妄想日記    
 私の自慢の蔵書  えっせい

 
 などという特別な書物は、私には無いかもしれないけれど、それなりにその時々に傾倒して来た作家の本は、結構殆ど読破してしまうので、書棚にもそれらが集まっていたりする。
 中1の時は武者小路実篤、中2から高校の頃は太宰治、後はいろいろあるけれど、二十歳過ぎてから三島由紀夫にすっかり傾倒して現在に至っている。
 勝手に命名した三島組の本は、例えば美輪明宏の本も殆ど読破、某画家の本も同様である。
 そして、先祖の平家関連の本。
 間には同じく純文学から、推理小説、sf. 時代小説、哲学、詩、各定型、その他各専門入門書まで、海外もあらゆる本を読了していったけれど、整理されて書棚から入れ替わり消えていった本も多いけれど、それでも面白かったものは、何10年も経ってからまた読みたくなり、再び買い求めることもあったりする昨今である。
 漫画では、萩尾望都、大島弓子、特に前者は文学の本と共に、嫁入り道具に入っていた。
 近代文学全集、料理全集、百科事典なども彩りを添えた。
 書棚は大抵3個くらい、しかし増殖する一方である・・。
 今、どうしてもまた読みたい本は、くらげのおつかい と パール街の少年達。
 私の書棚には、私の人生の歴史が沢山詰まっていたりする。
 
011.11.27
 
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 仮題・家族の肖像   母・愛子  えっせい

 
 母は昭和3年2月22日生まれ、現在、82歳、末っ子の私が生まれたのは、母が30歳の時だから、後の計算が簡単である。 母は昔から私が本を読んだり、物を書いたり、ひいては勉強するのすら厭がったものだったけれど、私が30を過ぎたある日、お母さんの小説を書こうか、と言うと、
彼女は喜んだのだった。 勉強はしなかった私だけれど、読書だけは大好きで、本の虫だったから、読めば書くのも至極当たり前の事だった。 大体、母が反対と言うのは、大抵が嫉妬だと思う。 それでも、私の新聞投稿の記事を切り抜いて、持ち歩いていたそうだから、やってしまえば喜びなのだろうか。
 母の生まれた場所は、人里離れた平家の落人村だった。 だからバスも通っていないし、里帰りは歩きか白タクで、私の子供の頃の良い想い出となっていたりする。 その頃には、まだ五つ上の兄も生きていたし、七つ上の姉と、同じ村出身の父と一緒で、家族で楽しかったものだった。 
 何だか泣けて来るのは、その5人家族が、今はもう3人しか残っていないということだろうか。 それとも、楽しかった過去が想い出されて、哀しいのだろうか、双方、追憶だ・・。 姉はその田舎で生まれ、兄は市内の教会以前の建物に生まれ、私は元の実家の長屋に生まれ育った。
 後に長屋は切り離され、2階が増築されたのは、私が小学6年の頃で、元は母の従姉妹がその家に住んでおり、買い取ったものだったらしい。  母は長女に生まれ、計8人の弟妹がいて、父も長男だけれど姉のいる、同様に計8人の兄弟姉妹であった、戦時中の産めや増やせやの時代の事である。  
 母の学歴は、尋常小学校だと言われていたので、本当に小学校だけかと思っていたら、当時の小学校には中等部が別にあったらしい、つまり、尋常小学校中等部とか、本当だろうか・・、別の名称が無いか、後で調べてみよう。 しかし、その事を知ったのは、つい最近、といっても、
10余年くらい前の話である・・。 そんな有様だから、母の小説を書くことが、如何に困難?であるか、お解り頂けると思う・・。 そのまま書けるくらいに話してくれれば、名作の1つでも書けるかもしれないのに・・。 つまり、何でも断片的で長く繋がらないから、なかなか書けないでいたのもあった。
 なるほど、そういう書き方もあるのだな、ということで、ある本の書き方も参考となった。 世の親等の伝奇・・違・・物語を、それは伝記でしょうけれど、私は余り読んだことは無い、偉人伝以外は。 で、あるがままに普通に綴ってゆこうと思うのだけれど、果たして母は、私の書いた物を読むだろうか。
 酷い老眼と、そして、読んだとして、どんな感想を私に言うだろう、また書くなとか言われた日には、がっかりするだろうけれど、喜んでくれれば、私も嬉しい。
 私の母の最初の記憶は何だったろうか。 よく母は、 あんたそんな事を覚えているの?? と、びっくりすることがあった。 例えば、叔母の離婚で家裁に行った日、叔母のお見舞いに行った日、いろいろな所に母に付いて行った日のことなど、私には普通に記憶として残っているのに、だった。
 家裁については、その事は後になって解かったもので、あれはどこだったの? と聞いた私のまだ若かった頃の話である。 私はいつも1人で外で待たされたものだった。 バターンとドアが開いて、叔母さんだったのだろう、飛び出して来た。 後を追って母や誰かが走ったのでは無かったか。
 今でも脳裡に残っている、私は多分廊下の長椅子か何かに、1人座らされていて、やがて退屈して、傍の階段を数段だけ下りたり上がったりし始めていた。 座っていた間には、今思えばやはりお堅い系の男の事務官だかが、1人くらい廊下を書類を持って通り過ぎたりした。 壁は薄い灰色かベージュで、
まだ小さな私の頭の上に、窓が並んでいて、やや明るかった。 記憶も無いくらいの小さな子供を、1人で廊下に置かないだろうから、3歳にはなっていただろう。 それが痛烈であるところの、最初の記憶かもしれない・・。
 叔母もやはり田舎者の超お人良しだったらしく、頭も良かったので先生が是非女学校へ進学をと言って来る、昔のありがちなお話の1人だった。 優秀だった為に看護婦となり、やがて市内にも出て結婚、しかし、お人良しが祟り、夫に勝手に貯金を使われてしまい、その他も何があったのか、
離婚調停だったのである。  母方の家系は、超の付くお人よしの集まりで、人気もあったらしく、よく家に人を集めていたらしい。  逆に、父方はクラいというほどでも無いけれど、明るい母方とは 違い過ぎる と母がいつも言っていたような、真逆な差があったらしい。  母がいつも私を連れ歩いた
のは、末っ子のちびちゃんだったからだろう、1人で家で留守番の記憶は皆無といって良いほどだった。 父が子供だけの留守番を非常に嫌ったのは、ニュースで火事等で子供が被害に遭ったりするかららしかった、そういつも言っていた。 後、我が家では、地震対策は、父の特許言のようなものだった。
 何故父が、地震をそんなに恐れるのか、今もって知らないのだけれど、昔は今ほど酷い地震は無かったし、火山と地震大国日本とはいえ、極たまに震度4がせいぜいだったし、それでも世間は大騒ぎだったのだ。  母についての記憶、私が保育園に入る前頃だったろうか、ある日、唐突に、私に字を教えて
上げようと言う。 母は台所にいて、当時はまだ土間だった、そこからテーブルの前にいる私に、広告の裏にヒラカナを1つ書いては教えてくれて、私は直ぐに覚えていったものだった。 文字を書く、という事を初めて教わった瞬間だった、別に何という感慨があった訳では無いけれど、しっかり記憶に残って
いたりする。 書く練習をしていると、ち という字って、子供が書くとよく裏返るのよね、とか茶々をいれるけれど、私の文字は最初から正確で、逆にわざと裏文字を書いて遊んでみたりした。  当時の母は普段着も着物姿!!!に白い割烹着で、後にアルバムを見て改めてびっくりするようなことだった。
 当時はまだ皆ほぼそうで、保育園の他の母親も皆着物姿である・・。  だから逆に、母が当時のスラックスズボン姿の、洋装になった時の記憶の方がはっきりとしていたりする。 母はいつも先に 断言 するのだ、有言実行派、或いは有言不実行で、しない事もままあったりした。 
 例えば、おばちゃんパーマ頭を、ロングにしてみようかなあ とか、寝具をベッドにしようかなあ とか、テーブルを正座では無く、椅子式にしようかなあ とか、結局はそのままの物達である。  しかし、母の性格は父に似てしまったのだろうか、結構キツイところもあり、後に私は母の血液型すら、父に
似て、B型とか思ってしまうが、A型である。 また、母の発言は、大抵いつも唐突だった・・、案外と気紛れなのかもしれないが、ちゃっちゃと動き回りもする、行動力も結構あったことは間違い無い。  まあ一言では、勝気、それが父に似た結果かどうかは知らない、大体は穏やかな母方であることと、
母本人も、父の気の強いのが感染ってこうなったと、よく言っていたから、そうなのだろう。 そしてよく私は、父方の血が勝ってるー と、子供の頃から、面白半分に注意されたものだった。 母と兄は辰年生まれ、父は猪、姉は寅、私は戌であり、その辺もよく性格と照らし合わせて、家族で話題になった。
 兄は小児喘息があったので、母が特に溺愛していて、干支の一致すら喜んでいただろう。 父は勿論、猪突猛進型であり、姉に至っては女では嫌われるという寅、しかも大寅とか母が陰口のように冗談で言ったものだった。  全く、うちの娘達は気が強過ぎる とか、母も筆頭に、勿論父が最大級である
けれど。 父と母は五つ違い、恋愛だかお見合いだかよく解からない、お見合いということなのか、まあ時代的に恋愛だとしても、さほどの事も無いだろう。 実際、余り良く知らないで結婚したらしい。 当時、村では家に若い衆を、御飯とか招く風習みたいなものがあり、そんな程度だったような話である。
 しかし、最初は父の弟と付き合っていたような話でもあり、父の方が年齢的にも良かったのだったか、結局、父が落札?となったらしい。  母に本当のロマンスが、無かった訳では無い。  中等部卒業後、母の勤め先は、農協やお寺の小間使いさんだったりした、その後だったか、海軍工廠に従姉妹のコネ
で入ることが出来たのは、水雷部という所だったらしい。 女学校卒でなければ入れない所へ、従姉が楽しいからおいでと呼んでくれたので、どうやら18歳辺りで年齢的にも早く入れたらしい。 当時の中等部は2年で、その上の女学校は4年である。 そこへ入ってみると、その従姉が人気者であることに
驚いたと同時に、学歴の無い母はそこにはいられないと思ったらしい。  それでねえ、今度は造船部に行ったんよ。水雷部では、魚雷とかのトレースをしたんだけどね、造船部では将校さん方への配膳と片付けね。  そこの少尉さんだかどなたかが、母に結婚を申し込んだらしい。  身分が違いますから・
 母はそう言って断ったそうだ。  相思相愛だったのではないだろうか。  そうか、身分かあ・・。  少尉は、中尉かな・・、そう言って溜め息を付いた。  とても穏やかな良い上司だったそうだ。  終戦後、葉書だか手紙が来て、それをクドの傍に父親が置いたらしいが、どうしてもそれが見付から
なかったのだそうだ。 まるでミステリー、一体誰が・・。 両親は隠すような人では無いというから、妹の誰かが隠してしまったのかもしれないし、クドの近くならば燃えてしまった可能性も無くはないだろう。  それは、母の一生を左右する手紙だったかもしれないけれど、後の祭りだった。
 その後の話は、極最近になって改めて聞いたのだけれど、やはりその人を探して、元の寮などへ帰省先などを聞きには行ったらしいけれど、解からなかったそうだ、教えてもくれなかったろう。 その時、私の夫がそれら戦争の話を、母から聞きだしていたので解かったのだけれど、結構な位らしく、とても
裕福な家庭の人の筈、ということだった。 東北の人である。  余りにも遠いし、寒そうな所のようで、後に、母が東北まで嫁に行かなくて良かったねえ、などと家族で言ったりもしたけれど、母のロマンスは私達に乙女ティックな夢を与えるには充分だった。そう、子供の頃から聞いて育っていたのだもの。
 父には悪いけれど、全てを知った最近では、そちらの方が良かったのかも、などと思ってしまうのだけれど、やはり父は父、私のかけがえの無い父親である。  父は、最期には、肺癌で80歳の3日前に、救急病棟で急逝してしまった。  今でも泣けて来る。  決して嫌っていた訳では無かった、
ただ、年頃の娘が、父親と仲良しの図、なんて逆に気味が悪いだろう、私は父親っ子で育っていて、父の膝に入って座るのは、姉兄の中でも私しかいないくらいだったし、末っ子の私はかなり可愛がられていた。  今もあの胡座をかいた膝の感触を、はっきりと覚えている。  お昼寝する時は、父が脚の間に
私の小さな足を挟んで、温めてくれたりした。  今思えば気持ち悪ーい、不気味ーとか言いそうだけれど、小さな私にはとても優しい父だった。  子供って恐ろしいもので、父の乾いた水虫の皮を、むしりたくて溜まらなかったりして、実際にやってみたりしていたなんて、今考えると・・・。
 また、父はヘビースモーカーで、私は幼少時より煙草の煙に親しんでしまっていた。  転がされているパイプを、こっそり吸って味を確かめてみたりしていた。 実際に吸うまでには、二十歳に至るまで無かったのだけれど、2階で吸っても父に匂いでバレるらしく、間接的に母から嗜められたものだった。
 父は私のいない間に、机の引き出しを空けてまで調べていたのだ・・。  そして、母に怒るのである。 しかし、私が煙草を好きになったはっきりとしたこんな理由を、父は知らないままだったかもしれない。  お父さん、そういうことなのよ・・、お父さんの煙草のせいですよ多分・・。
 私がお年頃になると、母は唐突に、私は処女でございます などとアピールし始めたのは、つまりは、自分のように真面目に、ふしだらな女にはならないようにと、教える為のようだった。
 また、私が結婚6年目から、外に眼が向き始めると、私はふしだらな事はしたことが無い! と、きっぱりと言い放ったのだった。 確かにそうだろう、時代的にも、私の時代の 道徳 の前身である 修身 で育った世代である。 
 だから、私も母のように生きてゆかなければならない、そうなのだと納得してしまった。 そして、それで良いのだ、それが正しい生き方なのだ。 別に厭わないという思いもありはするけれど、そんな事に遭遇することも、全く無かった。
 あったとしても、全ては夢の中の話である、余りにも長い夢の中にいた。 眼が覚めると、そこにはゴミ屋敷が残っていた。 体調も悪かった、生きているのも不思議なことだった。
 母は長男に嫁ぎ、新婚の頃は暫く、村の中の父の実家近くの古家に2人で住んでいた。 その建物は納屋程度のもので、床がやや高く小さくて、私も子供の頃に見たような記憶があるけれど、違うかもしれない。 でも、イメージ的に出来上がってしまっている。
 直ぐに懐妊したらしいけれど、母はそれすら解からず、下腹部にしこりがある事に気付き、不審に思ったらしい。 確かに、何の知識も無ければ、懐妊すら解からない時代だったかもしれない。 この私ですら、母から本から学んだだけのことで、私の出産直後、看護婦さんが、これが子宮ですよ、と
下腹部を押さえて、教えてくれたくらいだった。 その前に、妊娠中に自分でいつも確かめていはしたけれど。 で、母は近所のおばさんの所に見て貰いに行くと、そのおばさんがお灸をそこにしてしまった、というのだから、今の時代では考えられない事である。
 母はそれで流産してしまった。 お手洗いで、びっくりしたのだそうだ・・、まだちゃんとした形にもならない、その最初の我が子は、息絶えていた。 妊娠していたことすら解かってもいなかったのに。
 姑が飛んで来て、その子を埋葬してくたそうだけれど、それがどこなのか、未だに母は知らないのだそうだ、ちゃんと聞けば良かろうに、聞いた頃には解からなくなっていたのかもしれない。
 私の最初の兄弟である、流れる子は男の子とかいわれるので、最初の兄 ということになるだろうか私のお兄さんは、ちゃんと生きることも無く、あの世へ旅立ってしまったのだ。  しかも、姑の言うことだ、月が早過ぎるから、本当に息子の子かと疑うような事を言ったらしい。 
 十月十日のことである、1か月は女の周期では、必ずしも30日とは限らないから、どうしても早かったりするのである。 よくある インネン を付けられる といったことであった。  それから、次にはちゃんと姉がそこで生まれた。 年度では7つ上、年では8歳上となり、私が中学の頃には、
友達への体裁?を考えて、7つ上 というのを採用することにしたのだった。 何故なら、誰に聞いても、そんなに歳の離れた姉兄はいなかったから、とても言う気がしなかった。 そこから、父と母と姉は、3人で市内へ飛び出すことになる。当時、田舎から町へ飛び出すことは、さぞ大変だったことだろう。
 当時、いきなり市内に働き出る人達も多かったらしい。 直ぐ近くの市にではなく、県庁所在地にである。 元々の父の職業は、船乗りということだったらしい。 何せ平家だからやはり船だったのだろうか・・、他に産業というものも無くて、戦時中なら近くの市へ出れば、海軍工廠があり、母の父親はそこ
に出て勤め、母幼少時の頃は大変裕福だったらしい。 戦後は、また村に戻ったものの、その祖父は道楽で、写真から日舞から贅沢だったらしい。 村自体は当然、そんなに裕福なものでは無かったから、一家で町へ出てゆくのである。
 3人一家が住んだ最初の町は、本当に中心部に近い都会といっても良かったけれど、昔のことだから、さほどでも無かったにしても凄いなあと思う。 どうして、そこに住んだの? と聞いても、母のことだ、いつも曖昧で解からないのだから、物書きの好きな私は困ってしまうのだ。
 父は船から、電車に乗り換えた。 当時の人達は、町で電車に乗るか、お風呂屋さんその他をする人達も多かったらしい。村の人達は、やはり頭の良い人達も結構いて、英語がぺらぺらの80歳のおばあさんに会ったこともあるし、銀行の頭取とか、まあ各界に渡って、それぞれに飛び火するように、蔓延って
いたりするのだ。 これら平家の誇りでもある、と私は思ったりもするのだ。 例え負けても、私達の魂は永遠に滅びることは無い、決して・・。 ちょっと見渡しても、医師、弁護士、警察所長、文芸関係、税務署、教育関係、大型スーパー、舞踊、まあ多少としても、縁を辿ってゆけば、いろいろな所に接触
出来る、縁は遠いとしても。 平家を想うと、何だか泣けて来るのは、去年、高松の平家歴史資料館にて、悲惨な蝋人形再現を見てからなのであるけれど、私はあれらがトラウマになってしまっている。 それ以前は、秘密結社平家 とか、源平模擬合戦大会 などと、遊び心一杯なだけだった、良く解かっていないということは、恐ろしいことで、平家物語を読んだり映画で観たりしても、そんなのはまだまだ甘かった。 まして、私はまだ自分の平家については、研究課題となっているだけで、学んでいるとはとても言い難いのである。  いつか、平家の現代版ファンタジーを書きたいと、ぼんやりと構想を練り続けてはいる。
 
010.05.07
 
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(無題)  イラスト

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(無題)  短歌

 
 我よりも若き父母見し古い写真面白くもあり哀しくもあり   070310.sat.●

 
 争いは厚かましさから起こる謙虚に相手を認めることが肝要     061216fri.〇

 空気になれるが本当の夫婦23年経っても我は酸欠         1111fri.〇

 いつもお前 が お前 が お前 が でたまにはお前 を と言われてみたい     0921wed.◎

 出来る範囲で一生懸命やっても足りないのなら仕方無い      0518wed.〇

 どんなに強い決意でも時が経てば変わる紫陽花のよに        0517tue.〇

 とーすとにたっぷりゆっくりまーがりん塗るよにゆっくり話す彼 

 恋しても歳の分だけ嫌って貰う既婚子持ち分も嫌って貰う      0124mon.◎
 
 恋が行為で決まるのなら哀しいね恋は恋だもの清くて美しい     0122sat.〇

 発言権無き家庭に育ち今社会揺るがすと誰が信じよう        051229wed.〇

 目覚めても起き上がれずこのまま死んでしまえば良いと思う朝

 彼宛ての言葉探せばぎたー持ち弾き語りしたくなる冬の夜       1228tue.◎

 こうなれば飼い殺されを愉しんで主婦しててれび視てねっとして     1224fri.〇

 我愛すは君の欠片の君沢山の恋は全て君の欠片の1つ        0712sat.●

 巡り遭う毎に増えゆくは我を赦せない彼ら我が赦せない彼ら       0325tue.〇

 掃除機も掛けず何も使わぬ手歯磨きすらだるく情け無く         1212thu.〇

 それではと焉わる想いにすとーかーさよならと振る手に憑り付く      1003thu.〇

 約束よ切り取って上げる我が小指君への永遠の愛の証しに        1001tue.〇

 限りある数の決まった鼓動なら君の為に全部打とう            0425thu.〇

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(無題)  俳句


 けろけろとけろりん飲んで延命す     090925mon.〇
 それぞれに上手く薬使いて延命す
 生きる意味忘れて長き長月
 使えないばか娘ばか夫
 置き薬お土産の紙風船
 孫の名言い連ね母に感謝して旅立った父
 助けてと病に急逝した兄二十歳
 
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