「今日はなんか無口なのね」
麻子さんの一言で、目の前の景色が十年前のそれから、今へと戻る。
「すみません。ちょっと思い出していたものだから」
二人で過ごす短い時間の中で、考え事なんて始めてのことだ。麻子さんの機嫌を損ねたのではないか?僕は、こっそり彼女の顔色を窺う。
「何を思い出していたの?」
麻子さんは怒っているわけではなさそうだ。
「友達のことです」
変に嘘はつきたくない、正直に答える。
「この場所を教えてくれた友達のことです」
「女の子?」
ちょっと意地悪そうな表情を浮かべて僕を見る。
「違いますよ。男です、お・と・こ」
強く否定しながらも、心の隅っこでは、麻子さんが嫉妬の表情を見せたことを喜んでいた。
「ふぅん」
もっとこの表情を見ていたい。そんな衝動にも駆られたけれど、かえって二人の時間がギクシャクしたものになるのも厭だ。
「親友でした」
そう答えながら、目の前にはいない和哉に向け「だよな?」と心の中で問いかける。
「過去形なの?」
「もう、ずっと会っていませんから」
「喧嘩したの?」
「いえ、遠く離れているから」
そう答えてから、僕は後悔した。
和哉の死を正しく説明できない。
僕自身が、その理由を理解しているわけではないのだから。
もしここで、「彼は死にました」と言えば、なぜ死んだのかを訊ねられるだろう。そして僕が、「自殺です」と言えば……。「つらい苦悩の末、この世を果敢無んで死んでいった少年」を想い浮かべるかもしれない。けれど、僕は思う。和哉の死はそういった類のものでは無いと。
「海外とか?」
「ええ、まぁ……」
麻子さんが「遠く」を「海の向こう」と捉えてくれた事に感謝した。
「そういえば、マスターが「最近、麻ちゃん来ねぇなぁ」って言ってましたよ」
話題を変えようと、どうでもいい話をした。
マスターが言っていたというのは本当だけど、麻子さんがそんな頻繁に店に来られるとは彼も思ってはいない。それに、僕は店に来てくれることより、こうして会えることのほうが嬉しいのだし。
「そうね、しばらく行っていないかもね」
そう言いながら左手で頬を押さえる。なにか考えるときの麻子さんの癖だ。秋の日差しが、彼女の薬指のリングに反射する。
麻子さんには夫がいる。
出会うずっとずっと前に、彼女は結婚していた。
「再来週あたり行けるかも」
僕が知りたいのは、「次はいつこうして会えるのか」なのに。
「再来週?なん曜日ですか?」
だから、僕が知りたいのはそんなことじゃない。
「木曜日だと思うわ」
じゃあ、僕らが日中会えるのはいつ?
「それではお待ちしております」
かしこまったようにお辞儀をして、おどけてみせる。
「昔はかなり飲んだらしいですね」
僕がそう聞くと、麻子さんは恥ずかしそうに「若気のなんとかよ」と笑う。
「マスターったらおしゃべりね。なんか他にも言ってた?」
「ええ、いろいろと武勇伝を」
「嘘でしょ?」
「はい、嘘です」
僕が聞いたのは、麻子さんが独身時代にあの店の常連だったこと。明るくて、お酒が強くて、店に来る客の中でも人気があったこと。そして、三年前に結婚してからすっかり足が遠のいていたこと。せいぜいそのくらいのものだ。
半年前、僕があの店でバイトを始めたばかりのころ、麻子さんがひょっこり姿を見せた。
厚手のパーカーにジーンズ、足元はスニーカー。「ちょっと散歩にきました」とでもいうような格好だった。
ちょうど他の客がだれもいなくて、マスターは懐かしそうに麻子さんと話していた。
それからちょくちょく、同じようなお散歩スタイルで店に来るようになり、マスターは「麻ちゃん、家で何かあるのかな?」と心配したりしていた。
何度か顔を合わせるうちに、僕は麻子さんが来るのを待つようになっていた。
店のドアが開くたび、「今度こそ麻子さんだ」と期待して見る。そこに他の客の姿を見つけ、がっかりした気持ちを隠しながら「いらっしゃいませ」と言う。「次は」、「次こそは」と思う気持ちが恋だと気付いたのは、店の外で会うようになってからだった。呆れるほどに僕は鈍い。
ふと見ると、麻子さんが『紫苑』の花をつんつんと突っついていた。
初めて僕がこの花を見たときと同じようにそうしているのを見て、嬉しくなった。そして、その姿がとても微笑ましかった。
「その花の花ことばわかります?」
麻子さんは花と戯れながら「ううん、知らない」と答える。
「パイナップルやミョウガの花ことばは知ってるのに?」
僕が意外だと言うように聞き返すと、
「私が知っているのは、その二つだけよ」
と、笑いながら振り向く。
「パイナップルは『完全無欠』。ミョウガは『忍耐』。なんか面白かったから覚えたの」
てっきり花ことばに詳しいのかと思い込んでいた。
「紫苑くんは知っているの?」
そう聞き返されて、
「僕も知りません」
と答えていた。なぜ嘘をついたのか、自分でもわからないままに。
(つづく)

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