最初に俊ちゃんから電話が来たのは、秀明が希美と飲みに行ったあの日のことだった。
美羽がオーストラリアに行ったあと、俊ちゃんと美羽の親友は次第に距離を縮めていったのだという。そして、美羽から帰国の連絡が入ったときには、親友は俊ちゃんの子どもを身ごもっていた。すでに妊娠六ヶ月だったらしい。大きくなってしまったお腹を抱え、「今、美羽に会うことは出来ない」と泣いて訴えたのだという。
困り果てた俊ちゃんは身重の彼女を連れ、ショップも引き払い海辺の町へ引っ越した。
親友の方は、俊ちゃんと美羽が会うことを嫌がった。二人の関係が復活してしまうのではないかと心配していたようだった。
「でもね、自分のせいでアタシと親友の関係が駄目になっちゃったって、後悔してたのね、俊ちゃん。アタシに何度も謝ってた。それで、出産予定日を教えてくれたの。その日は無理でも、いつか、アタシが許せる日が来たら、彼女に会ってやって欲しいって……勝手だよね……」
「それであの日、泣いてたのか?」
「あっ、それは違う」
美羽は強くきっぱりと否定した。
「アタシね、俊ちゃんに本当のこと聞かされても、思ってたよりショックを感じなかったんだ……ああ、そうなんだ……くらいの感じ。変でしょ?」
美羽は泣き笑いのような表情で秀明を見た。秀明は何も答えられない。
「きっとね、秀明さんがいたからなの。あの日、アタシにとってはヒデさんが帰ってこないことの方が不安だったの。俊ちゃんからの電話を切ったあと、一人でヒデさんの帰りを待ってたら……不安で、不安で……このまま、会えなくなったらどうしようって……ヒデさんが帰ってきて、僕は消えたりしないからって言ってくれたとき、本当に嬉しかった」
「美羽」
秀明は美羽を心から愛しいと思った。そして、こんな美羽を疑った自分が恥ずかしくなった。
「あの朝、ヒデさんには話さなきゃって思ってたんだ。俊ちゃんから連絡が来たことを隠すつもりはなかったの。でも、ヒデさんはものすごく慌ててたし、話すタイミングがなくて」
あの日、ちゃんと話をしていればこんなことにはならなかったのだ。秀明は、あのとき美羽が何か言いかけたのを遮って、逃げるように出掛けた自分を悔やんだ。
一度タイミングをはずしてしまうと、あとはなかなか言いだすことは出来なかった。と、美羽は言った。俊ちゃんの話題を出すことで、楽しい時間が壊れてしまうことが怖かったのだと。
「俊ちゃんは、いい人だったの。でも、もう二度と会うつもりはなかった。親友の不安な気持ちもわかるし……アタシを裏切った彼女だったけど、アタシにとっては大切な親友だったから、幸せになって欲しかったのね。でも、彼女はアタシのこと嫌いになってたのかもしれない」
美羽の表情が少し曇る。
「アタシたちね……あ、俊ちゃんとアタシね……結婚資金を貯めてたの。ほんの少しなんだけど……。俊ちゃんはそのことが気になっていたらしくて、ある日、その貯金の半分を送ってよこしたの」
秀明はあのとき見つけた封筒がそれだったのだと気付いた。
「アタシ、いらないと思ってた。俊ちゃんたちも出産とかでお金掛かるんだし、出産祝いにそのお金を返そうかとも考えてたの」
「子どもはもう生まれたの?」
「うん。予定日は九月五日だったけど、一日はやく生まれたの」
美羽が悲しげに答える。
「じゃあ、あの夜中の電話は……」
「無事生まれたことの報告。そして、最後のあいさつ」
「最後のあいさつ?」
美羽にお金を送ったことで、親友が二人の仲を疑って半狂乱になったのらしい。奪ったものはいつか取り返される。そんな強迫観念に囚われていたのかもしれない。二度と連絡を取らないでほしいと懇願され、最後の電話をあの夜中にかけてよこしたのだという。
「俊ちゃんにはヒデさんのことも話してたし、アタシの新しい恋を喜んでくれてた。最後に、幸せになれよって言ってた。だからアタシも、俊ちゃんもねって……」
時間を巻き戻したいと、秀明は思った。あの日、電話を握り締めたままの美羽の話をちゃんと聞いていればよかった。そのもっと前、あの朝に話を聞いていればよかったのだ。自分の手でボタンを掛け違えてしまった。そして、その事に気付かずに美羽を傷付けてしまった。
しかし、過ぎてしまった時間は巻き戻すことは出来ない。
掛け違えたボタンも、一度外さなければ元には戻せない。
傷付いた人の心は……
「雨、小降りになったね」
東屋の屋根の下から外を見て美羽が言う。いつの間にか、激しかった雨は静かな雨音に変わっていた。
「少し外を歩きたいな」
美羽に促され、傘を差して水辺の遊歩道を歩く。
不思議な形の大きな池。
その池の淵をなぞるように造られた、曲がりくねった遊歩道。
「まるで僕たちの人生のようだ」と、秀明は思った。カーブを曲がったとき、足元にどんな石が落ちているのか、目の前にどんな景色が広がるのか、先に進んでみなければわからない。石に気付かずに躓いて転んでしまうかもしれない。それでもまた、立ち上がり歩いていかなければならない。ゴールがどこなのか分からないままに。
「美羽、疑ってごめん」
美羽は静かに首を振る。
「アタシもちゃんと話さなかったから」
両手を傘の外に伸ばし、手のひらで雨を捕まえるしぐさをする。
「でも、話せてよかった。これで終われる……」
秀明は自分の耳を疑った。
「もう、会えないのか?」
「もう、会わない」
美羽は少し前を歩き、振り向かないままに話す。
「アタシは自分の足でしっかり歩ける女の人になりたい。一人が怖くて誰かに寄りかかるんじゃなく、愛する人のそばに自分の足で立っていられる人に。でも、今のアタシはまだ駄目。きっとヒデさんに甘える。寄りかかって、その支えがなければ歩けなくなって、支えを失わない為に必死になって……そんな自分になりたくない。アタシ、ヒデさんのことを愛してるから、ヒデさんと離れて、そのことを実感したから尚更、自分に自信が持てるように頑張りたい。ヒデさんが悔しがるぐらい、いい女になるからね」
立ち止まった美羽が、すっと右手を差し出した。その笑顔はどこか凛としている。秀明は彼女の決意の強さを悟り、その差し出された右手を握りかえす。
美羽の掌の温もりが皮膚の表面を伝わって、次第に冷えきっていた秀明の中へと広がっていく。美羽と暮らした日々が鮮やかに甦ってきて、秀明の胸を締め付ける。
秀明は握ったその手の力をそっと抜く。少しずつ離れていく二つの手。最後の指が離れる瞬間、秀明は躊躇った。「離したくない」と、口に出したい衝動を抑えながら、
「さようなら」
愛しているという言葉を呑みこみ、笑顔で別れを告げた。
人生という長い旅の途中で出会い、閉ざしてきた心の扉を開いてくれた美羽。
彼女の温もりを秀明はいつまでも忘れたくないと思った。
彼女を愛したことを決して忘れることはないだろう。
そして、これが美羽の言っていた「変わらぬ愛」なんだと。
美羽の後姿を見送り、秀明はマンションへの道をひとり帰る車で走っている。
フロントガラスを濡らす雨も、やがて雪に変わるだろう。
もうすぐ冬がやってくる。
(了)

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