2009/11/19

リスボン急行第十日(9月25日・金曜日)  リスボン急行

夕方、気分よく帰国。あれだけ走ったヒースローの、あの15分くらいの間にトランクが移動している筈がない。
案の定、荷物は出てこなくて「ナカムラさまご相談カウンターへ」とマジックで大きく書かれたダンボールの三角帽子がダラダラ回っている。お姉ちゃんに住所など書いて、後日到着次第ご連絡申し上げます。
 荷物は日曜日の午後に自宅に送られてきました。

帰ってきてから、はじめて「地球の歩き方」とか、いろいろ調べ始めるのも私らしいが、断然また行くぞ。気楽でいいわ。気性が合っている。
我々は主に西山を歩き回ったが、ディープなリスボンは東山に多いらしいぞ。なんといってもいいのは、人々の背が高くないのがいいぞ。日本の若者の中を歩いているよりずっと違和感なし。
 メモが途中からなくて、後半は写真に頼りすぎた。地下鉄の中の「お乞食さん」とか、書き落としたことも多いがこれでチョン。
それで、このブログに乗せると、写真の右側がだいぶ削れている。《中央》と説明したのが、中央ではなくてだいぶ《右寄り》です。

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2009/11/19

リスボン急行第九日(9月24日・木曜日)  リスボン急行

最後の晩餐の昨夜は、深夜にタクシーでホテルに帰りましたが、安心。タクシーで不安や不審な料金はこの旅行一度もなかった。
往きに半分空いていたトランクには、鰯やオリーブのペーストがいっぱい入りました。いつかハノイでは、この種のもの全部没収されたが、ポルトガルは鷹揚、なんの問題もなさそうです。
まではよかったが、空港でロンドン行のゲートがなかなか決まらない。右往左往させられて、結局二時間遅れ。ロンドンの乗り換えが二時間余りなので大丈夫?
よく分らなかったが、原因は乗員ストらしかった。日本の資本主義がうまくいかなくなったのは、特に会社の経営側に見識のある人物がホン居なくなってしまったのは、労働組合を無くしてしまったから。内部に反対する力を持たない個人も会社も国も堕落する、が持論の私としては久しぶりにストと聞いてなにやら嬉しい。
ロンドンで降りたとたん、ANAの係員がお出迎えで、日本人観光客20人弱、走ってください、歩きではダメ、小走り以上。あとで聞いたらヒースローはハブの港にはちがいないが、客に不親切な空港として有名らしい。昔の温泉旅館みたいに継ぎ足し継ぎ足しだから。いや走ること走ること。随いてこれなかったら放置していきますよ、のノリです。10分以上のランニングのあと、挙句バスに乗せられて。だったらバスを回しとけよな。
みんなが待っているANAにどやどや乗り込んで、やれやれ。これから最後の12時間です。帰りは歌舞伎の本の50%、その他。


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2009/11/19

リスボン急行第八日(9月23日・水曜日)  リスボン急行

エストレモスからリスボンに帰る日。
お城の部屋の様子です。
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印象よりもこうしてみると磔のキリストは小さかったが、部屋が小さいですからね、圧迫感ありました。左に写っているのがコルク製のソフト帽です。
これは廊下のコーナーの様子。
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いたるところがこんな調子で、また廊下が長くて薄暗くて、どっしりした家具と、宗教画が両側壁から迫る、そんな世界です。ボッシュのあった美術館に雰囲気がそっくりでした。
バスターミナルまでタクシーを頼んで、お城ホテルの玄関に出ると、荷物いっぱいの自転車が倒してある。中年カップルのサイクラーがここまで上ってきて一服しているのだ。アメリカからだって。スペインとポルトガルを自転車で回ってもう一ヶ月になる、あと10日で帰国すると。50代半ばでしょうかね、脚の長い、自転車がよく似合う恰好いいカップルでした。
帰りのバスはエボラ経由でなく、リスボン直行、一時間ちょっとで昼前には帰リス。帰途の車中から二枚。
往路で書いた「コルクの林」。どう見ても砂漠。栽培林には見えない。
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長〜い「ヴァスコダガマ橋」の上からの写真。四角く区切られているのはウナギか何かの養殖か?
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ホテルに再びチェックイン。同じ部屋です。
最後の土産買いとかで、こんどはリスボン最大のモールに出陣。動物園駅よりも三つ先の駅。この駅はホームの壁が全面アズレージョで、先日のアズレージョ館よりずっといい。気に入った作品。
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エスカレータを昇るとまあ賑やかなこと。モールの中のスーパーに入って、オリーブペーストを探す。執念。オリーブ製品だけでも巨大なスーパーの壁一面分くらいはあって、色とりどり。オバサンに訊いたらすこし離れた処に陳列してあった。
これでお土産は終了だって。うちらの土産は鰯のペーストとか、オリーブペーストとか、あのカステラ屋さんで買った日持ちのするケーキ、とか単価が安すぎる!!
夕方はホテルの近くを散歩。
初日にホテルを出て、まず立ち止まったのは西郷どんこと、ポンバルさんの像の広場でしたが、いまはその像の背中側、北にむかってなだらかに上る斜面の大きな公園を散歩しています。日没の時間で、夕陽に立つボンパルさんの像のむこうには、ずいぶん歩きまわった市街が拡がっている。
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北山から見ているリスボン市の中心を、あらためて紹介すると、左側が東山(頂上には結婚式の写真のあった「サン・ジョルジュ城」が見える)、右側が西山、中央に白くて細い台の上に黒く立っているのが、ポンバルさん。その向こうの緑がリベルタ通りの幅。見えないが、リベルタ通りを向こうへ500メートルほど下るとバイシャ、そしてその向こうに見えているのがテージョ川でした。
背後には、空港に出入りする飛行機がひっきりなしに低空で過ぎてゆきます。
愉しかったなー。今回の旅行もよく歩きました。最後に出会った屋外彫刻。
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カミさんは知っていましたが、私は知らなかった。現代作家です。重量感のある母親と赤子。マイヨールをもっと大胆に誇張したような。

最後の晩餐は、テージョ河畔、レインボーブリッジの下にある、海鮮レストラン群に。アサリのニンニク風味が旨かった。台湾料理のシジミのように、食べ出すと止まらない。このアサリは一個一個ふんわり太って豊か。かのヴァスコダガマ橋の下で採っているのではないか。
食後はファドのリベンジです。前回のファドがあまりに観光的だったので、もうすこしディープなファドを其処で教えてもらいタクシーに。東山の中腹に連れていってくれました。
これは好かったよ。ほろ酔いも手伝ってか、岸壁の母になっていました。シンガーは若い女性が二人交代で。ポ・ギターのリーダーにスペインギターが正対して座ってリーダーの演奏にぴったり合わせて音を太くして行きます。この三人組に、さらにベースがひとり付いていました。
じゅうぶん愉しんで一人10ユーロくらい。
十二時過ぎてかえるとき、入り口のところでメンバーが一服していた。チラシで知ったリーダーの名前を呼んで一緒に写真を。遠慮する他のメンバーも入れてカミさんのカメラでパチリ。
 
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2009/11/19

リスボン急行第七日(9月22日・火曜日)  リスボン急行

朝、目が覚めたら、十字架でうなだれているキリストがまだ居ます。まあ私は信者じゃないし、そう動じないですけど。こういう宗教画は、題材を問わずありがたいのでしょうか? 教会でこの画の前にぬかずくのはいいでしょうが、四六時中見下ろされていては、息苦しい。
散歩にでる。城壁はエボラほどきれいに残っていない、町=城廓の規模も大分小さいようだ。
町の周囲の城壁ちかくまで降りていったところから、お城の宿泊施設部分を見上げるとこんな感じ。
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この写真に写っている部屋からは、ダウンタウンとその外に拡がるブドー畑、コルク林、オリーブ林を一望に見晴せる、のだが、こちら側の部屋はすでに満室で取れなかった。
この宿泊施設部を中庭から撮ると写真で、我々の部屋は角の左側ぎりぎりにある窓。この部屋の窓はこれだけで、景色は中庭だけ。
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それで、眺望は、はじめの写真の白い建物の向こうにちょっと覗いているお城の塔。ハムレットのお父さんが出てきそうな、いい感じの塔です。狭い石段をのぼって此の塔の上に出れば、四方の眺望と風、気持ちいい。スペインの国境に近い低い山並みも続いている。レコンキスタばかりでなく、対スペインの戦略要地でもあったろう。「兵どもが夢のあと」みたいな風は万里の長城でも受けたが、こちらの風は南国だな〜、ずっと柔らかい。
丘の上のお城から、ダウンタウンの広場までだらだら降りて徒歩10分くらい。この間の路地に「三叉路評論家」の私は期待したのですが、あんまりいいのがないな〜。横尾忠則の「三叉路画」に魅せられ、南フランスの田舎町、石の細道・三叉路を写した杉山さんの写真に触発され、実は私ここ数年、隠れ「三叉路賛家」なのです。二枚だけ挙げておきます。
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二枚目は「窯焼きピザ屋さん」が路を分けています。ポルトガルで出会った三叉路は、ひとくちに言って明るすぎる、屈託がなさ過ぎる。ボクの好みからするともうすこし陰翳のある三叉路が欲しいのです。
これも城と下町をつなぐ坂道二題。
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下の写真は、中央ダンボールの処。おばあさんが門口で日向ぼっこというか、じっと座って動きません。何回通りすぎても居るので、心配でしたが、ときどき家人か、近くで作業している人が声をかけているようです。

お昼は、ダウンタウンの広場に出ているテント・ベンチで、ちょっとしたスナックとコーヒー。少女たち、オバサン達、オッサンたち、それから高齢者たち、いろんなグループの生態観察。昼下がり、何でもなく、ドロリとした時間を過ごしている、地中海で執筆の疲れをほぐしている村上春樹みたい?
じっと額を寄せ合っているわけではないが、かといって、声高にてしゃべりあっているわけでもない“まったりした”お年寄りたちの中に紛れ込みたい、溶けてしまいたい。
その広場近くの、なにやら剣呑な像。
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アンゴラとモザンビークとある。喜望峰の手前、大西洋側でヴァスコダガマが手をつけたのがアンゴラ。喜望峰をくるっと廻ってインド洋に入ってはじめに手をつけたのがモザンビーク。というわけで、両国は南アの上に東西に並んでいる。この像の時代は第一次世界大戦のときだね。ポルトガルは植民国として最後まで粘りに粘ったから、両国が独立したのは70年代。その後の内戦の混乱。
 つい先日、恵比寿の都写真美術館にサルガドの「アフリカ」の白黒の写真展をみにいったが、その冒頭が「モザンビークのポルトガル軍」(70年代中頃)であったのには驚いた。この写真の下の文章は、よくわからんのだが、だいたい「名声よりもポルトガルと兵士のために」みたいな。
 
また城に上がって、お城の前の小さな広場に面した教会とアズレージョの工房を見学。付近の可笑しかった交通標識。
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ここから町へ下るのは一本道しかないのに、「スペイン・リスボン・エボラ」がこっちですって。分岐点に近づいてから、矢印の方向がいろいろになってから標識を出したらどう?
夜はホテルの食事はいやだから、再びダウンタウンに降りて町の食堂で定食を食べました。
夜が更けて路地を上ってお城ホテルにもどる。初日に上空から見えた、オレンジ色の街灯がたいへんきれいです。写真がないのが残念ですが、ひとっこ一人いない、音がない、細い石の坂道を、黄色の街灯だけが30bに一灯くらい、両側の白壁を浮かび上がらせていました。路地側には窓がないせいか、人の団欒の気配が伝わらない、静寂。
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2009/11/19

リスボン急行第六日(9月21日・月曜日)  リスボン急行

今日から二泊三日のご旅行じゃ。私は何もしらないので、昨晩はじめて聞かされて、フムフムなかなかよいではないか(でも内心はもっと市内に居たい。観光らしい観光をとことん好まぬ私です)。
大きなトランクをクロークに預け、いったんチェックアウト。でも明後日にはまた此処に泊まる。こういうのって、たっぷり休暇感度が深くて幸せ。
タクシーで、町の北側にあるバスターミナル。広〜い体育館、15番線までありました。各線から30分に一本くらいポルトガルの南半分の各地に長距離バスが出ています。以前書いたように、こじんまりした国ですから、バスで充分です。
「エボラ行き」を探して乗ります。先日の一日遠足で乗ったバスと違って長距離バスは乗り心地グー。因みに此の地の車はドイツ製が多く、バスはぜんぶベンツだった。
北向きに走って高速に乗り、間もなく長〜い橋。これぞ「ヴァスコダガマ橋」じゃ。レインボーブリッジよりも大分上流なのに明らかに幅が広いのは、ここが湖になっているから。テージョ川は大西洋に出る直前に浜名湖のように大きくふくらんでいるのでした。15`くらいもあろうか、高速バスがいつまでも水の上を走っている、まことに気持ちがよい。浅瀬で潮干狩りをしている漁師さんらしき人も遠望できる。宍道湖のシジミか。
そのあと郊外は、ほとんど「コルク農園」。人が居ない。コルクの樹は、密植できないのか、一本あたりの専有面積が広くて、まばら。土は乾燥している。中くらいのずんぐりした印象の樹で、砂漠に点々とライオンが座っているような感じ。この風景はダリが描く砂漠に似ている感じがしてならない。どこかツルリとしていて現実感が希薄。
この樹皮がコルクで、世界の半分以上を生産しているとか。楽器では木管楽器の接合部。そういえばサックスもマウスピースの外れる部分はコルクで接続。だからサックスは木管に分類されると謂う。「植物は細胞から成る!」と最初に顕微鏡で発見されたのが、コルクのスライスだったって、知ってました?私はてっきりタマネギの皮かと。
一時間あまりでエボラ着。リスボンの真東100キロ。ローマ時代からの古い町で、四方が全部見渡せるなだらかな丘の上に造られた町。直径1キロ弱の円形の城壁で囲まれている。これ全体が世界遺産。城外のバスターミナルに小さな荷物も預けて、城内までタクシーで入りそれから散策。
リスボンよりもっと細い、石畳の迷路のような小道、歩きたかったんだよね。
大きなプラーザは中腹のジラルド広場。
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あとは丘の頂の教会やディアナ神殿。迷いようのない規模だから、細い路をどんどん歩く。こういう路地って地中海的?電柱はありません。石造りの壁を電線が這っています。街灯も壁から。細い空は、背の高い礼拝堂のステンドグラスのようです。
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次はチャーミングな街角。旧い城壁を生かした街角です。この城壁は町の周囲のそれではありません。
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頂上の神殿はこんなです。
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今更ながらですが、ボクはヨーロッパ初めてなのだ。ギリシャの神殿なんか、ずっとそこに立ちたいと思っていた。規模は小さいだろうが、なにしろこの空の青さ、石柱が似合います。
この付近で見かけた政治集会のポスター。
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詳しい背景はわかりませんが、若者の主催する集会が、つい一週間前、9月13日:日曜日の5時から、このディアナ神殿の広場であったようです。

この頂上にある教会を利用した「ポサーダ」=国営ホテルが人気で、泊まろうとしたけど満室だったんだって。それでエボラは荷物預けて歩いただけね。コルクの帽子を買いましたよ。
「エボラ熱」って覚えている?致死率の高い伝染病で、いっとき話題になりましたね。おかしいな〜、ポルトガルだったか? 帰って調べたら違った。あれはアフリカのできごとで、報告した人の名前がエボラさんでした。
バスターミナルに戻り、荷物受け取って、エストレモス行きに乗る。北東に50`。エボラのポサーダがダメだったので、エストレモスのポサーダに泊まりにゆくのです。
バスの運ちゃんが、ロバート・デ・ニーロとそっくりで、ハリウッドに連れて行ってやりたかった。さっきのエボラで町の様子がわかっているから、丘の上にお城が見えてくるとすぐ分った。車中から見えたエストレモス全景のピンボケ写真。ルームミラーに写っているロバート・デ・ニーロと、きれいに刈り込んであるお茶畑?
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エボラと同じように城外のバスターミナルからこんどは頂上のポサーダまでタクシー。今日の宿泊のポサーダは、ずばりカステロ=カースルです。13世紀建造というから旧い。ヴァスコダガマが航海に出るときここで王様に謁見したとか。さっきのエボラの教会では、日本からの少年使節団が法皇に謁見したとか。何かは必ず言う!みたいな。
美術館の中に泊まったようなカステロについては明日。今晩はこのお城の中のレストランで食事。食堂はおおきくて重厚な感じはよかったが、食べるものもワインも普通です。食後、酔いさましに、中庭のベンチに座って、四角く切り取られた夜空を見上げていたのが気持ちよかった。
リスボンのホテルよりずっと小さな部屋では、十字架に磔になったキリストの下で、背が高くやや狭いベッドに小さくなって寝ました。
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2009/11/19

リスボン急行第五日(9月20日・日曜日)  リスボン急行

今日は8時頃まで寝ていた。昨夜、「明日は、レインボーブリッジを国鉄で渡り、テージョ川の向こうの、魚市場とワイナリーに行く」とカミさんの案を聞いて「それよりもっと市内をダラダラ散策したい」と私の希望。それが通って、ゆっくり寝坊です。
まずは、東山からテージョ川に下りたあたりの川辺、そこからさらに一`くらい東にある「アズレージョ美術館」に行こう。あちゃ、三日間フリーパスを買ってから72時間が過ぎてしまった。いちいちカードを買って、乗る分だけ補充しなきゃ、勝手が分らず手間取る。地下鉄の終点のまだ東なので、もう強くなった陽射しのなか、テクテク散歩していたら、自転車隊がやってくる。近づくのを待ってパチリ。手を挙げて応えてくれたように感じていましたが。日曜の午前中、ご機嫌の年配おじさんクルーです。
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アズレージョって、装飾タイルのことですが、アズールが青色だから、基本的には青色の線で描かれた磁器。典型的な例をひとつ。
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あまり見るべきものはなかったが、教会を改装したという建物は、玄関にたわわに実ったレモンと満開のハイビスカス、中庭にはちょっとした現代造型も置いてあって、ゆっくりできる空間でした。観光客も2〜3組しかいなくて静寂。
 次は、すこし市内側に戻るのだが、陽射しがつよいのでタクシーを拾う。「ファドとポルトガルギター博物館」。英語fatalと同系「運命を予言する」という動詞ファダールの名詞がファド。運命・宿命。転じて演歌・恨み節です。聞いたことがあるのは歌姫アマリア・ロドリゲスという名前だけですから、CDを試聴できるという此処に来たのでした。
でもさ、ヘッドホンの前には数百枚も並んでいるのだから、試聴するといってもねー。結局、アマリア・ロドリゲスの定番=美空ひばりベストアルバムだな、それを一枚と、あとは私得意のジャケット買い、きれいなお姉ちゃんのCDを買いました。ファドの歴史は100年ちょっとで、もともと、漁師の奥さん達が(海難事故に遭って)帰らぬ夫たちを待って、岸壁の母を唄ったのがはじまりとか。いま、ファドを聴きたければ「ファドの家 」と呼ばれるレストランに行けばよい。 

バイシャに戻り、西山の中腹にある「シアード美術館」。いきなり「豆は語る」という現代アートの大作がお出迎え。一階のホールから階段を上ったり、ベランダに取り付いたりして、三階〜四階にまで、延々と建物中に繁殖している巨大な緑の布製の蔓と葉と豆。うーん。あとは一階入り口付近の木彫にフンフン。
これだけなのだ。あとは見るべきものはなかった。西山をまた歩いて遅い昼飯。いままで、魚の国ポルトガルの「鰯・鮭・鱈」を食べてきたが、初めて美味しい魚にありついた。鱈のソテーですけど、これなら好いわ。
もう夕方だが、ラストは動物園だぞ。ジャルダン・ズーじゃ。同名の地下鉄駅で降りて、ウン、入場料が15ユーロ。「高杉晋作じゃねえかい」また言ってしまった!シニアの割引料金で我慢して入っていく。
園内が広すぎるのが判り、さっきのビールもきいてきてもう歩きたくない。やっぱ動物園は朝一じゃないと。とりあえずイルカショウのベンチの隅に腰を降ろす。そうか日曜の夕方だったね、子供連れのファミリーで、広い観覧席が満席状態。マイクをもったウエットスーツのおねえちゃんが子供たちに呼びかけて、子供達の歓声が応えてイルカさん達の登場よ。しみじみ、よかです。
元気をもらって、歩き出す。モンキーパークに居ましたよ、悪魔猿です。名前を控えなかったのが口惜しい。ほんとに厭な顔。可愛い処、心許せる処が一ヶ所もない顔って怖いですよ。正視できないです。小さな猿ですがその悪相は、昨日の「聖アントニオ」にでていた怖い動物たちを直ちに連想させます。アフリカ産と書いてあったのは覚えているから、画家達はムーア人の住むアフリカにはこんな悪魔が棲むと思ったのかも。
次はすこしホッとしたい。キリンさん写真は如何でしょうか。一人っ子と両親かなー。
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ホテルに戻り、ホテルに近い「ファドの家」を教えてもらって行く。ワインと食べるものは例によって。ファドは九時頃から。20分くらいのショウタイムを三回聞きました。女性歌手が交代に。20代から50代くらいの三人の女性。黒い薄地のワンピースにケープを羽織っている、これがファド歌手の定番の服装です。
うーン何か感心しないな〜。通り一遍の感じ。岸壁の母が迫ってきません。
メインの伴奏はさっきの博物館で見てきたポルトガル・ギター。胴体が円形にふくらんでいて、マンドリンをもうすこし太らせたよう。音色は意外に高音でウクレレに似ている。6弦に見えるが、実は1弦につき2本張ってあるから、全部で12弦。この高く澄んで、しかも哀愁たっぷりの音色で、おもにメロディを奏でているのがチームリーダー。このひとの名前がバンド名。
それと、もう一人の男性がスパニッシュ・ギターを持って、これは通常の6弦ギター。おもに和音、リズムを受け持つ。この人が上手だと、リーダーのポ・ギターの音に厚みが出るというわけ。
こうしてギター男二人・唄女一人の三人組が基本ユニット。今日はファド豆知識でおしまい。
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2009/11/19

リスボン急行第四日(9月19日・土曜日)  リスボン急行

ホテルの朝食のバイキングはもう飽きたので今日は抜かしましょう。
また地下鉄。乗り物が右側通行ですから、地下鉄が東京と反対方向から入ってくるホームにもすっかり慣れて地元化しています。
川沿いにある公設市場に行こう。大きな体育館が二棟並んでいるくらいの規模で、肉・野菜・フルーツ・鮮魚でした。プチトマトを100円くらいで山ほど買って、これは一日の散策用。あと花屋さん。ブラ下がっている乾燥スパイス類も目につきました。鮮魚屋さんで、魚を開いている女将さんに「セニョーラ」と声をかえてこちらを向かせパチリしたのですが、振り返った女将さんの視線がカメラを通り過ぎてうちのカミさんにいってしまった。
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場内のスナックでコーヒを頼み、一昨日多く買って冷蔵庫に入れておいたクリームパイ、朝食用にもってきたのを、いいかしらね、とか言いながらモグモグ食べちゃう。カミさんが「トイレは」と訊いたらカウンター越しに、鍵を渡してくれる。出てきたとき次の女性が待っていたので、鍵を渡してもいい?と目線で断ってからトイレキーのバトンリレー。50円ほどのコーヒで珍しい体験いろいろ。ありがとう。
トイレのお話二題。美術館のトイレだったと記憶しますが、このトイレは名付けて「高杉晋作」。
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壁に貼りついている便器は思い切り高く、宙に浮いているようです。私は身長170センチですが、背伸びしながらようやく届きました。もう一つ、これは「大」の方ですが、二カ所で見ました。

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足形からいうとこちらを向いてお尻を後方に突き出すのでしょうが、前方に放流すべき小便は行き場が無くて困るだろう、と非常に心配しました。こちらの方々は粗大ゴミと粗チン水を分別して別の日に出されるのでしょうかね?
こんどは川沿いに、市電に西へ三駅のって、国立美術館。どの部屋も聖人の絵ばかりで重苦しい。その中では立ち止まって見てしまった「8人の聖人」かな、その部屋だけがよかった。
大収穫は、1500年頃のボッシュの絵です。「聖アントニオの誘惑」というタイトルで知られているという。私は知らなかった。三面鏡のように両側が折れて屏風のように立っています(祭壇画の定型ですか?)。全体でタタミ一畳を横にしたくらい。中央に跪いて必死に祈っている「聖アントニオ」が居て、周囲で彼を「誘惑」している「悪魔たち」。何処にアントニオが居るのかは、あとでネットの画像で判ったので、そのときは悪魔たちばかりに目がいった。
このところ日本の「お化け」に凝っていて、いろいろ調べていたが、「聖アントニオの誘惑」は西洋の「お化け史」では欠かせない作品だろう。ものの書には「祭壇画《聖アントニオの誘惑》では、後に〈魔物とキマイラの創作者〉と評されたように、絵画史上類をみない人間と動物の合成生物、爬虫類と獣類の混合物による幻想的世界を展開した」とある。
そのキマイラ=キメラは、ライオンの頭・山羊の体・蛇の尾をもつ怪物、とあるが、バリエーションがいっぱいあって、怖くするためならどんな組み合わせも辞さない勢い。これは中南米やアフリカから当時の珍獣が奥州にいっぱい入ってきたことにも因るでしょう。
そしてもっと凄いのが、魔物や人物や建物や空や沼などの配置。すぐ連想したのはダリの絵。空間がねじれていて、エッシャーのようなあり得ない建物も。まるで20世紀のシュールレアリズム絵画を見ているようだ。上下の無視、遠近・大小の無視、時間経過の無視も、全て揃っていて、なんだ500年も前に、現代美術のすべては出そろっていたんじゃないか、という感慨。
この「聖アントニオ」は13世紀初頭の実在の聖人で、リスボンの守護神だって。こちらでは知らぬ人とてない聖人。6月13日はこの聖人祭で祝日。サン・アントニオ教会もあるのは、いま書きながら本で知った。
それから、日本の長崎から持ち帰った「狩野派の屏風絵」。作者の個人名はわからないが、南蛮貿易のところで歴史の教科書に載っていそうな絵です。これも日本人画家が心底驚いたであろう南蛮船の巨大さが画面左半分を占領していて、一方、右上の丘の上には僧侶や貴人たちが、この「黒船」にびっくり狼狽している様子が描かれている。目についたものをとにかく描く、平面な画面でそれを連なげるためには、海や港や丘はどうしてもワープする。
私が山水画が好きなのは遠近法の公然たる無視にあるのですが、浮世絵だってなー。今日は朝から正解じゃ。けっこう満足して市内に戻り、リゾット(海鮮おじや)の昼食。

ぶらぶらバイシャを散歩して、「サント・ジュスタのエレベーター」で、十階建てくらいの高さの鉄塔に上る。展望台があって、市内と向こうの東山を一望できる。真下にはバイシャの通り。俯瞰写真。
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両側の石造りの建物ふくめて典型的なリスボンの街路。
やはり西山側にある、植物園へ。地下鉄で三つ目くらいで近いが、駅からの行き方がいまひとつ。ぼくがポ語で「ジャルダン・ボタニカは何処?」って紳士に訊いたら「英語は?」ときかれてしまった。「この質問者にポ語で応えてもどうせ分からんだろう」という好判断をされてしまったわけ。こういうインテリが居るこの町は大学町。駅のホームに居る女性たちからして、眼鏡が多く、これまでの街中のヤングたちとはひと味違う。太っていない、眼鏡をしている、抱擁キスばかりしていない。
植物園も大学構内にある。手入れもまあまあだが、入場料をとるのはちょっと、という感じ。園内には、ほ〜っと感心するような植物は無かった。
だいぶ歩き疲れた。また西山にもどり、ブラジルカフェで美味しいコーヒをのんでゆっくりし、再出発。こんどは五系統ある市電のなかで、いちばん観光客に人気の28番に乗る。どっち向きかもよく判らず、来たのに飛び乗ってしまう。西山を延々と走り、30分くらいでようやく座れたと思ったら、終点です、降りて下さい。いちど降りると20bほど先で始発になるから、再度乗る。こっちはパスカードだから平気さ。
また急カーブ細い石畳、第二日で写真に出した「あり得ない軌道」もこんどは乗って通り、西山を下りて、バイシャ=低地を横切り、あ、カステラ屋さんだ、また行きたい。
28番こんどは東山をよじ登る。登り切ったあたりをメドに降りる。全部で一時間半も乗っていた。愉しかったよ。全然飽きない。半分以上が観光客で、20席もない座席の奪い合いとか、地元の人の迷惑顔とか。それになんといっても狭い通りに電車と自動車がひしめいて、歩いているようなスピードが愉しい。渋滞とか排気ガスとかいう嫌な焦った感じがない。観光客ばかりではなく、地元の人々もなにしろスローだからね。
東山の頂上にあるのは、「サン・ジョルジュ城」で、カエサルがスペインをローマ領にしたとき、此処まで進軍してきて建てた要塞という。その後、イスラムとキリスト側が何回も奪い合ったお城です。市電を降りてから、すこし迷い、この城に歩いて上る途次、出会った結婚式の行列。城の一部の教会?に向かって親族一同30人くらいがついていきます。
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お城の上は公園になっていて、リスボン市街全体、手前下のバイシャからさっきまで居た、向こう側の西山まで一望。こうして見ると、高層ビルは西山の向こうにあって、市街中心のバイシャは、さっきの俯瞰写真ように通りが保全されているのがわかります。そろそろ夕陽日没のころです。
また市電に飛び乗って、東山を下りてバイシャへ。「カステラ屋さん」に足がむく。昨日の今日でまた来てしまった。昨日のウエイトレスが「今日はママがいるから」と連れてくる。「昨日お土産用のケーキを沢山買っていただいた客さまです」とか。にこやかに出てきたママは40代かな。京都出身で20年前に菓子修行で奥州に。そこでリスボンのお菓子屋の倅と出会って結婚。彼の実家で、こうしてカステラを焼いて喫茶店をしている。彼も出てきた。すこし禿げ上がってきた好人物。
「里帰りカステラセット」は、16世紀に日本へ嫁入りした「原カステラ」がワンカップと、日本ですっかり垢抜けしてきれいになって里帰りした「長崎カステラ」一切れと、それに「お抹茶」がついて、5ユーロ。「原カステラ」は、プディングといった趣きで、実際中央の底の方は「濡れている」のです。カップ状の紙で包んでオーブンで焼いているわけ。カラカラに全部焼いてしまっては値打ちがない、そこが腕です、と彼の説明でした。
夜のバイシャを歩いて、またスーパー。やっぱり「オリーブのペースト」は無くて、缶ビールとアスパラの缶詰を買う。もう夕食はいらない。部屋でアスパラとビールだけで充分でした。今日もよく歩いたね。御休み。

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2009/11/18

リスボン急行第三日(9月18日・金曜日)  リスボン急行

深い眠りから覚めて、昨晩は晩飯をスベったなーと、トーストを二枚も食べ、シリアルにも手を出した私は、我ながら頼もしい!
今日はどこに行くのじゃ。カミさんがプランした郊外遠足の日だそうです。昨夜、帰ってきた最寄りの地下鉄の駅より、もっとホテルに近い駅があるはず、と地図を見ながら、この方向と歩き出す、ほらね、当たりー。
リスボン市の地下鉄は四系統。市街から主に北方・東方に延びている。どの路線もその終点までが、市の中心バイシャ近辺から10駅ちょっとだから全体でもこじんまりした都市なのです。因みにホテルまではバイシャから四つ目くらい。
四路線は「青線=アズール線」「緑線=ヴェルディ線」「赤線=フェルメーリャ線」「黄線=アマレーリャ線」とサッカーのチーム名で聞いたことがあるから親しめる。パス有効の三日間はもとより、それが切れた4日目も一区間80セント=100円足らずで、フル活用しました。
今日は国鉄で遠出をするそうで、それなら昨日見たテージョ川沿いの鉄道に決まっている。その始発駅までは地下鉄が繋がっている。意気揚々。始発駅まで行って構内をぐんぐん歩いてちょうど停車している国鉄にとび乗って、発車してから「これ違うんじゃない?」レレレ。「いまごろ言われてもな〜」と、彼女の遠足プランを見ると、国鉄でもこの線は違うじゃん。
乗るべき線は、内陸部にむかっているぜんぜん別の国鉄線じゃん。あわてて一駅目で降りて、引き返す電車を待つ。今朝はバカに威勢のいいアッチャンだから大丈夫、と随いてきたのに、やっぱりダメダコリャ。憮然としているカミさんの居るホーム。
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この写真は、情報がなかなか豊富です。ターミナルから一駅目の控えめな駅、左の快速は停らない。時刻もばっちり。上方に見えるのは、これまで何回も登場したレインボーブリッジ。勿論私の命名ですが、東京のそれと同じ二層式。上段にトラック、下段には通過している電車が偶々写っている。
バイシャの西山側にある別の始発駅まで地下鉄で移動。やれやれ、こんどは間違いない。行き先はリスボンの北28キロのシントラです。市街から離れていくと、なんだか壊れた石の橋が土に突き刺さっているような乾いた風景になり、そのまま田園地帯になってしまう。工場地帯を見かけなかったなあ。田園地帯は葡萄畑が多いが、これも緑豊かとはいえない。乾燥している、砂漠っぽい。九月、いまは乾期の最後の方で、これから冬にかけて雨が多くなるそうです。
観光地のシントラに行く電車ですが、午前10時頃のこの時間帯、市民が時々乗り降りするくらいで空いている。四人がけで向かい合っておしゃべりをしている一組の観光オバサン達が居るだけ。言葉の響きは北欧か。
シントラ市は、日光市、みたいかな、まるごと名所旧跡の世界遺産。ここはけっこう深い緑の山々に城館が点在している。この風景をバイロンは「この世のエデン」と讃えたという。シントラ駅のホームから、はるか丘の上に見えるのがペナ宮殿。ちょっと登るのはつらい、と思っていたら循環バスがあってこれを利用。よくわからないまま、宮殿の手前で降りてすこし山中を登る。ドングリもたくさん落ちていて、鬱蒼とした樹木が日本でハイキングしているのと変らない。その薄暗い湿気にホッとする。
宮殿の門まで来ると、さらにそこから見上げる宮殿までミニバスが出ている。65歳以上のシニア料金があり、一枚はこれで、としっかり1ユーロくらい節約。こういうことが異国の地でできるのは「嬉しい度」大。
この城は、ムーア人との戦争の戦略的な拠点、とかでは全くなくて、19世紀の中頃に某貴族が「この世のエデン」に建てた道楽別荘。この貴族はワーグナーを愛したかのルードヴィッヒ二世の従兄弟とかで、まったくしょうがねえ末期の貴族たちです。よくこんな山のてっぺんに建てましたな、という感じが写真にでているでしょうか。
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この標高が約600メートルです。
シントラ駅まで戻り、こんどはロカ岬往きのバスに乗ります。小一時間。明るい南欧を走る。サイカチの木が目につく。もうひとつ灰色のツルッとした樹皮で細い幹の高木がとくに海岸が近づくと多かったが不詳。あとは至る所ハイビスカス。田舎のバス亭では、老人たちが乗り降りして、べちゃくちゃとおしゃべりを交わし、ウンチャンもみんな顔見知りらしくて、なにも言わなくても停車して、おばあちゃんあんたの降りる駅だよ、みたいな。
ロカ岬は、まあ岬としか言いようがないな。ユーラシア大陸最西端だそうです。明るく開けっぴろげで「さいはての岬」感はありません。石碑にシントラ市議会、北緯何度、西経何度、海抜何b。写真のとおりです。
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でも私はミーハーですから、観光案内所のおばさんに、最果ての此処まで来たんだぞ、何かあってしかるべし、とジェスチャーで迫る。
しばらく私を睨んでいたおばさん「ショーメーショ?」って言いやがんのよ!ガチョ〜〜ン。荷物に入れても折れないような厚紙の「汝はいついくか最果ての岬に立てり」のショーメーショは現在、我が家の茶箪笥の上に鎮座しております。
ポルトガルの位置は、地球を半周、日本をズリーッと引き摺ってくると、東北地方とすっぽり重なります。北端が下北半島くらい、南端が茨城県くらい。幅が東北地方よりすこし広い。この縦長の長方形がポルトガルです。面積は日本の四分の一。
リスボン市が発展したのはテージョ川の河口付近。他にもポルトガルの主要な町は、みな大西洋に注ぐ川の河口付近に発達しました。それらの川はすべて東西方向に流れていて、源流はスペイン。ポルトガルは自前の河!を持たない。スペインとの境に、フランスとスペインを区切っているピレネーみたいなはっきりした山脈もない。
(それとは関係無いかもしれませんが) ポルトガルはスペインに吸収されてもおかしくない歴史的な時期・事件は何度もあったようです。ポルトガルの王権が進んでそれを望んだこともあったとか。そうなるとスペインは、面倒を引き受けたくない、と逃げるのね。やはり奥州はレコンキスタをやらせる戦場としてポルトガルを温存しておきたかったのでしょうか。
ロカ岬から、またバスに乗ろうと待っていたら、一匹のワンちゃん。はじめは気付きませんでしたが、なんと巨大な腹部腫瘍をぶら下げて歩いているのです、ほんの3bも歩くとうずくまって喘いでいます。
地面に届きそうな大きさの、たぶん睾丸腫瘍でしょうが、余命いくばくもない。そういえばクサいです。屍臭のような。バスを待つこと30分以上だったから、ずっと病犬と、岬の山側の風景を見ていた。耕せばブドウ畑にでも何にでもなりそうな丘陵地帯は放置されたまま。なんか腹が立つ。
老後、末期はポルトガルくらいがいいのでは、と話していたのは、此処なら延命処置をされず放っておかれて人知れずに・・・、と想像していたからでしたが、「この通り・その通り」と首輪をした犬の放置例で見せつけられと、ややひるむ私なのでした。
こんどのバスはカスカイス往き。大西洋の海岸沿いにテージョ川の河口まで南下します。そこにある町がカスカイス。3時過ぎたが、さっきのお城でも岬でもランチをやり過ごしてしまったので、簡単なスナックとコーヒ。
それから、朝こちらに向けて一駅だけ乗ってしまった、テージョ川に沿った国鉄でリスボン市街に戻る。河口からテージョ川を20`くらい遡ることになります。40分くらいです。途中には、夏になると奥州の金持ちが集まるというリゾートビーチもありましたが、最近はテージョ川の汚染が問題になっていると。
市内にもどり、地下鉄でいちどホテルに戻ってシャワー浴びてから出直し。こんどはバイシャの下の方、川に近い方にある、カステラ屋さんだって。市電の軌道のある石畳の碁盤の目をいくつか探すとありました。喫茶もやっているので「里帰りカステラセット」を注文。ウエイトレスは日本人。ここには翌日にも寄ったから、明日分で書きましょう。
最後は西山の中腹にあるレストラン。日本人も何組か居るようです。量が多くなり過ぎない注文の仕方にも慣れました。
帰りはだいぶ遅く、暗い路地はちょっとね。ファドをやっている店とかありましたが、ちょっと一見さんは入りにくい感じで、足早に地下鉄駅まで歩きホテルに帰りました。

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2009/11/18

リスボン急行第二日(9月17日・木曜日)  リスボン急行

時差ボケもなく、朝食バイキングも好調に片付け、九時にリスボンの街に出陣。嬉しいな、休暇だな。石畳の歩道です。車がぎっしり駐車してあるが、走っている車は少ない。
おいおい判ってきたのですが、テージョ川に面したリスボン市街の山側にこのホテルはあるから、街の中心に出るには、なだらかな下り坂を川に向かって歩くことになる。此処からなら、川まで直線にしたら1`ちょっとくらいじゃないかな。10階のホテルの窓から、あの辺が川だなと判りますから。
路の両側は低層の集合住宅で、道路に面した零階(イギリス式で零階が地階、一階とあればそれは二階です)が定食屋・床屋・食料品店などになっている。地味な感じ、金ぴかはありません。映画「髪結いの亭主」の床屋みたいで嬉しいじゃありませんか。
だいぶ道路幅が拡がり、ビルも高くなってきた。銀行やら自動車のショウルーム。そこでプラーサまたはパルケにぶつかる。プラザ・パークで、ヨーロッパ独特の広場。ここのは人々が憩う広場ではなくて車のロータリになっているだけ。中央にポンバル侯爵像。ライオンを従えていて、犬を従えた西郷どんのように恰幅がいい。ポンバルさんは18世紀をほぼ全部生きた長命な人で、1755年:リスボン大地震後の近代リスボン市を設計、復興に貢献したという。
リスボンで像になっているような英雄は、だいたい祖国回復(レコンキスタ)=イスラム勢力をアフリカに追い返すこと、に功績があったか、南米・アフリカなど世界各地の植民地の経営(独立運動の抑圧)に功績のあった人と相場が決まっている。18世紀のポルトガルといえば、植民地政策の覇者であった栄光の歴史は遠い過去のおはなし。ふたたび奥州の後進国になっている。
直後の19世紀初頭には、ナポレオンの侵攻に追い落されるかたちで、ポルトガルの王様がブラジルに避難してそこで辛うじて王権を維持している始末。そしてその後すぐにブラジルに独立されてしまう、というわけで、どうもさっぱり冴えないポルトガルなのです。そういう時節に内外ともに豪腕を揮った、というポンバルさんでした。
ポルトガルは西側奥州の中の最貧国。いまだに識字率何%などといっている。イスラム勢力=ムーア人(北東アフリカのイスラム教の人々をキリスト教側はムーア人と呼んだ。あの「オセロ」はムーア人という設定でしたね。)の北上(なにしろジブラルタル海峡の一番狭いところは15`しかない。川崎―木更津より狭い!!)をポルトガルまでで食い止める。イギリスもフランスも、スペインは半分直接、ポルトガルを支援しながら自らは無傷でいたい。日米戦争の沖縄みたいな立場をずーっと1000年以上おしつけられていたのね。
レコンキスタの掛け声で、奥州のために血を流してばかり。新世界のゴールドにひととき酔っただけで、落ち着いて産業革命など経過する暇がなかった。十字軍というと、東ヨーロッパ側、中近東方面ばかりを思い浮かべるが、西の端っこも同様の辺境だった!!

さて、ポンバル広場からは市街まで、リベルタ通り。幅の広い緑の多い気持ちのよい歩道がついています。巨木になった鈴掛の樹が続きます。日差しが強くなってきたが、木陰は爽やか。リベルタ通りは500bくらいでロッシオ広場にぶつかります。この広場はでかい。100b四方はありそう。
この広場に面しているインフォメーションセンター、「ί」の目印が見つからなくってずいぶん迷ったが、ようやく72時間有効の「地下鉄・バス・市電・フリーパス」を買う。とことん利用するぞ〜、腕が鳴る脚が鳴る。カードには「ビバご旅行」の印字。
もうすこし下がっていくと、右側に市電?が見えるではないか。ありゃりゃ。これは急坂のケーブルカーだ。とにかく買ったばかりのフリーパスを使おう、と乗り込む。狭い石畳の急坂に軌道が一本。300bくらいを9分くらいかけて喘ぎながらで登ると終点。途中で下りの車両と行き違わない、ひとつの車両の往復。見たらケーブルで引っ張られているわけではない、自走です。この車両の床は、坂の角度に沿っていなくて水平を保っているから、横から見たら、いつでも右肩上がり?のまま上り下りしていて可愛らしい。
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いま登ったのは、市街の「川に向かって右側」の丘陵地です。川側が南ですから、私は「西山」と名付けました。京都でいうと背後の北山方面から降りてきて、右側の西山、嵐山方面に登ったことになります。それでリスボン市の平らなところ、京都でいえば碁盤の目のところ、ここを「低地」バイシャというのですが(バイシャはアンダーという意味)、その大きさは500b四方もないくらい。
だから市街といえば、このバイシャを囲んでいる西山も反対側の東山も、ホテルのある北山も含めてなのですが、それにしても一日でかるく歩けちゃうくらいの小さなリスボン市街なのでした。東山と西山が東西からバイシャを挟むように急坂。北山側はなだらかに上ってゆきます。南側はテージョ川。というのがリスボンの概形。戦略的には良形。
こんどは、喘ぎ電車の終点=西山の高台から、テージョ川にむかって降りてゆきます。バイシャに戻らずに西山沿いに降りてしまおう。と、こんな狭い坂道に市電の軌道。軌道は、狭軌も狭軌、遊園地なみ。ときどきチンチンギシギシ言いながら走り去っていきます。このせまい石畳の路地に軌道があり、さらに自動車が繁く行き交いますから、まあ楽しいこと。市街ぜんぶが遊園地。この市電は市民の足になっていますが、観光客にもたいへんな人気です。
次の写真は「考えられない軌道」です。
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反対方向の平行にすれ違うべきレールが、狭い路地のカーブを曲がりきるために、Rを取るために、反対側のレールにまではみ出して重なってしまっているのです。衝突、接触事故必至、必死の設計。
川沿いまで歩き下り、そろそろ昼ちかい。カミさんの調べた「クリーム入りパイ」の「ポルトガルでいちばん美味しいお店」に向かう。ちょっと遠いようだからタクシーで。川岸沿いに西山の外へ6`西方へ。テージョ川の河口に近づいていることになります。タクシーは安く、市街なら3ユーロもあれば、こんな郊外まで来ても10ユーロにはならない。1ユーロ=130円くらい。混んだお店で注文に手間取るが、甘さ控えめの美味しいパイにありついた。コーヒーは黙っているとエスプレッソ。わるくないが次からは「大きいの」。それでレギュラーが出てくる。
同じ地区の「ジェロニモス修道院」。これこそはポルトガルが中南米から金を略奪してきて、奥州中にばらまき、いちばん華やかだったころの遺物。ヴァスコ・ダ・ガマの棺があったりする。いま案内書を読むと、華麗な彫刻や設計はフランス人によるとあり、金をばらまくしかなかったポルトガルが哀しい。
この巨大な修道院の、55b四方というゆったりした四角い中庭と、それを囲む天井の高いアーチ廻廊は、威圧感のないとてものんびりしたよい空間でした。南欧の陽射しがよく似合う。
一方、出口付近にある礼拝堂は、いちどに1000人くらいは座れそうなベンチがずっと奥まで並んでいて、薄暗く天井がやけに高い。後方はバルコニーになっていて、そこには、10数人の聖人の画に三方を取り囲まれた部屋があり、その聖人たちを背に、会議室のようにテーブルがぐるりと囲んでいる。そのテーブルの位置が床から異常なほど高い。なにか恐いことが議論されたか、拘引された異端を尋問し、火刑を宣告したか、そんな空間でした。厳粛というよりも身の縮む思い、息苦しい空間でした。
この礼拝堂全体の救いは「ステンドグラス」でしたね。天井の高いぶんだけ、縦に細長〜いステンドグラスから洩れる太陽光ばかりに目がいく私でした。ところで、さっきの名物「クリーム入りパイ」の発祥はこの修道院の厨房ですって。すこしホッとする。
外に出て、ちゃんとした昼飯を。パイ屋さんのお姐さんが、道路の川側にレストランが並んでいる、と言っていたようなので。ポ語はほとんど聞き取れないけど、行ってみるとありました。10軒くらい店が並んでいて、食べるのは各店の前にあるテント。テージョ川にむかっての広い芝です。地中海で食事している、という気になるよ。湿気がないからテントの下は爽やか。ビールはよかったが、註文した「鰯」とか「鮭」とか、あんまりお勧めしません。あっそうか。ビールはこちらでは邪道かな。ポルトガルでは国産ビール工場が最近できたばかりだって。あくまでワインの国なのでした。
食後は、この地区の川沿いの散策。「ベレンの塔」は、やはりポルトガル華やかなりし頃の監視塔。大西洋からテージョ川を上がって、リスボンに近づこうとする不審船に威嚇の発砲をする川の中の要塞。姿が優雅なので司馬遼太郎が「テージョ川の貴婦人」と言ったとか。
ちょこちょこ見学しながら、あるきに歩いて、昨日上空を飛んだレインボーブリッジ写真の下を歩く。
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市街に向かって戻っているのです。このへんから市電に乗りバイシャの南側=川側で降りて、また散策。
庶民的なスーパー、オリーブオイルのペーストがある、とかいう店。こういう店が大好きなのです。このお店はバイシャからすこし西山にのぼったところにありました。いそいそと駕籠を下げて、すっかりなりきって棚を探します。夕食前の時間でしょうか、混んでいます。食品で気付くのはやはり肉類の安価さ。魚は元気ない。オリーブオイルのペーストは残念ながら見つからず。鰯のペーストを買い込みました。お土産用です。
レジは並んでから20分はラクに待たされますが、これにはサンパウロでもう慣れている。列がどんどん進む日本のスーパーの方が余程おかしい。レジのおばちゃんが血圧が上がる、と医療費を使う。過多労働の過多消費の方がずっと可笑しい。
さてさて、外が暗くなっている、もう八時をまわった。地下鉄でホテルに帰ります。で、あらためて夕食に出ようとしていた二人でしたが、部屋に入って腰かけると、あらら、腰が立たない、脱力。かみさんは風呂にはいったようですが、私はくずれおちるように眠ってしまいました。
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2009/11/18

リスボン急行第一日(9月16日・水曜日)  リスボン急行

なんだか久しぶり。早朝、こうして大小のトランクをガラガラ引き摺りながら歩くのは。もしかしたらハノイいらい?タクシーで京成上野。京成のスカイライナーは、JRの成田エクスプレスに較べて、早くて安くてホンお気に入り。
9月16日、午前11時過ぎのANA。離陸して12時間でロンドンヒースロー。九時間マイナスだから、同日午後三時頃かな、時差ボケなし。ワインなどでゆっくりして五時頃の、こんどはポルトガル航空。
これはひさしぶりに凄まじいのに乗ったな。すし詰め飛行、ビジネスも何もあったものじゃない。座席はガタガタぼろぼろです。「足乗せ」が出ないので言ったら、係の女性がガタビシ引き出してくれたが、気の毒なくらいの力業。テーブルは自力でと、ようやく引き出したものの見事な右下がりです。30年前の中国、北京から上海へ移動した飛行機を思い出しました。
こういう飛行機のコツは、「トイレに立たない、動かない」。トイレは汚さが想像できるし、あちこち観察すると、大丈夫?と恐くなるのが落ち!! 
二時間半くらいのフライトですから、じっと窓外、日没前の景色を見ている。イギリスの陸地が見えて、やがて海〜陸。いま書きながら地図を見ると、フランスの半島をかすめたのかも知れない。このあたりでは、シェルブールの傘屋さんの未亡人と美しいひとり娘を以前知っていました。 
それからまた海。これはフランスとスペインが抱いている「ビスケー湾」ですね。初めて知りました。ビスケーの意味不詳。このへんで水平線ならぬ雲平線?に没する太陽を見ました。垂れる水滴。光が絞られて小さな雫になり、それがポトリと向こう側に姿を消す。その瞬間まできれいに見えました。
で陸地。地図がなくともこれはイベリア半島、スペインだろう。もうポルトガル上空か、海岸線に沿って南下。街の灯が橙色一色で、数もほどほどに控え目。いくつか越えた街の、大きめのひとつは、ポルト市だろうか。ポルトガル第二の都市で、ポートワイン発祥の地。何も予習しなかった私の、たった一つのポ知識。
灯の数が増えて美しく拡がる中に、幅の広い真っ暗な帯を横切る一直線の灯の列。これはテージョ河にかかる長い吊り橋だったと、翌日付近を歩いて判明。もうだいぶ高度が下がってリスボンの街をなめるように飛びます。灯の密度、色、拡がり具合、ぜんぶが落ち着いて、私の好きそうな肌合いの街だ。
羽田よりもっと市街に近い飛行場ですから、ホテルまでタクシーで15分くらい。五連泊するのだからと、ホテルが用意したダブルの部屋をツインの大きめの部屋に替えてもらう。そのときのカミさんの「絶対替えて」とクロークに迫っている剣幕は、まことに力強い。
今日はもう外出せず、寝ましょう、という第一日でした。

こんどの旅行はポルトガルにしよう、とカミさんが決めたもの。理由は知りませんが、この数年来、老後を過ごすのにポルトガルはよさそうだ、と話題にのぼっていたことは事実。わたしはサンパウロに居る親戚と交流があるから、ブラジル・ポ語をここ数年断続的にカジっているので大歓迎。
わたしの海外旅行はそもそも遊びで、いつも予習は飛行機に乗ってから。時差調節のための読み物の合間に、数冊の案内書に目を通すくらいのものでした。それでもこれまでは何かと「知る・見る・確認する・人と会う」などの動機がありましたが、こんどはほんとに何もない。あけっぴろげのおバカ旅行、初めてのことだなー。「勤勉:浪費」という対比からフッ切れるレッスン。
でも、まあ、一ヶ月くらい前に「白の闇」という小説を入手して、出発前に読了。ノーベル文学賞を受賞したというポルトガルの現代作家ジョゼ・サラマーゴだって。知らないよね。内容は寓意小説というのでしょうね。とつぜん視野が白くなって失明する、という奇病が蔓延し、隔離収容する当局と患者たち、収容所内での、ちょっとした病状の軽重による争い。外の規制する側にもこの奇病があっという間に拡がって・・・。無法状態における人間研究みたいな小説です。リヴァイアサン?ありましたね。
ポルトガルの風俗が描かれているわけではないので、選んだ本としてはまことに不正解。また「白い闇」という命名が、そのまま病状の説明になっているだけで、人間の闇は「黒じゃなくて実は白い」の着想が深まらなかった。私的にはノーベル賞ならぬ残念賞。数年前、映画化されたってよ。
旅行から一ヶ月経って、いま読み始めた「海の見える言葉・ポ語の世界」という本にジョゼ・サラマーゴのことが出ていて、彼はイベルズモ(イベリア主義)を奉じるイベリスタである、とあります。「石の筏」という彼の小説は、イベリア半島が筏となって、ヨーロッパから千切れて大西洋に漂流するのだそうです。読むならこっちだったな。

それから「勤勉な私」が出発までに片付けてしまったのが「大菩薩峠」。この30年くらいで二度の途中棄権、こんどこそ完走するぞとスタートしたのが三〜四年くらい前だった。いらい枕頭の書(のひとつ)で、以前二回の到達記録はとうに塗り替えてはいたものの、十二冊の筑摩版の、残り一冊半、マラソンでいえば40キロ手前という処で、足が止ってしまっていた。もう面白くないのです。小説とは名ばかりで、中里介山居士が前面に出てきてしまって、下手な演説を延々とするので、勘弁してほしいのです。
でも、まあこの旅行がよいチャンスだからと、この一ヶ月で残りを飛ばし読みして、出発前日に読了。この大長編は終わっているわけではなくて中断なのですが、一応此処までの「各巻梗概」が最後に載っています。介山自筆によるという梗概は、ほんのほんの荒筋だけなのに10数ページあるのだから、居士が自慢する世界一の大長編であることは間違いない。これを読んでいると、こんなシーンがあったなー、と遠い昔を思い出しているようで感慨ふかいものがある。あの頃はまだ面白かった。登場人物が一人一人みなとても魅力的だった。
ざっと思い出しても十人以上はいる主役級の登場人物たちは、江戸と京都の両都市を繁く往復します。その途次、東は大菩薩峠から西は伊吹山中にいたるまで各地で大活躍するわけです。今でいう御当地ドラマなのです。取材旅行はずいぶんしたらしい。江戸と京都の街中でのお話が全体の半分近くを占めているでしょうが、そうした都市の描写より田舎・山中の描写のほうが、都会っ子の私にはずっと印象深い。すごく懐かしい、幼児体験みたいな。
山中深く旅している人に、遠くから祭りのお囃子のような音が確かに聞こえてくる。しかしそんなところに人々がいるはずない。これを「天狗囃し」と謂うそうで、この言葉を知ったとき、「大菩薩峠」にはいっぱい出てくるぞーと思いました。
時代は幕末で、京都と江戸の間だけの小説の中に、唯一例外は、江戸湾から出航して、いまは岩手・三陸沖に停泊している西洋蒸気船の一団です。居士はピューリタンの船出をイメージしていたらしい。新しい理想郷の建設を夢みているのです。
初稿が大正二年、こんど読み了えた最後分(中断)が昭和16年、真珠湾の直前です。31年間の断続連載です。そのあと戦後21年に死亡するまでの、太平洋戦争中の原稿はある筈というのですが、見つかっていません。
この31年間、大正から戦前昭和の「風俗を反映した文章」、つまり居士が小説中に顔をだして、時節柄の註をしてしまった文章、これにはなるたけ付箋をしておきましたから、何かエッセイの材料になるかも。こうして30年かけて書かれた小説を、私も第1回の挑戦以来30年かけて読んだのでした。
それから片付けたことのもう一つは原稿。これは「長唄」に関する解説で、ここ数年の〈断続かかりきり〉の仕事。この旅行で区切ろうと出発三日前に邦楽関係の編集者に渡しました。
こうして〈区切りの気分〉をムリにも演出して出立したわけでした。

さて次は、成田からロンドンまでの機中のおはなし二題。
ロクな映画もない中で、ビデオに「ポンヌフを包むクリスト」があった。いそいそと観る。クリストの作品は、もう20年前にもなるか、日本の茨城県とカリフォルニアの砂漠の両方に、傘を林立させた「アンブレラ」が圧倒的だった。
このビデオで、彼を支えて続けている婦人との出会いのエピソードが語られたが、ポンヌフといえば思い出す映画「ポンヌフの恋人」。その主人公たちの出会いとそっくりで、びっくりしてしまった。放浪貧乏画家と貴族の令嬢の恋愛です。頭がぼんやりしている飛行機の中で、こんなビデオを見たらば、もういろんなことが想起されてホン夢心地。
機中用に持参した本は渡辺保の「江戸演劇史」です。上下二巻1000頁の大部ですが、意外にも軽量なので持ってきちゃった。まあ私のように最近「長唄」の原稿を書いているから面白いのでね。「長唄」は歌舞伎の伴奏音楽として発達したものだから、私の原稿の底を厚くするみたいでとても役立った。往きで四分の一、復路で四分の三まで読み、帰ってから一週間で読了しました。
 史料をもとに「何年何月何日から何日まで、何座で、何代目団十郎がこんな舞台を演じた」と、読者がまるで数百年前の舞台を目の当たりにしているように描いているのがこの本の特徴で、渡辺保ならでは力業。
面白いのは此処でも「伴奏音楽」についての描写がゼロにちかいこと。「音」は残っていない。「史料」にもない。あっても文字情報からは再現するのはムリ。邦楽には譜面がなかったからね。「春琴抄」にあるように、ずっと「対面口移し」の稽古だったのです。譜面ができたのは、素人さんの稽古がすごく拡がった大正の頃、ほんの最近なのです。
西洋クラシック音楽の歴史と較べるとこれは大きな違いの一つ。作曲者の個人の栄誉は重視されない。著作権はあったとしても「杵屋何門が代々伝承した曲」くらい。
以上、第一日のリスボン、いきなり鈍行でした。お長くなりまして。
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