2008/6/23



長雨も今が盛りとなったこの頃、
窓から空を望めば、
鬱々と重い曇天、纏う重い湿気に、やがて来る夏の山、海、太陽の季節の近いことが感じられる。

今を思えば、厳しい寒空の下、大きな強い風を避けかじかむ指先を解し登った季節の遠くならんことは、まるで今は別の国にいるかのような錯覚を抱く思いがして気も遠くなるばかりである。


何年か前の思い出深い冬の課題を記して、少しばかり追憶に耽けり、涼を期待してみよう。




クライマーにとって、広島といえば帝釈峡の石灰岩も有名だが、県内随所に見られる露岩はやはり三倉岳を代表とする花崗岩の景観である。岩国という名もあるように、中国地方の山陽側は花崗岩王国なのだ。




この「枯木」という課題は、三倉岳に程近い岩山にある一本である。

3、4年ほど前のことだ。
その冬一等の寒波が来て強風吹き荒ぶ雪の舞う日のこと。
俺達は尾道のドリル男が開拓しているというエリアに連れてきてもらったのだった。

山の南斜面にあるため、風が無ければ真冬でもポカポカ日向ぼっこにちょうどよいエリアだ。そんな訳で西高東低の厳しい気圧配置の日を選んで、彼はこのエリアを紹介してくれたのだった。
こんな寒い日にわざわざ人を連れて来るのは、この花崗岩男にとっては最高の接待の証なのは分かるのだが、「こんな日にっ」と思わず口ずさぶ声が風に乗って聞こえてくる。

木が生えていないため風を避ける物がなく、禿げ山の吹きさらし尾根で、一同かじかむ手を隠しつつ、唇も強張って、ドリル男へ感謝の言葉か恨み節をぶつぶつ言いつつ岩定めをしてまわったのだった。

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見えている岩の数は無尽蔵なのだが、クライマーの目線で見ると使える岩は案外少ない。しかしそんな中で、我々をずっと呼び続けていたこの岩は、登山道のある禿げ尾根の頭に、ドンと腰を据えて存在していたのだ。


まず初めにその岩の声を聴きつけたのが、やはり花崗岩の申し子ドリルマンだった。
俺はランディングの悪いそのラインを避けて隣のラインを触っていたのだが、どうもムーブに行き詰まってしまっていた。
何やら楽しげにドリル男とツジャンが盛り上がっているので少しばかりそちらに浮気してみることにした。


この課題一見してランディングは悪い。元々悪いランディングの上に傾斜地に冷蔵庫程のブロックがあり、その上に立ち上がってからスタートするのだ。ラインとしてはスラブ上にある形状のホールドをついて岩の上に立とうというもので、下から見る限りは易しそうであるが、如何せんランディングが恐ろしい。

しかし、いざトライしてみると、すぐに核心部が始まって仕切り直しとなる。その都度スタートのブロックに飛び落ちねばならない。間違ってもそれ以外の所に落ちることは許されない。ゴツゴツの斜面を転がり落ちることになってしまう。
一手一手、一足一足、三人でムーブを固めていった。

下部のムーブはほぼ出来上がりつつあったが、当然ながら上に上がれば上がる程、やや斜め右横のブロックに飛び移ることが難しくなっていく。それをコントロールしながら、上へ上へとムーブを繋げていく。しかし、足が一足上がるごとにそのコントロールは不確実なものになっていく。


三人でさぐりトライをしていて、何となく抜き差しなら無い状況がやってきたことが分かってきた。俺達にはどうやら、又いつもの一線というものが見えてきた。

その一線を越えるとどうしてもクライムダウンは不可能でしかもブロックに向かっても飛び降りることができない。つまりその一線は、越えてしまえば絶対に登り切らなければならない一線なのだ。

誰が初登出来るかという人対人のお遊びのような駆引きは、自分達が一線を越えなければならないという時がきて終わりとなった。

いつのまにかそれは、岩対自分の駆引きに変わっていた。



折からの強い風の中、俺達三人は一旦クライミングシューズを脱ぎ、防寒を整えて、昼飯を食いテルモスの温かいお茶をすすった。皆、言葉無く、寒空の下ラインをただ見上げていた。
別個の人間が恐らく同じ精神状態であろうことに、そして同じラインを見上げて、一線を越えるか超えないかの問答している姿に、俺は何か言いようの無い感慨が込み上げてきたのだった。こんなにもあからさまに、三人の男が同じ事を同じ時間に岩に自分をぶつけていることなんてそうないだろうと思った。皆考えていることは同じだ。
自分の心が澄んだ時、「行こう」と心が叫ぶ時まで、ただ沈黙を守っているだけだった。



まず初めに心を決めたのは俺だった。シューズの紐を締め上げチョークバックを腰にきつく結んだ。ランディングにマットは当然置けない。ドリル男とツジャンは言葉をかけずとも気持ちばかりのスポットに入ってくれた。

激しい北風が大空を裂く中、俺は静かに動きはじめた。下部は複雑な足順ながらムーブは決まっている。いよいよ一線に達して、俺はただ考えていたムーブを、当然の如く無心で動いた。
どんなホールドなのか一手一手が初めて触る新鮮さ。なんともいえない。俺はこのまま自分を保ち続けられるだろうか。

一瞬の躊躇があったがただ無心で身体を上げていった。棚に足が上がってそのまま俺は岩の上に立つことができた。
頬にあたる風が冷たい。

目の前には枯れ木が一本、初来者を出迎えてくれていた。



急いで裏の5mほどのチムニーを降りて戻ってくると、早くもドリル男が、シューズを履いて取り付きのブロックに立っていた。
このラインは元々この男が見い出したラインである。威厳高く取り付きに立つ姿はある種神々しかった。
バタバタと彼独特の足さばきで一線に突っ込んで行ったと思うと、躊躇する事なしにマントルを決めて、岩の上に立った。
俺よりもいい動きで危険な時間を短時間ですましてしまったのだった。

将に花崗岩を登る為に生まれてきた男の才能の剣の一振りだ。



残るはツジャンである。シューズを無言で履いている彼を見て俺は考えていた。

普段から彼は突っ込むタイプの人間である。時々とんでもない事をしでかして、周りを引かせたりするのだが、気合いで突っ込むのは、彼の持ち味でもあるのだ。
しかしこの手の駆引きで、我を失い、人対人になってしまっては、それは恐らく良くない結末がまっているだろう。初登をかけたセッションで、先に二人が決められて、それでも自分が対峙するのは目の前の課題であることを見失わず、一線を越えるとすればそれは、素晴らしいことである。そんな数々の場面で失敗したことがある自分にはツジャンの心を仮に想像してしまうのだった。

俺達は相変わらず無言である。空気は張り詰めたままである。

ツジャンは登り始めた。出だしはやはり完璧な動きだ。
一線にさしかかって、足下の俺達も緊張の一瞬だ。しかしだんだん動きが硬くなってきているようだ。

一線を越え、俺が一瞬躊躇したところで、彼も亦動きが止まってしまった。

頼むでっ!

ドリル男と俺は心で叫んでいた。ここで素に戻って動けるかどうかが結果を迎える大きな分岐点だ。

結末としては、体勢を立て直すことができてツジャンも岩上の人となったのだった。

その時初めて、三人で大きな声で喜びを分かち合ったのだった。
大きな風音も寒さも関係ない。緊張からの開放。クライミングは一人ひとりの遊びだが、この時間と場所に於いてはチームワークの賜物であったのだ。




一線を越えるか越えないかその矛盾の駆引きを楽しむエネルギーはどこから来ているのか?  
やはり、
「登りたい!」という欲求以外から生まれてくることはないだろう。

そして、俺達は三者三様、それぞれの個性と持ち味で岩と対峙して、それぞれの問題を克服して岩上の人となったのだった。一人目はフリーで行けるのか、二人目は、ムーブは分かったのだからより美しく完璧な登りで、三人目はプレッシャーに耐えて自分の登りに集中する。
それを落ちられないところで、三人が一回のトライで決めたのだ。


クライミングを通して、このような体験ができることが、俺は嬉しくて仕方が無いのだ。多分歳をとって、俺達が爺さんになっても銭湯の湯舟でこんな課題のことを懐かしく語ったりするんだろう。


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次なる来訪者がこのラインを心震わせながら同じように登る日はいつだろうか。
その時も、岩上の枯れ木はクライマーの葛藤する姿を見つめてくれているんだろうなあ。








2008/2/27

楯ヶ崎半島をボルダリングした男  マーシーのシビれたライン


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レリーフのボルダー

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釣師のテラス

ここ楯ヶ崎には、岩資源は無限にある。
それにあわせて、ここでのクライミングの表現方法も亦た無限にある。

それ故に個々人に、自分のすることにリスクと責任が課せられる。


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昔、この半島をただ純粋にボルダリングした男がいた。
俺やつよつよや原さんはその目撃者である。

昔も今も、実績主義の人は多くいるが、クライミング界もまた然りだ。
そんな浮世との係わりを気にせず、自分のクライミングをやり続ける人がある。

雑誌には載らないことで、
中央で話題に上がらないところで、
人に多くの影響を与える事をやってのける人は、実はごく身近に居たりするのである。



オータはん。(勝手に名前出してごめん)


強烈な魅力と個性を、人間の形に固めた男。


俺はオータはんから、
以前から色々な誘いを受けていた。
その時は、この半島を別々のラインで一緒にボルダリングして頂上で落ち合おうということだった。

勿論俺も考えた。
でも答えは「否」だった。恐いと思ったからだった。

取り付きまで一緒に行き、ラインを教えてもらって、別れた。
俺達は対岸の高台に上がって、その様子を見ることにした。

対岸にわたり振りかえると、
俺達が見物に入るのを待たず、既に彼は登り始めていた。
楯ヶ崎特有の柱状節理のブロックを、躊躇することなく、攀じってはマントルを反すを繰り返していた。

太平洋の大きな空、黒潮のぶつかる大きな岩塊、そんな中に小さくうごめく極一点。
動物のようと言ってもよいか。その姿は完全に自然の一部となっていた。

いや寧ろ、そうでなければ、ならなかった。
もしその一個の個体が自然の一部となっていなければ、浮いた存在になってしまっていれば、それはもはや緊急事態であるといえよう。

よどみなく動く彼の姿は、数十メートルの岩帯を過ぎ、やがて上部の密林に消えていった。

程なくしてカチドキなるいつものオータ叫びが、潮風に乗って聞こえてきた。



俺達は、ただ目の前で起きたことを力無く笑って見ているしかなかった。

フリークライミングとかいって、
ただ俺は、実は不自由な自分を感じずには居れなかった。


おしなべて、クライミングをする理由は、自己の固定観念の打破である。
そういうことを、クライミングを通して自分を磨いていけるなんて、素晴らしいことだと思う。

なのに、結果うまくやれているとはとても言えない。

俺には、これは出来ない。もっと若い時だったら、恐いもの知らずでやったかもしれない。だが今となっては、こんなことはできない。

不自由な自分。守りの自分。






完全な自己のコントロールと云えば、


ちょっとしたハイボルダーのある課題に、初登がかかった時、俺がオータはんの前で、
「次は気合いであそこを越えたるわ」と言ったのを、

訝しげに俺の顔をのぞき見ながらこう返したのだ。
「俺は気合いでなんかでよう登らんで」

全くその通りで返す言葉もなかったのだが、その時は結局それで登ってしまったのだった。
なんとも自分の不確実さたるや。




完全な自己のコントロール。


俺にはまだまだ、届かぬ境地だ。


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2007/8/11

豊田 アキラU  マーシーのシビれたライン

アキラ君よ。

あの人は今、、的な話題は面白く無いだろうが、
一つの特徴的な課題に、
自分の名を伝説的に語られるのはクライマーとして本望であろうか。それとも小恥ずかしい感じなのだろうか。

ひょうひょうとして、
しかし自身の才能に気付かず、この世界から去っていった男。


俺がジャパンツアーなんかに参加して、予選落ちばかりしている頃に、いつも決勝進出して輝いていた男。
俺の一級上の年齢にあたり、物静かで優しい人。

妙に手足が長く、登りまでもがスマートで、手足が短く見える俺とはえらい違いやったな。


俺もまだまだ駆け出しで、モチベーションの塊りだったのに比べて、
アキラ君はどこか物憂げで、なにか煮え切らない感じだったか。
俺とは世界の違うオーラをだしてたな。

それでも、コンペ会場では、
中京チームと関西チームは親しみを感じやすかったからか、俺はアキラ君をいつも身近な存在と感じていた。


「最近、ホーライコっちゅう所が開拓されてるらしいやん」

「ええなあ、なんぼでも岩あるんやてなあ。自分もそんなとこでのぼりまくってんのか?」

「ホーライはねぇ…。あそこでは全然登る気にならないよ。」

そんな会話をしたのを覚えている。当時の俺はホーライの岩をよく知らなかったし、彼が何を言いたいのか、よく分からなかった。

ただ、どう見てもモチベーションを落としている時期だったようであるのは、見てとれた。
出ればいつでも活躍できるコンペ会場にも、いつのまにか姿を見せなくなった。



何年も経って、久しぶりにアキラ君の名を聞いたのは、イナガッキーによる岩場情報によってだった。当時豊田に通っていたイナガッキーが、再登者のでない課題があるんやけどと言うのだ。
曰く、「アキラ君が一撃初登した課題」らしい。

「お前やったらできるでえ」
「ほんまあ?そない言われたらなんか、やってみたいな〜。」

そうやって、「アキラ」という課題の存在を知ったのだった。
見たことも無い課題に、どこか意識するようになった瞬間であった。



それからまた何年も経って、ようやく「アキラ」に対面できたのは、つい2,3年ほど前のことだった。有名なダイヤモンドスラブの裏にそれはあった。スラブ面は高さがあるので、こちらも身構えるのだが、回り込むと意外と高さは無い。
ダイヤモンドの面が、陽ならば、こちらは一転して陰である。しかし、ひっそりとしながらも、存在感のある小さな前傾フェースに「アキラ」はあった。

「ほほう!」
やっと出会えたといった感じだった様な。俺も、一撃の予感を感じてトライを始めた。結果は明白だったが。

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トライ中のオクラ君

次のシーズンに俺はその「アキラ」をなんとか登ることができた。その時までには、何人かの再登者がでていた。なにか言い様の無い感動が湧きおこってきたのを覚えている。


俺は、次なる課題を、地元の人がいう「アキラU」に目を向けるようになった。
それは、同じフェース面にあるこれまた、ここを登らんとどうすんの?と岩に誘われているラインだ。
自分達でよく言う

呼ばれている、、ラインである。

既登であるとか未登であるとか、言う人によって違うのだが、アキラ君の名前がついているだけで十分だ。名前もラインも「かっこいい」課題だ。

しかし、少なくとも上部はあまり触られていないようだ。見るからにヤバそうな巨大フレークが岩の上にのっかっている。


今年に入って本格的にトライする機会が、いよいよ巡って来た。
出だしのムーブをさぐってみると、何回かのトライでムーブは決まってきた。しかし簡単そうに思っていた上部が、意外と難しい。
加えてホールドがやや不安だ。実際上部の小さなカチフレークは、握りこむと壊れてしまった。結晶スタンスも上部では安定していない。しかしムーブはのびのびしてせこくない。大フレークはもちろんアンタッチャブルだ。剥がせばすっきりするか知らないが、面倒なのでそのままでよい。フレークを無視して代わりに上部をトラバースして左上していくことにした。死を招くようなフレークは使わないという限定以外ははっきりとして楽しい自然なラインだ。

完全に俺は「呼ばれて」しまった。

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その翌週。

「アキラU」

その日の何度目かのトライで、無事に完登することができた。素晴らしい課題だ。

いい岩にいいライン。
俺は、この2本の課題に伝説化されたアキラ君を見た気がした。
アキラ君を追い抜くことはできないが、彼の足跡を確実にたどれたことが素直に嬉しかったのだ。






2007/6/2


楯ヶ崎

関西でどこが一番好きかと尋ねられれば、小生は間違いなくこの場所を挙げるだろう。
岩場としては、柏木とともに関西を代表できるエリアであるのに、ただの偶然であるのか、今まで自分たち以外に、他のクライマーの誰とも鉢合わせたことが無い。

都会から遠く、課題数が少なく、エリアとしての話題も少ないから、訪れるクライマーも少ないのか。

しかし仮にそうだとしても、それが却って楯ヶ崎の良さになっているのかもしれない。

岩登り自体、日常から非日常の中に己が身を置くものなのだから、
はっきりとそれを感じられる自然のなかに飛び込むのも、時には良いと思う。

ここにあるのは、
大きな海と、大きな空と、大きな岩塊と、
柔らかな陽光と、それを遮る雲と、それを運ぶ大きな強い風と、
釣師と岩師と、空を舞う鳶だけである。



この「はてな」というラインは、7.8年程前に京大ウォールのメンバーだった原さんやつよつよ君たちと楯ヶ崎を訪れた時に登った課題だ。
1級だったか初段だったか忘れたが、そうは難しく無い筈のこの課題に、強く心引かれ、皆で一抜けバトルをした日も今となっては良き想い出となってしまった。

レリーフ岩の向かいにある灯台下の4m弱のこの岩に、将に?の記号が掘り込まれてあるように見えるラインをダイレクトに登ろうとするのがこの課題だ。
ラインの中間部にガバカチがあるのだが、そこからどう進むべきか躊躇していた。

とりあえず小生は、無難に左抜けラインを選択し、ヌメルとやばいポッケを繋いで一抜けをした。
すると当時まだ年若いつよつよ君が、ガバカチから大きなデッドで右上方のリップを叩くというムーブをトライしだしたではないか。
小生もそれをやりだしたが、リップを取り損なえば、結構な滞空時間で飛び降りることになる。しかしムーブとしては、こちらの方がめりはりがあって、ラインも美しい。素晴らしいひらめきだ。
やめようと飛び降りさえしなければ、いつまででも居れる程のカチガバなのだが、
高さを考えると身体がどうしても萎縮してしまおうとする。それをこらえて、身体をリラックスさせて、集中してリップの一点を目指して大きく動くのだ。このライン取りが、一番シンプルであり安全でありまた、この課題を素晴らしいものにしていると思う。

果たして、このムーブで一抜けをしたのは、そのつよつよ君だった。

この男はいいものを持っているなと、その時初めて感じたのだった。

強い刺激を受けて、続けて小生もなんとかそれを決めることが出来た。


小生たちは、大きな満足感に浸りながらその日を終えたのだった。


しかし後日、
この課題が既登課題であることが判明した。その何年も前にミユキさんがオータはんと二人で訪れた時に、この課題を登っていたという。

それを聞いた時、ミユキさんへの印象が正直初めて変わったのだった。
ミユキさんといえば、小生が駆け出しだった頃に、岩場でもジャパンツアーでも関西を引っ張る役をしていた人であるが、
如何せん小生とは性格が合わなかったというか(失礼は承知ですいません!)、小生が心を開かなかった為なのだが、
普段からよく顔を合わすのにあまり一緒に登ったことがなかったのだ。

そのミユキさんが、この課題を熱い心で登っていたことを知って、素直に尊敬の念を抱くようになったのだった。

最近は、すっかりとげのなくなった様に見える優しいミユキさんだが、
想像ではあるが、
小生の心の中には、はてなを登る氏の熱い姿をいつでも思い描けるのである。



素晴らしいロケーションの中にあるこの課題を、
小生は、ミユキさんとつよつよ君抜きには語ることが出来ないのである。

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2007/4/17

豊田  くま  マーシーのシビれたライン

豊田で初めて「くま」に遭遇したのは、

豊田のハマさんに大田エリアの課題を紹介して戴いた時だ。

ホールドが欠けて難しくなっているということだったが、
この課題は、
モン氏夫妻共に登っているとの事。
モン氏の実力は想像できるが、奥方も大した人なんやなあと、
スラブ面を見ながら感心したのを覚えている。

その日は、出だしから手こずり中間部までで敗退した。

その後ずっと他の課題に明け暮れていたが、
ほぼ2年ぶりにその機会はやってきた。

しかし、
前回見出したムーブを全く思い出せず、
前回と同じ時間をかけて
ムーブを再構築せねばならなかった。

また敗退したが、次回はやるぞっ!と意欲をかきたてられて、
夫婦共にやる気満々になったのが収穫だった。


その次に くまを訪れたのは、前日に雨が降った日曜日だった。
この課題の為にやって来たのだ。
しかし基本的に他の岩は乾いていたのだが、くまは森の中にある為に、
上に被さる木々から落ちる滴に、全く乾く気配が無かった。

最近はトライする者があまりいないのだろうか。
森の中のこの岩は、少しずつ自然に回帰しようとしているかの如く、
たっぷり水を含んだ苔がのっていた。
ただ見上げるだけで、引き返さざるを得なかった。


そして、四度目の正直でくまを訪れたのは、
おきよがBセッションに出場する為に、山梨県まで出かけた帰りだった。

嫁の応援とかこつけて、小生の本番は帰り道の豊田詣。

今年は暖冬であった為に、真に指先が岩に吸い付く日が少なかったと思う。
そしてこの冬のおそらく最後の寒波であろう今回を逃しては、
もう機会は無かったかも知れない。

くまの前に立つと、今までに無い程に、
岩の状態が良いのが一見して見て取れた。

この乾き具合なら苔が生えていても気にならない。

さすがに出だしのムーブも忘れておらず、
核心の中間部を何度と無く試すことができた。
しかしスタンスが悪いので指先への負担が大きかった。


実は俺はこの2週間前に、右手中指を完全にパキってしまい、
リハビリに励んでいる途中である。
駄目なら駄目で仕方が無いが、ホールドを持てるなら、
どうしても登っておきたかった。

俺とおきよは、代わるがわるトライをかさねた。
しばらく続けると指先から汗が出て、
皮が柔らかくなるようだ。指先を乾かす為に、
小さなレストも入れなければならない。


あれっ、、、
おっ!

おきよが一手ならぬ一足上げてムーブをさぐっているではないか。


その姿は俺の心に火をつけた。と同時に解決策がひらめいた。

二人であれこれ試したムーブを着実につなげていくおきよであったが、
右手に力の入らぬ俺には、そのムーブは厳しかった。

そこで初めてくまをトライした時に考えていたムーブでトライしてみた。


するといつも落ちていたポイントからひと足上がったではないか。

着実に身体を上げていくが、
何故か考えていたムーブの逆手逆手にホールドしてしまう。

その修正を、スタンスが悪い為なかなかできずに、
一手一手進むしかなかった。

抜けが悪いかも知れぬということは、
上部を掃除した時に確認していたので警戒して突っ込んでいった。

のっこしの時に、右手のカチをためらう瞬間があった。
しかし、おもいっきり握りこんでやった。

持たなければ登れないのだ。

ようやく最後に手順を戻せて、成功した。

おおー、出来た! やったぜぇ!



下を見ると、おきよが少し困惑した顔で見上げていた。
俺の逆手逆手ムーブの奮闘登りに戸惑っているようだった。
指先は腫れあがっているが、なかなかの満足感である。





しかし、

話はこれで終わらない。

おきよも少しのトライの後、核心を越えて上部に到ったのだ。

彼女は二人で考えたムーブで、核心を着実にこなしたのだ。

「やるやんけっ!」

上部のスタンスはほぼ全て苔むしている。

俺は

「落ち着いていけっ」

とアドバイスを送るが、当の本人の方が落ち着いていた。

手順も俺の失敗を参考?にして綺麗なムーブで登っていった。

のっこしも足が砂利ついているのに、確実にこなした。
おきよは、そういうところでパニくらないのが良い。



かくして、  くま、、、

夫婦して登らせてもらいました。夫婦第2登になりますか。

豊田ありがとう。モン夫妻ありがとう。

俺たちも会社休んで来た甲斐がありました。



クライマー、
夫婦ふたりで、だれてしまっては、もったいない。

俺たち二人はなかなか良い関係だ。
この日このトライ、夫婦の思い出となるいい一本だった。












2007/4/3

三倉岳 ノーマルチムニー  マーシーのシビれたライン



「三倉の石を抱いて眠れ」



言わずと知れた広島山の会による三倉岳登攀にまつわる言葉。

烈しく熱く、そして若さと情熱に溢れるこの言葉を聞いて、
三倉岳に何と無く畏れを抱くのは俺だけでしょうか。

ともすれば、忘れられがちなクライミングの原点が、この三倉岳には存在するのだ。

30年以上前の広島山の会の三倉登攀の歴史は、今でもクライマーに多くの影響を与えるものではなかろうか。

時を経ても猶、
三倉の青空が変わることが無いのと同様、
鎧の様に武装されたこの岩峰群が持つオーラは全く色褪せるものではない。
しかし今は、この言葉にあるような三倉の青春時代はもう去ってしまったのか、
クライマーのコールが三倉岳に響くことはそう多くは無い。
そんな中、その青春時代を知る一人のクライマーが今でも三倉岳で登っている。

その人の名は、
両さん(仮称で失礼)。

齢五十を過ぎて猶、この三倉岳に活動の本拠を置き、元気にクライミングをされておられる。
小生が初めて三倉に行った時からお世話になりっぱなしの人である。年齢を感じさせないその体躯はがっしりとしていて、その容姿からは他人への寛容さというか、優しさが溢れているのがわかる。
三倉岳の青春時代が終わろうとする頃に広島山の会に入会し、遅咲きのクライミング人生を、今の今満喫しているのだ。三倉岳の主要なラインを登り尽くし、自らも新ラインを追加した数え切れない課題たちを一冊のルート図集にまとめあげた。
三倉と云えば、粗い粒子の花崗岩に溝のように彫り込まれたフレアしたワイドクラックがその特徴だが、
両さんはテーピングを巻かずに分厚い手の平を壁に押し当てて、ゆっくりと登って行く。

当時にして、三倉岳の全課題制覇を三周目達成を目標に頑張っておられた。

何故そんな事をしているのか聞いた事がある。

まあ、ただのライフワークじゃあ、、、みたいに、
少し照れながら返事をされたように記憶している。


しかし俺は、ちゃんとした本当の理由を理解しているつもりでいる。






さて、この
三倉岳 中岳正面壁 ノーマルチムニー 5.8 30m。

この課題を登りたいなら直接向かう前に、まず麓の小屋から三倉岳と対峙して欲しい。
三倉の岩峰群の中から、中岳を見つけたら、もう視界に入っている筈である。

そう、あのはっきりとした顕著なクラックライン、
三倉岳のどこにでもある花崗岩の節理の中でも一際に目立つ、あの真直ぐに立ち昇る太く黒い筋。

それがノーマルチムニーである。

目で確認したら、どうぞ岩場に向かって下さい。
森の中を深呼吸しながら、
この課題の事を考えながら歩くだろうと思います。

興奮しただろうか、それとも恐くなっただろうか。
そのどちらでもクライマーの資格ありです。

小生がクラックを初めて体験したのは、ここ三倉岳だ。
福岡のタカピロ氏らと、フリーファンの取材で訪れた時だ。

有名なライン、モルモットクラックを敗退してから俺は、
狂ったように三倉通いを始めた。
ある時、正面壁のある課題を一撃することが出来て、
喜んでいたのであるが、
そのすぐ横にある巨大なチムニーをのぞいてしまったのだ。
思わず、笑ってしまうほど、立派で完璧なチムニーであった。


よっしゃ、いつかこれをやったる。
そう心に決めて、何日たってから取りついたであろうか。

詰まるところそのトライを先延ばしにしていたのかもしれない。

ビビッてたのだ。


何と言っても、ここ三倉岳には触り切れない程に課題が存在するのだから。

それが俺の言い訳だった。


ようやくこの課題に取りついたのは、俺の相棒ダニーとだった。
最早やり残した準備など無い。
俺たちは、三倉の殆どのクラックを登ってきたのだから。
ただ、粛々と登るだけだ。


ほな、行くで。
俺は相棒に声をかけて、この30mのチムニーにかかった。


チムニーを登るのに技術どうのこうのはない。
じっとしているのは、簡単である。落ちようと思わなければ、絶対に落ちない。
家に帰ろうと思えば、登って行くだけだ。
ただ間違っても、
へこっと力を抜いてしまわないように。

チムニーで問題なのは、プロテクションが取れないことだ。
当たり前だが、40cmも50cmもある岩の割れ目にきかせるカムはない。

俺は無心で登っていった。ちょうど壁の真ん中辺りだったか、
錆びたハーケンが打たれてある。
藁をも掴むと云う言葉がピッタリか、まずはこれにクリップしておいた。

しかし何故か不安にかられてきた。
変にホッとするのは良くないのか。

まだ先は長い。上部でプロテクションが取れるのかわからない。
俺はいったん壁の外の方に横移動して、壁面をのぞいてみた。
するとエイリアンがききそうな割れ目を発見。
ハーケンとエイリアンの大きな分散過重の支点をセットした。
これで納得。

では突っ込むぞっ。

また黙々と、チムニー運動をして、俺はどんどん上がっていった。

何も難しい事は無い。ただ、景色がどんどん変っていくだけである。


ようやく、壁の上に立ち終了点を作って、コールをかけた。

易しいので奮闘度は低い。しかし達成感がこみ上げてきた。
相棒も簡単な回収物を持って上がってきた。

俺たちは握手をして、次の課題に向かうべく、順にラッペルして降りた。
最高の瞬間だ。



夕暮れの景色の移り変わりを岩の上で眺めるのは、
楽しい時間の使い方だ。
そうやって真っ暗な登山道を何度駆け降りただろうか。

キャンプ場に帰り着くと、
先に下山していた両さんたち三倉連は、すでに焚き火の準備をして、
いつも温かく俺たちを迎えてくれるのだった。

焚き火を囲みながら、
今日の一日の成果を報告しあうのがまた楽しみだった。

両さんは自分たちの成果を一つ一つ驚いてくれるのだが、
次はあれをやったらいい、これをやったらいいと課題を紹介してくれるのだ。

それらの課題は大抵、ひと癖ふた癖ある感じだが、登ってみると勧めてくれただけのある、思い出に残る課題ばかりだった。

両さんたちとそんな時間を過ごせたのは、小生にとって本当にありがたいことであった。
岩を登る者同志、火を囲んで、どの課題がどうだとか、あの課題を今度は登ってみせるぞ、いやお前になんぞできるわけは無い等と、
語り合って酒を飲むのはクライマーとして最高の喜びだ。



結局のところ、両さんが三倉で登り続ける訳は、そこにあるのだ。

両さんが守っているのは、三倉の岩とクライマーの情熱と、この焚き火にあるのだ。


小生もう一本、どうしても登りたい課題が宿題のままである。

また両さんの焚き火にあたりに行こう。





2007/3/26

ミタライ  天河  マーシーのシビれたライン

天河

奈良県天川村。
かつては近畿の秘境と云われたこの地も、
道路整備が進んで、どうやらその雰囲気は急速に失われつつあるようだ。

我々が初めて訪れた頃のミタライは、あの長大なトンネルが全通しておらず、
楽しいグニャグニャ道がひたすら続く深山だった。

何時来てもエリアにいるのは、
自分たちだけといった感じだったか。

川の水は素晴らしく透き通っていて、

川で泳いで、

ビールを飲んで、

焚き火して

昼寝したら、

岩を登る。

今は春や秋に課題をねらいに行く人も多い様だが、
当時は夏場の避暑地的な、一、二ヶ月行くだけの、
贅沢なかつのんびりとした利用の仕方をしていたのだった。

はじめにミタライの名を聞いたのは、
もう12,3年前になるのか。ひと昔前のことだ。

岩探しに明け暮れていた俺に、
イナガッキーがミタライには岩があったぞと、教えてくれたのだった。


晴れの日は岩を登り、雨の日は岩探し。
俺にとって雨の週末に人工壁なんて考えもしなかった頃のことだが、

その日も、大嵐の日に仲間と共に天川村まで行き、
件のミタライの川を見てまわったのだった。

正式な御手洗渓谷には対象となる岩は見受けられなかったが、
その手前のつり橋の下辺りは確かに岩はあった。

しかし増水しきった川の姿とはなんと恐ろしいものであるか。

今で云うケーブエリアは、その川の流れによって、
まるで巨大な洗濯漕のようになって、
轟音とともに、
流れ来る物全てを巻き込み、隠し込む化け物のようになっていた。
川を少し降りてみたが、落ちたら死んでしまうと思うと足がすくんだ。

こんなところ、、、エリアになんのか、、、

そんな強烈な印象の初対面だった。


開拓のはじめはそんなこんなでのんびりしたスタートだった。
今は中下流域が流行っているようだが、当初はケーブエリアがメインであった。

2.3本のプロジェクトを残してすぐに、ひと段落ついたのだが、
ケーブの一番の主張ラインは、
何と言ってもこの前傾面に走る一本の割れ目。
それが、「天河」だった。

初めのシーズンでムーブの目星は立てたのだが、
上に行けば行く程岩のしみ出しは酷く、恐ろしくて突っ込めなかった。



次の年の夏、またミタライの季節がやってきた。
そしてその日は、昔の俺の相棒ダニーの結婚お祝いの祝宴を開いてあげた時であった。
ケーブの下で、
バーベキュー、ビール、酒にバカ話。
奥さん方の友人たちも来ていたが、
ひと通り呑んで騒いでした後で、
気を入れ替えて、皆で天河バトルをすることとなった。



何度目かのトライまでで、
もう突っ込むか突っ込まないかだけになってしまった。
来る時は来たという感じだったか。

高さ3m程のところで、
ヒョイッとクロスのロックオフをして、無心で足を上げて、
身体を先の世界に押し上げた。
(知らない人には何のコッチャという話だが)


濡れている天河の上部とは即ち、隣の課題の上部と共通しているところの為、
俺は楽しみのために一度も隣の課題を触らずにいた。
手のヌメリですっぽ抜ける事だけは無いように集中した。

丸いホールドが続くが、濡れているからといって、
ムーブが小さくなるとやばくなる。
そんな感じの上部だった。


落ち着いてこなせば、最後はあっけなく終わってしまった。
その日の後の時間は、天河の余韻に浸りきりだったように思う。




結局、
その夏は、天河の完登で終わってしまった。


その後の年月に、
ミタライに於けるメインエリアは中下流域へと変わっていった。
課題もたくさん増えた。
しかし、それとともに俺はミタライから足が遠退いていった。

イワナだってまだ登れていない。
打ち込むべき課題がまだあるではないかと諸兄に叱られるかも知れない。


しかしまあ、
やらないのは、出来ないことというのは真実だ。

俺にとってのミタライ熱は、天河を登った時点で尽きていたのだ。











2007/3/16


小生がこの課題に出会ったのは、2006年の1月頃のことだ。
その伏線として、その前の年のある頃から、
豊田を登る友人たちから時々聞かされる言葉があった。


ゴリッパはやばいよ。

落ちたら死ぬよ。

あんな課題はそうないよ。

その言葉を聞きながら俺は、心の中に一つの化け物を思い描いていた。
危険で攻撃的で、触れてはならない死の臭いのする岩。


性来の恐がりである俺は、進んでその話に飛びつこうとはしなかった。

しかしその友人たちが語るその眼差しには、
成し遂げた者の充実感と深い感動が内包されているのが見て取れた。
それが気になっていたのだ。



そしてある日の豊田で、目標課題の無かった俺たちは、
豊田のニャー君にゴリッパに連れていって欲しいと頼むことにした。



やるんですか?

...

...まぁま、やばいと思えば逃げるまでよ。

という感じで彼の地に向かうことになったのだった。







実は小生、豊田というエリアには、その前のシーズンから行き始めたばかりだった。
長いことクライミングをやっていて、
豊田に足を踏み入れたことが無かったのだ。

 
しかし明石のツジャンが豊田豊田と岩に誘ってくるのを、
いちいち断っている時期があったのだが、
とうとう
おまえ一回でも豊田行ったことがあんのか?
ないんやったらクライマーとして不幸な奴や!
と言われてしまったのだ。
俺は少しカチンときたが、
そこまで言うならと、一度だけ一緒に行ってみることにしたのだ。

その週は、ダイダとコミヤマに行ったのだったか。

こんなワンダーランドみたいなとこがあったとは!
俺は食わず嫌いでいた事を反省した。同時に強引に俺を豊田に
引き込んだツジャンに感謝した。

晴れて、ツジャン家やおいも家と共に、
豊田に通う日々が始まった。
来る週来る週素晴らしい課題と美しい夕焼けを楽しみに通ったのだった。

広島へ行くことと共に偉大なエリアである豊田を知って、
俺のクライミング人生が豊かになっていくのを実感していた。






そんな事を考えながら、ニャー君に連れられて、
大きな岩の下を廻りこみゴリッパの取りつきに立った。


すごいやんけ!
ああ、もっと早くこの課題に出会いたかった!!

下部は3m程のハング。中間部をのっこすと、
上はでかいスラブだ。
成る程取りつきには、二股に分かれた大きな木が生えている。
上のスラブで落ちれば、木の股に挟まれてえらいことになるのだろうか。
まあ、死にゃせんが、骨折ぐらいはあるかもな、というところか。

それにしても、俺は完全に心を奪われてしまったようだ。
もっと早く触るべきやった。
絶対にこれは登りたい!!

高さ的には、俺の心に描いていた化け物程、危険そうには思わない。
これは1撃コースかとも思ったぐらいだ。
(これはやってみると全然駄目だった。)
上部のスラブもやばいと聞いていたが、
どうみても易しそうである。
それとも俺の目が大節穴なのか。想像を絶することが起こるというのだろうか。
どちらにしても、上部を触るときは完登する時だ。
その時考えればよいことだ。




結果的には、
ゴリッパを登らせてもらうまでに、三度通わなければならなかった。


俺にとってこの課題が良いと思うところは、
将に心技体すべてを、要求されているところだ。
かつ俺には、どうしてもつらいムーブがあって、
遠いホールドをそっぽ向いて手を伸ばして取り、
向き直して更に、デッドでカチを取りにいったりするところがあるのだ。
ムーブに関して事細かく云うつもりは無い。
ただムーブが一杯いっぱいだったと、それだけ。




ゴリッパは、モン氏が(仮称で失礼)初登されたものです。
何度も豊田に足を踏み入れながら、
何故か今まで一度もお会いしたことが無いのが残念です。
小生の豊田通いには、モン氏の自作トポを活用することが多い。

氏の課題をいくつか触ってみて、

この人は多分俺と同じ感じの人なんかなあと思うことが多い。
トポに少し触れられているゴリッパ岩を開拓した時の感動については、

その後の再登者もまた、
その想いを同じくするところだと思います。

さらに小生は思うのです。

いい岩を見つけて、
チョーク跡だけ残して帰る。
そのチョーク跡が消えても、
初登者の足跡を感じるのです。


豊田のエリアはまだまだ行き尽くしてないし、
課題も触りつくしてない。
にもかかわらず、言いたいことがある。


ゴリッパこそ豊田を代表する課題だと。





2007/3/12


5年程前

明石のツヂャンが初登した
尾道を代表する課題。

下界からもそれとすぐ分かる
尾道の記念碑的な岩 ナビオロックの
右舷にその課題は存在する。



ここ尾道で、第1回花崗岩選手権が
開かれた時、
コンペのスタッフであったツヂャンは、
終了後のセッションで、一日の鬱憤を晴らすつもりだったのか、
コンペ参加者の目の前で、
気合の登攀を見せつけたらしい。

その日は相当気温の高い日で、花崗岩には厳しい状態だった。
にもかかわらず、
上部の様子を確認することもなく、
中間部を変体マントルでかたづけてつっこんでいったそうである。

のちに氏曰く、
途中で下を見たら、取り付きの岩盤が見えへんかってん。
もうつっこむしかあらへんからな。

このナビオロックは、大きな岩のふちにのっかっていて、
アンカーの中間部にあるガバに立ち上がってしまうと、
取り付きである岩盤には、
もはや着地することは不可能になってしまうのだ。
当然トライする者の背中には、眼下に見下ろす
尾道の町へ続く空間しか感じられなくなるのだ。

二登は小生。
尾道に於けるこの課題の存在意義はよくわかっていたのだが、自分なりに心の準備が整うまでは、トライは出来ないと思っていた。


ようやくその時が来たのは、初登がでてから2シーズンのちだった。他の課題にひと段落すると、今まで心の片隅に追いやっていた思いが俺を支配するようになっていた。
もはや避けては通れない。


一緒にトライを開始したのは道場のおいも氏だ。

小生たちは中間部の核心で一線を越えられずにいた。
昼間になって山陽のやわらかな陽射しが壁面を照らすようになると、
一層ホールドがきまらなくなってしまった。

その時、おいも氏が着地に失敗して足をぐねってしまった。
やってしまった。
相当痛そうである。
我々は皆クライミングを中断し、彼の介抱にかかった。

俺は車に戻りコンビニに氷を買いに行き、猛ダッシュで帰ってきた。
途中で怪我のおいも氏の事や俺の集中力を考えると、

今日はトライをやめるか...と

気持ちが萎えてきた。


現場でアイシングを続けていたが、そろそろ撤収の準備をしなければならぬ。
俺は時の雰囲気に流されたままだった。

しかし、
その時ふと頭をよぎった言葉があった。


今を逃して何時登れんのやと。

こういう直感に素直に動けるようになったのは、
この時からだったろうか。

俺はおいも氏に最後の一回だけやらしてと伝えた。
このトライで駄目なら、はっきりと今日は諦めよう。

氏は応援すると言ってくれて、身を移動させた。


直ぐにシューズを履き、アンカーの前にたった。
陽はだいぶ西に傾いていた。

一度だけのトライ。集中して取りついた。

ムーヴに不安は無い。ただあの右手だけに...

...ホールドが吸いつく。

...俺は最後ののっこしを、ただ確実に動こうと、

そして楽しんでいた。





俺はナビオの上に立っていた。

振り向けば尾道の空が黄金に輝いていた。

おいも氏と目が合った。

ありがとう。

   



帰阪後の検査で、おいも氏の怪我は骨折である事が分かった。
結果込みで氏もアンカーへの想いは強い。
俺にとってアンカーがいかに大事なものであるか。
それはここ数年の俺のクライミングを象徴する課題だと云えるものだ。
だからアンカーに魅せられてトライした仲間たちとともに、
かけがえの無い俺の宝なのだ。


そのアンカー。
時がたち、
つい最近第3登が達成された。道場ルーキーのオクラッチだ。
ここふた月程彼を見ていて、俺は彼がアンカーを
トライするに十分であるとみていた。

完登シーンこそ見てはいないが、ナビオの上に立ってあげた彼の歓喜の雄叫びを
聞いて俺も嬉しかった。
彼は、尾道ではアンカーを見るなりアンカーしか触らないようだった。
次はどの課題に目を向けるのだろう。

このような若者と、俺たちの岩について語り合えるなんて
こんな楽しいことを、俺は他に知らない。










トライ中のオクラ君

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