さんざん論じられてきて、もう何を言っても新鮮味のない話題だと思うので、あくまでも極個人的な観点から書く。そもそも、太田はともかく、松本はもはやお笑い芸人としては終わっていると考えているので、いまさら二人の芸人としての優劣(?)を比較しても仕方がないだろう。
まず言っておかねばならない。僕は「お笑い」は好きだ。でも、「お笑い」は主に社会に不満を持つ層の「ガス抜き」としての役割を果たしているという意味では、テレビに溢れる「お笑い番組」の盛況ぶりや、ちょっとセンスのある若者がこぞって「お笑い芸人」になりたがるような風潮は肯定できない。
外山恒一風に言えば、日本で若者たちが政治にまったく無関心で、「革命運動」がまったく盛り上がらないのは、異常なまでの「お笑い」の興隆に一因があるとさえ思っている。
いまや「お笑い芸人」の影響力を抜きにして、日本でカウンターカルチャーを語ることはできない。この国では、反体制運動の土壌たるロックも映画も文学も、すべてが「お笑い」に取り込まれつつある。もっとも、最近では、太田光などを通して、お笑いから政治への「逆流現象」も静かに起きつつあるような気配も感じるが、それについては後で述べる。
それほどまでに大きな「お笑い」現象を語る上で、90年代における松本人志の役割は絶対に外すことができない。「お笑い」というものにある種のステイタスを与え、芸能の他のジャンルに優越する位置に高めた貢献度でいえば、松本と太田では比較にならない・・・もちろん、この現象は「ビートたけし」という偉大な(?)先人の存在を抜きにしては考えられないことではあるが。
いかんいかん、極個人的な観点といいつつ、つい大上段に語ろうとしてしまった。
一人の人間として、太田光は好きだ。松本は品性が根っから卑俗で、人間としてどうしても好きになれない。これは生まれ持っての体質だから変わりようがない。「さんま」にも通じることだが、吉本で売れる芸人には、一種何とも言えない、人間的ないやらしさがある。他人を押しのけて、浅ましいまでに自己を高く見せようとする下卑た根性を感じる。この点、「非」吉本の鶴瓶なんかには不思議とこれを感じない。
ダウンタウンは当初「引きの芸」と言われ、前へ前へと出ていく従来の関西芸人とは逆の笑いを追求してきたと言われる。しかし、本質においては、従来派の脂ぎった関西芸人根性を明らかに引きずっている・・・いかん、また一般論だ。
正直、「お笑い芸人」としての太田光や爆笑問題には、つい最近まで何の興味もなかった。コントや番組企画を通して松本人志のつくる「笑い」には以前から関心を持ち愛着を感じてもきたが、時事ネタやボキャブラネタなどが売りの太田光の「笑い」には何の関心もなかったので、まったくスルーしていた。
僕が太田に注目したのは、ここ何年か、政治的な発言が目立つようになり、いわゆる「ネット右翼」から「サヨ」のレッテルを貼られているというのを知ってからである。中沢新一との対談本を読んだりして、その思想的傾向の当否は別として、なかなか物を考えているなあ、と感じて印象が変わった。
それから、彼の「本業」である漫才や番組でのトークに、過去に遡って耳を傾けてみた。そこには、松本のような斬新さはなかったが、別の意味での鋭さがあった。作り込んだ完成度はないが、瞬発力のあるひらめきがあった。そして、松本とは違って、毒はあるが決して不快感を残さない笑いを生み出していた。
二人は対照的だ。太田光は本質的にインテリで、理性的な思考をするが、松本は本質的に大衆で、野卑な感情と渾然一体となった物の考え方しかできない。だから、松本のつくるコントには、ルサンチマンの塊のような、ひたすら不快な印象しか残さないものがある。その路線でかろうじて作品として昇華されたのは『とかげのおっさん』だろう。
僕が太田を見る気にならなかったのは、どこかで「似た者同士」という感覚があったからでもある。太田の発想は、どうせ自分の発想の延長線上にあると思っていたので(もちろんレベルは全然違うが)、改めて耳を傾ける気にならなかった。見なくても解っているというか。しかし、松本の発想は、自分からはどうしても出てこない。だから見るたびに感心したし、新たな発見があった。
「とんねるず」と「ダウンタウン」が試合するとしたら、絶対にダウンタウンを応援する。でも、「ダウンタウン」と「爆笑問題」なら、爆笑問題を応援すると思う。
ついでに、少し長いが、1999年に松本人志について僕が書いた文章を貼り付けておく。
考えたら、ビジュアルバムが出てからもう10年経ってしまうんだよなあ。
この10年間、松本の進化が止まってしまったおかげで、「お笑い」は表面的な隆盛とは裏腹に停滞期を迎えている。
今は、鳥居みゆきが時代を画する才能になるかもしれないと期待している。
1999年10月現在、松本人志は微妙な位置にいる。1997年9月の「ごっつ」終了が彼(及びDT)のキャリアの大きな曲がり角になったことは疑い得ないところである。
あれ以来、一言で言えば松本の活動はそれまでの破竹の勢い、順風満帆、天下制覇の時期を過ぎて、新たな試行錯誤の時代に入った。一旦トップに登り詰めれば、あとは落ちるしかないというのが世の常である。天才松本人志といえども無論その例外ではない。
1998年、かつての「お笑い界」の覇者ビートたけしと対談した彼は、「30代後半になると反射神経やアドリブ能力が落ちる時期が来る」と意味深い薫陶を受けた。
松本自身折しも30代後半に突入、テレビでは「ごっつ」なき後「ガキの使い」「ヘイヘイヘイ」「DT DX」のみの露出が続いたこの2年近くの間、とりわけ「ガキ」のフリートークが以前ほど面白くないという声をあちこちで耳にする。
確かに僕自身、以前のようにフリートークをビデオで繰り返し見ることもめっきり少なくなったし、見ていても笑えないことが多くなってきた。さらに、あってはならないことだが、いわゆる「さむい」気分を味わうことすらある。
企画モノにしても、ここ1年くらいの「ガキ」のオープニングで繰り返し見るに値するだけの面白さを持った企画は両手にあまるほどしかない。はっきり昔のパターンの使い回しと思われるものも目立ってきた。
最近特に「さむかった」のは「ようかん夫妻」という出囃子の公開レコーディングであった。
和田アキ子を迎えて松本作詞作曲のコメディソングを客席の前で録音する(バックの演奏は山崎とココリコが務めた)という企画だったが、和田の歌と演奏がかみ合わず、松本の指示も不手際が目立って、長いし退屈だし、実際見に行った人は辛かったろうということがオンエアからも伺われる内容であった。(不評だったにもかかわらず半年以上この出囃子を続けているのは松本の意地かもしれないと勘ぐりたくもなる。)
また、ファンの間で話題になったフリートークでの「浜ちゃんマジ切れ(?)事件」も記憶に新しい。これは9月オンエアの「ガキ」のフリートークで、ハガキに対して「ボケるのが邪魔くさい」等と言ってふてくされた態度を取った松本に浜田が一瞬本気と思える様子でつっこんだというものである。
もちろん二人はそれをすぐさま「怒る浜田とびびる松本」の演技に変え、全体のシーンを笑いへと転化させたが、これがファンの間で話題になったのは、その背景に「最近松っちゃんのボケが鈍っている」という視聴者の共通の不安・疑問があったからだということは否めない。
最近の松本は視聴者のハガキに対してボケきれずに逆切れで逃げたりうやむやに誤魔化したりという手段に走ることが確かに多くなったのは事実である。もちろんそれはそれで笑いにつながってはいるのだが、新しいパターンの笑いというよりは「松本」のキャラを前面に押し出すことによるごり押しの笑いという要素が強い。
これは「引き」の笑いがDTの出発点であり、そこに松本の真骨頂があると思っている僕にとってはまったく逆行的な現象である。そもそも松本の笑いはしつこいくらいに前面に出てきて笑いを取ろうとするそれまでの大阪(吉本)の笑いに対するアンチ・テーゼとして始まったものではないのか。紳助が当時無名の若手だったDTの漫才を見て脅威を感じたのも、松本のボケに紳助自身の「引き」で笑いを取る高度な芸風の巨大な才能を見たからではなかったか。
ところが最近では舞台の松本はいつもやたらハイテンションで、肩を怒らせて気張って笑いを取りに行こうとする姿勢が露骨である。それが最初に激しく露わになったのは、「ごっつ」が終わってしばらく後に、DTがウッチャンナンチャンと鶴瓶が司会を務める「いろもん」のスペシャルゲストに招かれた時のことである。
同年代の仲間としての気安さから終始リラックス・ムードのUN、同じく肩の力を抜いた(少なくとも外見上はそう見えた)浜田、自分より大きく成長した後輩に対して幾分自虐的な態度を見せつつ、いつもの細やかな笑いへの気配りを見せる鶴瓶という面々の中で、松本だけはその「笑いへの闘争本能むき出し」のハイテンションな姿勢で異様に浮き上がって見えた。
そして少なくともあの場においては、松本の実力が(普通のトーク番組の中でも)桁違いであることが証明された。あの番組を見た視聴者の大半は「やっぱり一番おもろいのはダウンタウンや」と思ったであろうし、実際松本はそう思わせるために全力を尽くしたのだ。
しかし同時に、そこまで必死になって自らの実力を誇示しなければならぬほどあの時点で松本は追いつめられていたのだ、と逆の側から見ることも可能ではなかったか。(しかし彼は何に追いつめられていたのだろうか? 単刀直入に答えを言うと、「テレビ」に、である。しかしこのことについては後で詳述する。)
当時松本にインタビューする機会を持った「CUT」編集長渋谷陽一もこのことに気づいていた。(ただ彼は実際のインタビューにおいてはあくまでも松本の才能を持ち上げる形でこのことを指摘するに留めている。
渋谷と松本のつき合いはこのインタビューをきっかけとしてその後も続き、1999年1月には松本語り下ろしの自伝「松本坊主」をロッキン・オン社から発売することになる。渋谷はその間松本の番組やビデオ制作に深く関わっている「ワイズ・ビジョン」という会社と一緒に仕事し「吉本とは意外に相性がいい」などと発言していた。)。
ちなみに先述の「浜田マジ切れ(?)事件」には、視聴者の間に高まっている「疑惑」を(おそらくインターネットで)知った松本が次週のオンエアで「笑いを理解しない」視聴者に対して激しく怒ってみせるというおまけがついている。しかし結果的にファンの間ではこれに共感し「面白かった」という意見と「よけいにさむかった」という意見が分裂することになった。
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「ごっつ」以後の松本の活動の中で最も特筆すべきは、1998年から1999年にかけて発売された一連のコント・ビデオ「ビジュアルバム」の制作だろう。
テレビというコント作品発表の場を失った(「ごっつ」の後には「一人ごっつ」が残されたとはいえ、時間枠や予算の限界のため十分な制作活動ができず、コントの発表は早々に放棄された)彼が時間も資金も潤沢に投資することのできるビデオという媒体に目を向けたのは自然なことである。
このビデオの出来には松本自身かなり満足しているようで、「よいスタッフに恵まれた」と色々な場で語っている(これは「ごっつ」で陥ったスタッフ不信への裏返しとも取れる発言である)。
実際その中身は確かに素晴らしい。現在の松本が持てる力をすべて出したと言ってよいのではないかと思う。あの立川談志にすら「見事なイリュージョン。これを見て俺は間違ってないと思った」と言わしめたほどである。気鋭の喜劇作家三谷幸喜も脱帽している。
これらの作品は、「寸止め海峡(仮題)」と並ぶ「松本人志ワールド」の最高傑作として後世に残るだろう。ただ、完成され過ぎていて見る者に緊張を強い、テレビのコントのような力を抜いた(ポップな)面白みに欠けるという声もあるのは確かだが…。では、しばらくこの傑作コント群について順に論じていくことにしよう。
まず、第一巻「約束」。個人的には全三巻を通じて最高の出来だと思う。「俺の実力を見せつけたる」という松本の気負いがここでは(テレビでのように)空振りすることなく、そのまま力強さの印象を見る者に与える。テレビという制約の多い場を離れた彼の自由と喜びに溢れた創造性が存分に発揮されている。個々の作品の充実度、全体の流れ、構成も文句なし。
「システムキッチン」は「ビジュアルバム」の始まりを飾るにふさわしい快作。ここでは現在テレビでは見ることのできない松本の「引きの芸」を堪能することができる。「引きの芸」の定義は色々とあるが、その中には「通常ではとうてい笑いにつながらないような場面を笑いに転化させる才能」が含まれる。松本はまさにその天才である。
ただしこれは見る側にも特殊な感性が要求される点で一般的な「受け」にはなりにくい。しかしその「不可能」を「可能」にしたのが松本人志の表現者としての最大の業績であろう。それは彼が見る者の感性を変化させた(「進化させた」のかどうかはまた別に論じる必要がある)、さらに言えば「意識を変えた」ということである(DTはよく「客を教育する」という表現を使う。)。
「システムキッチン」は見る者に対する挑戦状でありマニフェスト(宣言)であると評した人がいるが、これを見て面白いと思うかどうかで笑いへの感性が決定的に問われるリトマス試験紙的な特性を持つという点で、確かに象徴的な作品であると言える。
前置きが長くなってしまったが、コントそのものの内容について見ていこう。不動産屋に若者(30過ぎ位)がマンションを探しに来て、二人が物件について相談している場面から始まる。(映像はまるで映画のように処理されており、独特の効果を上げているが、とりあえずそのことについては深く触れないでおく。)
この場面の最初の方で早くも、不動産屋が分裂症的な人格の持ち主であることが明らかになり、松本の笑いを見慣れた者にとっては、これが彼得意のアブノーマルな人格を扱ったコントであることが分かる。
つまりこのタイプのコントは明確な「落ち」を持たず、松本扮する異常人格者の多種多様な「異常」「脱論理的」「破天荒」「不条理」なパフォーマンスで笑いを誘う展開になっている。平たく言えば「わけがわからん」ことに対する笑いである。(このタイプのコントはシュールレアリスムの自動書記のようなもので、演っている本人にもまったく先が見えず、松本によれば「続けようと思えば延々と続くし、終わろうと思えばいつでも終わることができる」。)
しかし、この最初の場面(不動産屋の中)ではまだ松本の発言はかろうじて論理性を保っている。浜田が一人暮らしするつもりなのか(同棲するつもりではないのか)、芸能人やロックミュージシャンではないのか(うるさい物音を立てたりしないか)を確かめることは、ややしつこい嫌いはあるが、不動産屋としては理解できる質問である。乱暴にメガネを放り投げたり、急にタメ口になったり、微妙な「異常さ」を感じさせる部分はあるが、全体としてまだ決定的に「異常者」と決めつけることができるほどではない。
次の場面は、二人が目当ての物件に向かって歩いていくところである。ここで交わされる会話がまた微妙なところを突いている。しかしここでもまだ明確な「脱論理」は生じていないことに注目してほしい。
そして、いよいよ第三の場面、マンションの中に入る。このマンションの場面はさらにいくつかの場面に分割される。
それまでくすぶっていた不動産屋(松本)の脱論理性が最初に否定できない形で明らかになるのは、風呂場のシャワーを指さして浜田が「カランって、どういう意味なんですかね」という意味のことを冗談めいた口調で尋ねた時である。ここではまだ若者(浜田)は不動産屋(松本)と普通のコミュニケーションが可能であると素朴に信じている。
しかしそれに対する松本の答えはその(すでに危うくなっていた)信頼を無惨にうち砕く。曰く、「丁寧語やね。」しかもその言葉は(あたかもコミュニケーションを頭から拒絶するかのように)吐き捨てるように発せられる。見る者は、これを合図として、松本の言動が加速的に脱論理化に向けて進んでいくことを予感する。
そしていよいよシステムキッチンの場面。ここで松本の発言は一気に無重力空間へとワープする。このダイナミズムは実際に見てみないと文字では伝わらないだろうから、ここでは具体的にセリフを書き起こすことはせず、二人の「内面のドラマ」を追っていくことにしよう。
手始めに、浜田からこのキッチンは何畳ぐらいあるのかと尋ねられたとき、松本は何ともあやふやな答えしかしない。その困惑した返答ぶりはとてもプロの不動産屋とは思えず、あたかも部屋の広さなど何が重要なのかとでも言いたげな態度である。
引き続いて浜田にキッチンの装備の欠陥を追求されたとき、松本の困惑は一気に開き直りに変わる。それまで常に「守り」の姿勢に立たされていた松本が一気に「攻め」の姿勢に転じるのがここで、その合図が「これ、完全にシステムキッチンやからね」という説明(?)の開始である。
しかしその説明たるや結局のところ何の説明にもなっておらず、浜田に何を尋ねられてもその場しのぎの支離滅裂な答えにしかならない。普通の客ならここで「席を蹴って」帰ってしまうところだが、一緒にマンションまで来てしまった以上、退散するわけにもいかない。
そこで何とか松本の言うことを理解しようと努力するが、松本の説明は「飛ぶ」一方で、ついに浜田もこの男とまともにコミュニケーションすることに匙を投げ、「お前の言うことわからんわ」と松本を「お前」呼ばわりするまでになる。
ここで、不動産屋の内面に少し迫ってみよう。システムキッチンの説明を始めたものの結果的に墓穴を掘り、支離滅裂な言い逃れでその場を取り繕い続けたり、キッチンの不備を指摘されても居直る彼の態度は、顧客の満足を引き出して契約させる不動産屋としての義務を果たそうという気持ちが空回りしたというよりは、むしろ客を挑発して楽しんでいるかのように見える。彼は誰に対してもこんな調子で接しているのだろうか。それとも何かこの客(浜田)には特別なものを感じているのだろうか。それは次の場面で明らかになるかもしれない。
二人は次にリビングに入る。ここで二人の関係はまた不思議な変化を辿る。松本は相変わらず浜田の質問をはぐらかした後でおもむろに以下のように切り出す。正直ここまで二人の関係はお互いカリカリしていた部分もあったけれど、このリビングにきて何もかも解放されたような気がする、と。
見る者にはいかにも唐突な印象を与えるこのセリフだが、実はその伏線は以前の場面にあったことはこの文章を読んできた人には分かるだろう。つまりこの時点で、この不動産屋の関心は始めから商売ではなく浜田そのものにあるということがはっきりするのだ。だから松本は立て続けにビジネスの場にはそぐわないプライベートな質問(例えば「自分、高卒なん?」)を畳み掛けるように浜田にぶつける。次の瞬間、二人は超接近して立ち、一転して部屋に妖しいムードが漂う…。(未完)

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