。『死』とは自分自身であるにも関わらずだ。

死は徹底的に秘匿され、垣間見てはならないものとされてもいる。

死と面と向かうのは近親者やペットの今際の際(いまわのきわ)か、映画やドラマのフィクションの世界だけ。死と分離した、いや隔絶された世の中だ。事件や事故、災害のニュース映像でも倫理という見えないルールによって死は隠されている。しかし厳然と死は存在し、むしろ私達そのものが死を内包して存在しているのだ。

この映画で死神も言う様に、赤子の誕生は祝福を受けるが、『死』はおぞましいもの、汚いもの、哀れなもの、無、恐ろしいものという連想によって我々には容易くは受け入れる事が出来ないし、直視することも憚れるものとして取り扱われる。

こうした『死』を忌む文化は、『生』の弱体化を加速させる。

この世が辛ければ「死」を選択する10代の若者達もいる。
ゲームのリセット感覚で、まるでワープツールのように「死」を選択したりもする。

小学生や中学生の時代から、日本人は確固たる「死生観」を育み『死』と『生』が一体のものであること、「如何に死ぬかということを考えることは、如何に生きるかを考えることである」ということを教えて行かなければならない。

今の日本人の心の闇には、この「死生観の欠落」がハッキリと影を落としている気がしてならないのだ。

戦中、戦後すぐには図らずも『死』というものが今よりも身近にあった。昭和の古き良き時代は、それらがやもすればストッパーとなっていた部分もあるのだろうか。現代は個と個が分離し、自分の目先のことしか考えられない侘しい世の中だ。人を平気で愚弄したり貶めたりもする。人の心を想像出来ない社会になってしまった。

つまり『今』という時間軸をどう捉えるかという感受性をことごとく喪失させてしまっていて、それはすなわち『死生観』とも直結してくる問題なのだ。

この「パレルモ・シューティング」でデニス・ホッパー演じる死神フランクがフィンに語りかける様に『死』とは私達の顔だ。つまり如何に生きているかの姿勢を示しているからだ。

今日、貴方が出会う人々、景色、風、匂い、それらが人生最後のものだと思って、毎日を生きてみよう。きっと全てが自分を祝福してくれているかのように感じるだろう。そして『死』とは忌むべきものではなく、抱き締めるものなのだということを心の片隅において生きてみよう!

最後に・・・

フィンは死神との対峙を果たして目を覚ます。

『どのくらい時が経った?
 数日?1〜2週間?永遠のようだ。
 そして長い時を経て ようやく"今"がある。
 この瞬間は続いてゆくだろう。
 知るために。
 だから君も・・・』

 『あなたも・・・』(フラヴィア)



2008年・ドイツ=イタリア=フランス
ヴィム・ベンダース監督
6

 

「マルタのやさしい刺繍」  

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スイスのエメンタールという山深い村に住む80歳のマルタは、9ヶ月前に夫に先立たれてからというもの生きる気力を失っていた。

そんなある日、エメンタールで開かれる合唱祭で使用する旗の補修を引き受けることになる。マルタは若い頃にパリのシャンゼリゼに手刺繍のランジェリーショップを開くことを夢見ていたのを思い出し、自分の中に眠らせていた夢と創作意欲に駆り立てられ、友人のリジーの助けを借りて村にランジェリーショップを開店させるのだった。

しかし、保守的な村であるエメンタールの住民達は村に突然開店したランジェリーショップに拒否反応を示し、マルタに何とか店をやめさせようと迫るのだった。

友人のリジーは「渡米したことがある」が口癖で、いつも明るく大らかな性格。しかし1人娘の誕生に関わる問題で葛藤を抱えている。

フリーダは介護施設に入所しているが、施設での交友関係はほとんどなく自分の殻に閉じこもっている。

身体が悪く、往復3時間の場所にある施設に通う夫と二人暮らしのハンニはいつも息子の運転する車に同乗して施設に夫を送り届けるが、息子には「僕は送迎係じゃない。つまらんことに時間を取られたくない」と言われる。

マルタの大切な友人は、何かしらの問題を抱えているが故に、マルタの新しいことにチャレンジするひたむきで、純粋な姿に心打たれ、影響を受けて行く。

フリーダは介護施設にあるパソコン教室でインターネットの使い方を学び、マルタの作ったランジェリーをネット販売しようとする。そして周囲にも心を開き恋もする。

ハンニは息子に頼らず自分で夫を施設に送り届けるために運転免許の取得を目指す。

保守的な小さな村で批判や妨害を受けながらも、自分を駆り立てた夢を信じて歩みを止めようとしない老女達が奇蹟を起こす。

誤解や偏見、古めかしい習慣に屈服するのではなく、自分の心の赴くままに「今」という時間を謳歌することの尊さと素晴らしさ。

自分に言い訳ばかりをして、躊躇したり、歩み出せない貴方。何かを諦めて過去に生きてしまっている貴方。新しい一歩を踏み出してみませんか?この映画を観て心を揺さぶってみましょう。

『夢みるパワーとは、あきらめない心』



2006年・スイス
ベティナ・オベルリ監督
5

 

「チェルノブイリ・ハート」  

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『生きることについて』



生きることは笑い事ではない
あなたは大真面目に生きなくてはならない
たとえば生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはならない

生きることは笑い事ではない
あなたはそれを大真面目にとらえなくてはならない

大真面目とは
生きることがいちばんリアルで美しいとわかっているくせに
他人のために死ねるくらいの深い真面目さのことだ

真面目に生きるとはこういうことだ

たとえば 人は70歳になってもオリーブの苗を植える
しかもそれは子どもたちのためでもない
つまりは 死を恐れようが信じまいが
生きることが重大だからだ



この地球はやがて冷たくなる
星々の中のひとつでしかも最も小さい星 地球
青いビロードの上に光り輝く一粒の塵
それがつまり
我らの偉大なる星 地球だ

この地球はやがて冷たくなる

星々の中でひとつでしかも最も小さい星 地球
青いビロードの上に光り輝く一粒の塵
それがつまり
我らの偉大なる星 地球だ

この地球はやがて冷たくなる
氷塊のようにではなく
ましてや死んだ雲のようにでもなく
クルミの殻のようにころころと転がるだろう
漆黒の宇宙空間へ

そのことをいま 嘆かなくてはならない
その悲しみをいま 感じなくてはならない
あなたが「自分は生きた」というつもりなら
このくらい世界は愛されなくてはならない

  ナジム・ヒクメット


8

 

「光りのほうへ」  

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明るい方へ
明るい方へ。

一つの葉でも
陽(ひ)の洩(も)るとこへ。

やぶかげの草は。

明るい方へ
明るい方へ。

はねはこげよと
灯(ひ)のあるとこへ。

夜とぶ虫は。

明るい方へ
明るい方へ。

一分もひろく
日のさすとこへ。

都会(まち)に住む子らは。

金子みすゞ


コペンハーゲンの片田舎に住むニックと弟は酒浸りの毎日を送る母親の代わりに生まれたばかりのまだ小さな赤ん坊の弟の世話を甲斐甲斐しく焼く。しかし兄弟は夜な夜な酒を求める母親によって暴力を受けていた。そこにあるのは暴力と貧困、そして母親の愛を受けることのなく寄り沿い育った兄弟が汚れを知らずにこの世に生を受けたまだ赤ん坊の弟に自らの生きる希望を重ねる姿だった。

しかし突然赤ん坊の弟は亡くなってしまう。成長した兄弟は離ればなれになってしまっていたが母親の葬儀の席で再会する。兄のニックは交際していた彼女に振られた腹いせに人を殴って刑務所に服役していたが出所したばかりで簡易宿泊所暮らし。弟は妻を不慮の事故で亡くし失意の果てに幼い息子を育てながらも、麻薬に溺れた生活を送っている。

描かれるのは直視するのも痛々しいくらいの過酷な兄弟それぞれの生活。タイトロープを渡る様な絶望と苦悩の日々。これは紛れもなく悲劇である。しかし人はどんなに過酷で押し潰されそうな日々を送っていたとしても、明るいほうへ、明るいほうへと、いずれは歩み始める生き物なのだ。映画のラストシーンで、その光りの在り処が示される。最後の最後で、幼き頃の兄弟に一時の希望を見出させた赤ん坊の弟と、ニックの弟の溺愛する一人息子との結び付きが、この映画に目映いばかりの「光り」を救いとしてもたらしてくれる。誰しもに訪れるであろう「光り」の存在を見失ってはならないのだ。どんなに今が辛くあろうとも。強烈に心を揺さぶる名作。

2010年・デンマーク
トマス・ヴィンターベア監督

13

 

「エターナル・サンシャイン」  

幸せは無垢な心に宿る 

忘却は許すこと 

太陽の光りに導かれて

陰りなき祈りは運命を動かす

<アレキサンダー・ポープ>

恋人、夫婦、親子、友人、同僚、周囲の人達との関係に疲れ、愚痴や憤りや不満で疲れ果ててしまった時にこそ観てみましょう。

貴方という存在が、誰かの記憶の中にあるという事実。それこそが奇跡でかけがえのないもの。その奇跡に気付き、愛おしめた時に人生は輝きを放つ。

8

 

「未来を生きる君たちへ」  

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アントンはデンマークに住む医師でアフリカの過酷な紛争地域でキャンプに批難している住民達への医療活動を行っている。毎日紛争の犠牲になった罪のない人々の治療にあたりながらも、この暗澹たる現実を憂いていた。デンマークには残して来た妻と息子がいる。妻マリアンとはかつての浮気が原因で離婚寸前、現在は別居中、息子エリアスは学校で執拗なイジメにあっていた。

クリスチャンは母親を癌で亡くし、住んでいたロンドンから祖母の住むデンマークへと父親と共に移り住む。クリスチャンは転校生としてアントンの息子であるエリアスの通う学校へと登校する。するとクリスチャンはエリアスがいじめられているのを目撃する。放課後にクリスチャンと一緒にいたエリアスはいじめっ子のソフスに絡まれ、クリスチャンもその巻き添えになってしまう。

翌日、クリスチャンはソフスに報復。エリアスに二度と手を出すなとナイフを持って警告する。しかしソフスが怪我をした為に事態は表沙汰となりクリスチャンの父親クラウスは呼び出される。しかしこの一件を機にクリスチャンとエリアスは大の親友となっていく。

ある日帰国したアントンは息子エリアスとその弟、そしてクリスチャンを連れて遊びに出掛けるが、その帰りにエリアスの弟が公園で喧嘩をしていた。アントンは息子と相手の子供を引き離すが、相手の子供の屈強な親がアントンを殴ってしまう。この光景に動揺したクリスチャンとエリアスはアントンに何故殴り返さないか、警察に連絡しないかと必死に問うた。クリスチャンとエリアスは殴った相手の車から名前と住所を突き止めて殴りに行く様に説得する。これに応じたアントンは二人を連れて相手の働く場所に行くが、相手を殴らず逆に殴らせてしまう。これに失望したクリスチャンとエリアスにアントンは「殴ることで相手を支配しようとしてしまうことは愚かなことで、私が彼を殴ると彼と同じ愚か者になってしまうんだ」と説明する。しかし、納得の行かないクリスチャンは殴った相手への新たな報復をエリアスに提案するのだった。

母親を癌で亡くしたクリスチャンは父親が母を殺した、死んでもいいと思っていたんだと責める。彼の心は母を亡くしたことでやり場のない憤りと苦しみの感情の矛先をいつでも見つけようとしていたのだ。

生と死という問題の間で揺らぎ翻弄される少年の心を見事に描き、それが癒されて行く様子を丁寧に表現している。

紛争地域で無垢な人々が何の罪もないのに虐殺され、傷付けられていく様子を医者として見続けなければならないアントンの苦悩と、クリスチャンの苦悩がクロスし、映像とともにリンクされていく。

命とは何なのか、死とは何なのか、生きることとは・・・そして残されたものは如何に生きて行くべきかを問い掛ける。

そして「赦す(ゆるす)」ことの尊さを。

アントンは最後にクリスチャンにこう語りかける。

『生きている者と死者の間には、見えない”幕”がある。愛する人や親しい人を失った時に、その幕は取り去られる。死を見るんだ。とてもはっきりと。でもほんの一瞬だ。その後、幕は元の場所に戻り、私たちは生きて行く。以前と変わらずに』

スザンネ・ビア監督(2010年・デンマーク)
(原題:HÆVNEN/英題:In a Better World)



7

 

「リトル・ランボーズ」  

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人は大人になり自分の身に起こる出来事を複雑怪奇に捉えて苦悩してしまっている。物事はもっとシンプルできらめいているはず。子供の頃の貴方は今よりも一日一日が長く、太陽は明るく、森は巨大で、学校の廊下はどこまでも果てしなく続いているように見えたではないか。大人になることで失った「想像力」を取り戻すことで今日を「人生最高の日」に出来るのだ。日常の捉え方次第で人生は如何様にも変わる。人間にとって「想像」することの尊さを教えてくれる映画。現実に振り回され、自分を見失ってしまっている貴方へ贈ります。

12

 

「ナルニア国物語 / 第3章:アスラン王と魔法の島  

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ファンタジー映画は子供が観る単なる娯楽作品、大人が現実逃避するためのもの...ではなく、深い示唆やメッセージを備えた作品が数多い。

この「ナルニア国物語」はイギリスの小説家であり文学者であり、神学者でもあるC・S・ルイスの書いた「ナルニア国ものがたり」が原作になっている。神学者でもあるC・S・ルイスの手による作品のため、キリスト教を下地に描かれているが、その他にもアイルランド童話や、ギリシャ神話の要素も含まれている。

ウォルト・ディズニーが第1作、第2作を配給しヒットしたため、このブログで紹介している他の映画よりも観たことがある人は多いはずだ。一度観た人は、爽快な冒険活劇という側面から、二度目に観る機会があれば主人公の子供達を自分に重ねて一つの人間ドラマとして観て頂けたらと思う。

現実の世界からナルニア国にやって来る子供達は、皆今の自分の境遇を悲観し、不満を持ち、自分に自信を持てないでいる。しかし、ナルニア国に一歩踏み込めば、王や王女として民衆はひれ伏し、剣を持てば向かうところ敵なしなのだ。

この作品の大きなメッセージは二つある。それを表した顕著な台詞を紹介したい。

ペベンシー兄弟の次女ルーシーは自分の容貌や幼さを恥じ、姉であるスーザンの様に美しくなりたいと願っていた。ある島で魔法の書の1ページを手に入れ、姉のスーザンの美しさを手に入れようとする。

そこにナルニア国の創造主アスランが現れて、ルーシーを諭す。

『自分から逃げるな、自分の価値を知りなさい』と・・・

もう一つはラストシーン。闘いを終えたエドマンド、ルーシー、ユースチス、そしてネズミのリーピチープとカスピアン王子はようやくアスランの住む島への入口に立つ。その島にはカスピアン王子の父もいる。アスランは島に渡ればもう戻れないと伝える。カスピアン王子は歩を進めるが、また戻って来て言う。

『奪われた物を欲しがらず、与えられた物を守る』

自分の価値を見失い、自分や自分を取り囲む現状を悲観し恨み、そこから逃避して、自分とはかけ離れた対象に価値を置いてみても、その対象は自分を幸せにすることはない。幸せを感じたとしても、それは幻想であり、麻薬のようである。

”自分という世界の王は自分自身なのだ”

自分の価値をまだ知っていないだけだ。その価値を発見して行く旅こそが人生なのだ。こんなワクワクする旅を放棄してはいけない。幻想や麻薬に溺れ盲目になっては本当の人生の「マジック」は味わえないのだ。

そしてもう一つの台詞。これも深い示唆を与える。人は自分の手から零れ落ちた物や人や出来事にばかり囚われ、フォーカスを定めがちだ。自分の手から去ったということは、その対象を”失った”のではなく、その対象から自らが”離れた”のである。意味を持って離れ、そして次なる領域へ自分を連れ出そうとする動きに何故逆らおうとするのだろう。自分の手から零れ落ちて失ったものに視線を向けることにだけ没頭していれば自分を傷付け、時間を消費してしまうだけだ。それよりも今自分の手許に残っているものを愛おしみ、守ることの方こそが自分の使命であり、人の人生を美しく輝かせるのだ。

どうぞ、そうしたメッセージをこの映画で感じて下さい。貴方のこれからの人生もナルニア国のように冒険とワクワクに満ちています。

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「星守る犬」  

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京介:クロはいつも夜になると星空を見上げていたんだ。

京介の祖父:星守る犬だな

京介:ん?

京介の祖父:いやね、決して手に入らない星をずっと眺め続ける犬のことだ。これ、高望みをする人を表す例えに使う言葉らしいよ。

京介:手に入らないものなんて眺めてるだけ無駄だよ。

京介の祖父:あのね、生きるってことはしょせん無駄だらけなんだ。君のように殻に閉じこもって生きるよりも高望みをし続ける人生の方がいいと・・・僕はそう思うよ。

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「シッピング・ニュース」  

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嵐が吹いて硬い結び目が解けることもある。

嵐が過ぎ去り、頑丈だったはずの木造の家が跡形無なく崩れ去ると、そこには絶景が。

人はその頑丈なはずの家に立て篭り、目の前に厳然と広がっていた自然の温かな眼差しに気付いていなかっただけなのだ。

時の流れは全てを癒す。嵐が過ぎ去れば、そこには安住の地がある。

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「空気人形」  

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人間関係に疲れ果て、人に期待をし、裏切られ、そして自分には価値がないと思い込んでしまっている貴方へ贈ります。人によって傷付いても、貴方を癒すのは人であり、そして貴方も誰かを癒せるのです。

『生命は自分自身だけでは完結出来ないようにつくられているらしい。花もめしべとおしべが揃っているだけでは不十分で、虫や風が訪れて、めしべとおしべを仲立ちする。生命はその中に欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ。
 世界は多分、他者の総和。しかし互いに欠如を満たすなどとは知りもせず、知らされもせず、バラまかれている者同士、無関心でいられる間柄。ときに疎ましく思うことさえも許されている間柄。そのように世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
 花が咲いている。すぐ近くまで虻の姿をした他者が、光りをまとって飛んで来ている。私もあるとき誰かのための虻だったろう。貴方もあるとき私のための風だったかもしれない

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