2017/1/22 | 投稿者: pdo

高峰秀子の言葉(Bot)より。

私には、身内から戦死者を出した経験はないけれど、私のブロマイドを抱いて、たくさんの兵士が北の戦地を駆けめぐり、南の海に果てたことを知っている。

シナ事変から大東亜戦争の終わりまでの間に、私は何百通、何千通の手紙を前線の兵士から貰ったけれど、ほとんど返事を書いた記憶がない。返事を書こうにも、相手の住所も名前も書いてない手紙が多かったからである。今、思えば、それらの手紙の一通一通は、まるで遺書のようなものであった。

終戦も近くなったころ、私たちはほとんど航空隊ばかりを慰問していたが、明朝特攻機で出撃する航空兵を前にして、一体どんな顔をして歌ったり踊ったりしろというのか、あんまり情けなくて、バカバカしくて、怒り出したくなり、わけのわからぬ口惜し涙のようなものが出てきて仕方がなかった。

慰問袋から飛び出した私のブロマイドは、いつも歯をむき出してニッコリと笑っていただろう。兵士たちは、私の作り笑いを承知の上で、それでも優しく胸のポケットにおさめてくれた、と思うと、やりきれなさで身の置きどころがないような気持ちになる。

ある日、大阪から一通の重い封書が届いた。中には半紙に包まれた私のブロマイドが一枚、それも血と泥に汚れて色が変わり、よれよれになったブロマイドが同封されて、「戦死した一人息子の遺品の中にありました……」と、涙ながらの筆のあとに、私への感謝の言葉が長々とそえられていた。

男たちは戦争をした。男たちは戦争に負けた。自業自得である。ワリを食ったのは女たちである。「付き合いきれない」。それが女たちの本音だった。敗戦を境にして、「女が強くなった」と、私は思わない。けれど、敗戦によって、女がはじめて男の正体というものを識ったのは事実だと思う。


昭和二十五年に、それまで専属だった新東宝映画を飛び出して、フリーランサーの第一号として一匹狼になった私には、所属するプロダクションもなく、マネージャーもいなかったから、なんでもかんでも、自分のことは自分でしなければならなかったのである。

何時か、一人で銀座を歩いていたとき、すれ違った男性が「チェッ、すましてやがら!」と呟いた、とたん、私の口から「ニヤニヤしながら歩けるかい!」と大声がとびだして、我ながら驚いたことがある。


映画人という人種は、現金で、よい映画に弱い、というのが世界に共通する定義です。どんなに親切でも、どんなに世渡りがうまくても、金持でも、その人がよい仕事をしなければ、映画人として私は認めませんし、尊敬もしません。そこが映画界のきびしさでもあり、私の好きなところでもあるのです。


心の美しい人は、真実、その顔も美しい。心貧しければ、その貧しさを、心おごれば、そのおごりを、鏡は容赦なく映しだす。上っつらだけ気どろうが塗りたくろうが、それはアサハカ以外のなにものでもない。


私は女優という商売が好きになれなかった。でも辞めることもできない。なら、せめて、“はらわたのある女優”になりたいと思ったの。熱帯魚みたいに、水槽の中でヒラヒラとはらわたがあるのかないのかわからないような、ただ綺麗なだけの観賞魚にはなりたくなかった。

「女優のこの人は私じゃない。私は別にいる。商売上やってる」という思いが、もう十代の頃からハッキリとありましたね。自分はずっと人の書いた台詞を喋ってきたけど、本当はてめえの台詞があるんだよっていうのが小さい時から溜まってたんだね。

私の場合、非常に幸運だったと思うんです。ちょうど、映画が全盛の時に私がそこにいたわけですから。

日本映画がピークのときにそこにわたしがいたということです。そのときたまたまわたしがいた。ですから、そういう意味では自分は幸せな俳優さんという感じですね。

戦後から昭和三十年までですね。三十二年ぐらいからテレビが出てきて、ガタガタッとなりましたでしょう。そのころには私の方もくたびれちゃって仕事を選ぶようになっていて、だからちょうどよかった。今みたいな時代に出たくないですもん。変なエロ・グロ・ナンセンス映画に。


女は女にすかれ、男は男にすかれ、役者は役者にすかれることほど“確かな”ことはないと私は思っている。


映画批評だって浅ましい位ガツガツ気にします。でもいいんですよ、悪く書かれたらそれはそれで、気にして気にして、それで少しでもフンパツして上手くなりゃ儲けもんというものです。


とにかく、首をズーとめぐらせなければならないほど大きいスクリーンで、映画を一度みて欲しいの。それから、大勢で同じものを見るということねえ。茶の間でひっくり返って、一人でアクビしながら見るのと、ぜんぜん違うもの……。

映画は、ベルトコンベアで缶詰を作るのとはちがう。大勢の人間が集まって、お互いにその人間の能力を尊敬しあい、足りないところはおぎないあって、暗黙のうちに、より優れた作品を創り出してゆこうとする血の通った、情の要る仕事なのだ。

自分でいられるのは一日のうち、撮影所から帰って、ご飯食べて寝るあいだ、二時間くらいのもので、眠ればまた役のユメなんかみてるんだから……。それがこのごろは、やっと自分だけになって、うれしい。


まず、原作を三度読む。はじめは、原作全体の掌握。その次は克明に。三回めは私が演じる人物だけを抜き出して読む。これで原作とはサヨナラをして、映画化の「脚本」のでき上がりを待つ。原作にこだわりすぎると、手も足も出ない、という状態になることもあるからだ。


一本の映画は、平均して二百カット前後の小間切れカットの連続によって完成されている。その中の、わずか一場面、たったの一カットでも、人々の心に長く残れば、その映画は名作である、と私は思っている。


クローズアップで、例えばまばたきを一回するか、二回にするか、それも長いまばたきか、みじかい奴か……たったそれだけでも意味がガラリと変ってしまう。


映画の場合、ほんとうに泣いてしまったんじゃいけないの。どんなに気持ちをこめてやっても、その実は、わからせようわからせようと一生懸命なの。だから私たちは、どんな場合にも、役に溺れこんじゃうということはないのよ。


【原節子】あの人もふだんはふつーの人なんですよ。ライトが当たると豹変してスターに(笑)。十人一室の中にいると「セッちゃんどこ?」ってそういう感じでしたよ。


太宰治の最後の作品、遺作になった『グッド・バイ』。新東宝で映画化されましたけどね。あれは私に書いてくれたの。でもね、半分書いて死んじゃったの。少し無責任だと思わない?


ウラカタさんの中には、矢張り何かスタアなんてものを特別な目でみる人もいて、それが一ばん淋しい辛いことだ。もっと皆仲良くなれないものかと思う。スタアなんてものは、しょせん世の中へ出れば色眼鏡のかけられ通しなんだから、現場のシュン間、それだけが、ほんとに、生きていることなんだから。


映画界はたくさんのことを私に教えてくれたが、その中で「どんな時でも、自分を第三者の目で、つき放して見ること」、これが長い私の映画生活から得た第一の教訓であり、俳優という仕事を持つ私にとって思わぬ助けともなったわけである。

私はお世辞言わない、お追従笑いしない。だから話の継ぎ穂がなくて間がもたないわけ(笑)。

それにしても、芸というものは、なんとキビしく恐ろしいものだろう。どんな芸能も、ひと目、というわけにはいかないが、五分も見聞きすればその人の芸に対する精神のありかた、鍛錬の有無、才能や人柄までが分ってくる。

撮影所では、男も女も大人も子供もない。あるものは「才能」の競り合いだけである。


シナリオは映画作品の土台になる設計図である。優れた設計図を手にしたときのスタッフたちの誇らしげな表情、高揚した精神はそのまま現場での作業へとつながってゆく。

シナリオの読み方などというものが、あるかないかは私にはわからない。けれど、シナリオのどこかにキラリと光る部分がある、とか、台詞がこなれている、とか、ストーリーの展開に抵抗がない、とか、そうした魅力が感じられれば、私にとってそのシナリオは、「いいシナリオ」なのである。

どのシナリオも、シナリオ・ライターが精魂こめた作品にはちがいないけれど、俳優には俳優独自の選択眼があり、俳優として目指す方向もある。不遜な言い方かもしれないが、どのシナリオを選ぶかは、自分の持つ一種のカンのようなもので決めるよりほかはない。

私の場合でいうなら、映画界のややこしい人間関係の中で、義理を欠き、人に何と言われようと、終始一貫、「家族連れで見られる映画」にのみ出演する、という姿勢を頑固に押し通してきた。


〈人生とは、ただシャニムニつっ走るばかりが能ではなくて、無駄や無為もまた必要なんだなァ〉ということが、このトシになってやっと分ってきた。


たくさんのファンに囲まれ、優れた監督さんにめぐり会い、うまい俳優さんと出会い、汗を流すことを決していとわない立派な裏方さんたちと、一本一本の映画を作ってきた。そういう意味では、私は最高に幸せな人間だった、と思う。
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2017/1/21 | 投稿者: pdo



本日発売の『映画秘宝』2017年3月号は「のん」コレクターはマストバイ。

もっともこんなニッチなブログを読んでいる「のん」さんファンなら敢えて強調する必要もなく間違いなくお読みになると思われますが・・・

ネタバレになるので今は内容は一切書きませんが、のんさんが橋本愛さんやビートルズや清志郎について語ってます。

のんさんは「2016年HIHOベスト・ガール」にも選ばれてます。

こんな女優が2017年に1本も映画に出ないなんてことがありえますか?

なぜそんなことが起こり得るのか頭の悪い僕には理解できません。

頭が悪すぎて、新宿ピカデリー1月25日の片渕監督と「のん」さんの舞台挨拶付上映回のチケットを買いそびれましたorz

代わりに『君の名は。』でも見に行くか。まだ観てねぇし
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2017/1/20 | 投稿者: pdo

『美術手帖』ののんさんの「大きな絵」の写真が小さい! と文句を言ったら、

奈良美智さんがツイッターに大きな写真を載せてくれた。

(文句を言ったからじゃないと思うけど)

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タイトルは「ちきゅうの女王」。

(クリックして拡大して見ることを推奨)

世界的に評価されているポップアート作家で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やロサンゼルス現代美術館に作品が所蔵されるなど日本の現代美術の第二世代を代表するひとりでもある(*)
奈良美智氏曰く、

*ウィキペディアより

俺はね、め〜〜ちゃ良いと思うんだけど。

だって。

俺もね、め〜〜〜っちゃ良いと思うよ。



賢治はベートーヴェンを敬愛していた。花巻農学校でベートーヴェン百年祭レコードコンサートを企画したのも賢治だった。そればかりか、同時期に農学校付近の野良で、つばのある帽子に厚手のコート姿で後ろ手に組んでうつむきがちに歩く自分の写真を撮らせているが、これはなんとベートーヴェンがウィーン郊外のハイリゲンシュタットを散策するのを「模倣」して撮らせたものだという。

ベートーヴェンの有名な「運命」交響曲も大好きだった。賢治の感想「繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ」も興味深いが、「おれも是非ともこういうものを書かねばならない」と奮起して書き始めたのが『春と修羅』と題する心象スケッチだったという弟清六の回想がさらに印象深い。

もう一つ有名なベートーヴェンの田園交響曲も賢治の作品と無縁ではない。賢治は、大正11年(1922年)5月21日、岩手山の南東山麓に広がる小岩井農場を一日がかりで歩き、その折々の実景と心象風景を画家がスケッチするのと同じように言葉で紡いでスケッチしたが、この長編口語詩『小岩井農場』は、ベートーヴェンの田園交響曲の手法を踏襲したものだった。

著者は、「ベートーヴェンの書き留めたのが五線上の音符で、賢治のそれが彼独自の言葉の音符だったに過ぎない」という。賢治が所蔵していたレコードの中ではベートーヴェンが一番多かったというくらい、この楽聖への思い入れは強かったようだ。

根井雅弘京都大学教授による書評より)


俺はこう言おう。

「ベートーヴェンの書き留めたのが五線上の音符で、賢治のそれが彼独自の言葉の音符だったに過ぎない。そしてのんは彼女独自の<それ>の表現方法を持っている。」

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2017/1/19 | 投稿者: pdo

昨年11月18日に『この世界の片隅に』をテアトル新宿で観て以来、このブログは、ほとんど毎日「のん」(本名:能年玲奈)のことしか書いていない状態が続いている。

それほどあの映画が自分にとって衝撃的だったということでもあり(あれから2か月以上経った今も、映画の観客動員は増え続けている。あの衝撃が日本中に広まりつつある)、「のん」の長いブランクからの復活が嬉しかったということでもある。

しかし正確に言えば、「のん」の復活はまだ成し遂げられていない。彼女は未だに活動に大きな制限を受けたままだ。本名を名乗ることも許されていないし、テレビ番組への出演も制限されているし、本業である女優としての仕事のオファーは正式にはまだ存在していない(少なくとも公表されていない)。

そんな中でも、服飾レーベルkeisuke kandaのモデルをしたり、雑誌のモデルで東急ハンズに行ったり、ひいてはJA岩手の宣伝本部長を務めるなど、大人の事情をかいくぐっての懸命のゲリラ戦を展開している。こうした姿を見ると、心から応援したくならずにはいられない。

今週発売の週刊新潮によれば、歌や踊りのレッスンをしていて、渡辺えり主宰の劇団3○○がいろいろと企画を立てているとかいないとか。

とにかく年始から絶え間なく色々な動きがあって、目が離せない。「のん」がその本来の天職である「女優」として復活するまでは、このブログも「のん」応援体制を解くことはできなさそうだ。

もちろん単純に追いかけているのが楽しいというのが最大の理由。

どうか、まっすぐ!楽しい!ストレート道!をこれからも貫いてくださいませ!

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というわけで、このブログのタイトルを“INSTANT KARMA!”から“#7 DREAM”に変えました。

ジョン・レノンの#9 DREAMという曲から取ったものです。

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ずっと前のことなんだけど

あれは夢だったのかな?

ただの夢だったのかな?

いや、そうじゃない 確かにあったんだ

とってもリアルだったんだ

僕にはすごくリアルに感じたんだ


通りを歩いていた

熱で木々たちが囁いていた

そうしたら聞こえる気がした

たしかに聞いたのさ


誰かが僕の名前を呼んだ

そうしたら雨が降りはじめた

二つの魂がとても奇妙なダンスを踊っていた


Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse



夢だろうか? ただの夢なんだろうか?

空に漂う魔法なのか?

空に漂う魔法なんだろうか?

いや僕は信じる 本当のことだったんだ

それ以上は言えないよ

何が言えるっていうんだ?


音の河の上に

鏡を抜けてぐるぐると回ったんだ

そうしたら感じた気がした

たしかに感じたのさ


音楽が僕の魂にふれたんだ

何か暖かくて、突然冷たいものが

魂のダンスが広がっていったんだ

Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse

Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse

Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse

Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse



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2017/1/18 | 投稿者: pdo



BTだいたい読んだ。

アウトサイダー・アートの特集号に「のん」を表紙にした理由がなんとなくわかった。

アウトサイダー・アートというと、精神障害者の作品、というくくりにされがちだけれども、「本当にやむにやまれず、生き続けるためには表現するしかない」という凄みを感じさせるものであり、芸術の原初的衝動を体現したもの、という定義の方がふさわしいようだ。

のんさんも、「抑えきれない、表現せずにはいられないもの」をこれからも表現していってほしいと思う。

妹からは「お姉ちゃんは女優の仕事をやれてなかったら何もできずにのたれ死んでる」と言われてるらしいし(笑)

それにしてもせっかくのんさんが「大きな絵」に挑戦したのに、完成品の写真が小さすぎるよ! 

日本でもアール・ブリュット展がさかんに行われるようになってきているとか。

たしかに面白い絵が多い。

「ワルイちゃん」は、実は時代の最先端なのかもしれない、と思った。


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作品名:無題(制作年不詳)
M・K(1978年生まれ 滋賀県在住)
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